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第九章 墨坂の決戦

第48話 事代主の覚悟

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 磐余彦いわれひこ率いる日向ひむかの軍勢は、激闘の末に墨坂すみさか兄磯城えしきの軍勢を破った。
 これにより、残る敵は長髄彦ながすねひこ率いるヤマト本隊のみとなった。
 勝利のあと磐余彦は三輪山みわやまの中腹に陣を張り、兵を休ませていた。
 そこへ剣根つるぎねが数人の供を連れて現れた。宇陀から駆けつけてきたのだ。
「大勝利おめでとうございます」
「おお。いましこしらえてくれた強い剣ややじりよろいのお蔭で勝つことができました。心から礼を言います」
「もったいないお言葉。戻ったら天目一箇神あめのまひとつのかみに御礼を申し上げましょう」
 剣根は製鉄・鍛冶の神名をあげて破顔した。

「今日は客人をお連れしました」
 剣根は後ろに控えている小柄な男を紹介した。
 高価な絹衣を纏い、翡翠や璧玉の首飾りをした立派な身なりの老人である。
 顔は皺だらけだが、瞳の奥に宿る輝きに大人たいじんの風格を漂わせている。
事代主ことしろぬしさまでございます。わしとは古い付き合いで、このたび磐余彦さまにお目に掛かりたいと仰せになり、お連れいたしました」
 三輪山一帯に勢力を張る事代主の一族は、ヤマトの中でも有力な豪族の一つである。
 現ヤマト王のニギハヤヒにとっても、三輪一族の意向は無視できない。
「はるばる日向よりの遠征、陰ながら見守っておりました」
「田舎者ゆえ、ヤマトの方々にはさぞご不興を買っているかと心配しておりましたが、こうしてお迎えいただき感謝のきわみです」
 二人は挨拶を交わしながら、互いの度量を計り合った。
 磐余彦はヤマト政権の重鎮、事代主と初めてまみえながら、威厳とともに不思議な懐かしさを覚えた。
――塩土老翁しおつちのおじに面影が似ている。
 日向の残してきた師のことを思い出し、束の間の郷愁にかられた。
 一方事代主は、この若者がたぐい稀な貴相の持ち主であることに驚いていた。
 気品ある風貌や滲み出る知性は、ヤマト豪族の若者に比べても少しも見劣りはしない。
 むしろ口先だけの小生意気な青二才に比べて、遥かに胆力を備えているように映る。
――だが人は見た目だけではない。一見高貴なかおをしていても、心根は卑しい者を数多く見てきた。果たして中身はいかがなものか?

 そんな事代主の内心を知ってか知らずか、磐余彦は静かに語り始めた。
「我らはただ征服することが目的で、ヤマトに入ろうとしているのではありません。事代主さまもご承知のように、いま唐土もろこしは千々に乱れております。だがいずれ必ず強大な政権が生まれるでしょう。吾はその脅威が倭国に及ぶ前に、国を一つに束ねたいと願うのです」
 ヤマトが小国家(クニ)の緩やかな連合体であることは、卑弥呼を女王としていただいていた時代から変わらない。
 ただかつては代表者たる王(女王)の力が強大で、外国との通交にも王の承認が必要だった。
 ところが今は、各豪族が個々に外交通商を行う方式に戻っている。
 すると或る豪族が親しくする国と、別の豪族の友好国の間で紛争が起きた場合、豪族同士の利害が絡んで右顧左眄うこさべんし、国としての統一した外交方針がなかなか定まらない。
 それが続けば国の紐帯ちゅうたいが緩み、つ国に付け入られるのは火を見るより明らかだった。

 磐余彦が続ける。
「卑弥呼さまの頃はただ魏に遣いを送っていればよかったでしょう。しかしいまの唐土は政権が代わり、周辺の国も大きく変わりました。なのに倭国はいつまでも様子を窺うだけで、自ら動こうとはせぬ。これでは大国に隷属れいぞくする関係から永久に抜け出せないと存じます」
「つまり唐土の行く末がどうなろうとも、倭国は倭国で、自律的に動かねばならぬと言われるのですね」
 事代主が真意を念押しする。
「そうです。ヤマトも吉備も、そして出雲も筑紫も日向も、ともに手をたずさえて〈国家〉を造らねばならぬ時が来たのです。今のような小国同士の繋がりのままでは、いつまで経っても強大な外国には太刀打ちできぬでしょう」
 言葉が次第に熱を帯び、磐余彦は身ぶり手ぶりも交えて語った。
 磐余彦が目指したのは〈建国〉、つまり倭国全体を統治する一個の政権を樹立することである。
 事代主は黙って磐余彦の話を聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「磐余彦さまが国をうれうお気持ちは十分承りました。これまでヤマトの内でも、豪族がそれぞれ軍を持つだけでなく、一つに束ねるべきと語り合った時代もございました。なれどその度に一部の者の反対に遭って立ち消えになり、今に至っているのです」
 時の権力者にとっても、旧弊を改めて新しい制度を実行するのは口で言うほどやさしいものではない。
 権力基盤を支えてきた層の利害も絡み、抵抗は必ずある。
 無理に押し進めれば自らが足をすくわれる恐れもある。
 それを恐れてみな二の足を踏むのである。

「いっそ旧態のしがらみとは無縁のあなた様のような方が、新たに国造りをするほうが遥かに容易たやすいかもしれません。ただし急ぎすぎれば国は乱れ、民が苦しみます。それでもやるべきだと?」
 念を押すように事代主が訊ねた。
「確かに、豪族たちも多くは反対するでしょう。民もいきなり『国家』と言われても、はじめは戸惑うかもしれません。だが唐土の行方が定まらない今だからこそ、やってみるべきだと考えます」
「ただし民は食えなくなれば怒り、怠け、最後には逃げるもの。民を治めるのは一筋縄ではいかないというのが、この老いぼれの知るところです」
「ならば、事代主さまは民をどう扱うべきだとお考えですか?」
 今度は磐余彦が訊いた。
 だが事代主は答えない。
 逆に「磐余彦さまはどうすればよいと?」と聞き返してきた。目に光が宿っている。
 事代主は明らかに磐余彦を試している。
 磐余彦の可能性と限界を見極めようとしているのかもしれない。

 磐余彦はひとつ息を吸って、思うところを正直に述べた。
「吾が思うに、よき国造りとは民の日々の暮らしに安寧を与え、長く続けることでしょう。そのためには民に食べる物と住む場所、そしてすこやかなる暮らしを与えることが肝要かと考えます」
 事代主がうなずいた。ただし目の光は消えていない。
「しかし、そのためには上に立つ者はまずおのれが正しいと思う政策を立て、誠意をもって実行しなければなりません。そうしなければ豊かな国など絵に描いた餅になってしまいます。民の声にはできるだけ耳を傾けつつも、己が正しいと信じるなら、たとえ民が従わない場合でも果断に事を進めなければならないと考えます」
 事代主は「ほう」と目を見開いた。
「仮にその時に暴君と呼ばれようとも、吾は怖れません。名君か暴君であるかの判断は、後の世の人に任せればよいことです。為政者と民とでは、評価が真逆になることもあるでしょう。また時代によって評価が一変することもありましょう。唐土でも若い頃は名君と呼ばれた皇帝でも、年を経るに従って暴君に豹変ひょうへんすることもあると聞きました。つまり暴君と名君の差は紙一重なのかもしれません。むろん吾は暴君とは呼ばれたくはありませんが…」
 最後は笑顔で答える磐余彦に、事代主も思わずつられて笑った。
――この若者には恐れを知らない気概がある。これは今のヤマトにはないことだ。世間知らずの田舎者と言ってしまえばそれきりだが、この爽やかなまでの素直さには抗しがたい魅力がある。しかも言葉には未来を見据えた重みも感じる。果たしてこれは神意なのか……。
 事代主はいつの間にか、この若者に好意を抱いていることに戸惑いを覚えた。
 
 そんな事代主の心を知ってか知らずか、磐余彦は拳を握って熱く語った。
「むろん民を幸せにすることが、王たる者のもっとも大事な務めでありましょう。しかし吾は倭国のような小国はまず、外国からの侵略を防ぐことを優先すべきだと思うのです。吾は日向で師から『蟹の甲羅のごとく硬く、はさみのごとく鋭く』が国防の肝である、と教わりました」
 磐余彦は話しながらふたたび塩土老翁の顔を思い浮かべた。
 その意味は、蟹の甲羅のように守りが堅ければ、敵もいたずらに攻める気持ちは持たない。だがこちらが隙を見せれば、初めはその気がなくともよこしまな心が芽生えるであろう。ゆえに相手に邪心を抱かせぬことも、良きまつりごとが目指す道である、ということである。
「心に響くお言葉です。歓心を買おうとして綺麗事を並べる者が多い中、大変珍しい」
 事代主の言葉が磐余彦を現実に引き戻した。
「吾は民にはただ楽をさせればよい、とは思わないのです。国にとって何が善で何が悪か、何が栄える道で何が滅びる道か、民にも学ぶ機会を与えることが必要だと考えます。そうして民に学ばせ、豊かになる道を自ら選べることが、良い政なのではないかと吾は考えます」
 あくまでも冷静に言葉をつむぐ磐余彦。
「たしかに、その考えは理にかなっています。それが実現するためにも政が安定しなければならないのも道理です」事代主は何度も頷いた。

 しかしここで磐余彦は突然頭を掻いた。
「とはいえ、その機が熟しているか否か、今がその時なのかは吾にも分かりません」
 心持ち顔を赤らめながら率直に胸の内を明かす。
 そんな磐余彦の姿を見て事代主は思わず微笑んだ。
「本当に飾らないお方だ」
 そう呟いたのを最後に、事代主は固く目をつむった。
 磐余彦の掲げる理念が、果たして今この国にとって正しい道で、しかもそれが成就するか否かは事代主にも分からない。
 ただこれは事代主にとって大きな賭けである。
 磐余彦が三輪一族の命運を託すに足る人物か、そして今が「その時」か、見極めが必要である。
 診立みたてを誤れば、一族ことごとく無残なむくろを晒すことにもなりかねない。
――それでも……。
 事代主は顔を上げ、まっすぐ磐余彦の目を見て言った。
「この老いぼれの身、存分にお使いください。磐余彦さまの国を憂うお気持ちに、我が身を捧げましょう」
「事代主さま!」
 磐余彦は事代主の前に膝を進め、両手を握った。
 事代主の手は、老人とは思えぬほど力強かった。
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