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第九章 墨坂の決戦
第49話 美しい媛
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気がつくと日が傾きはじめていた。
会談が始まってからすでに長い時間が経ち、磐余彦は不意に喉の渇きを覚えた。
その時、馥郁たる香りが漂ってきた。
一人の女が茶を運んできたのである。
長い黒髪に細い金色の櫛を挿し、上品な青い衣に身を包んだ、楚々とした佇いの女だった。
事代主が紹介した。
「我が娘、踏鞴五十鈴媛でございます」
目を合わせた瞬間、磐余彦は雷に撃たれたような衝撃を覚えた。
黒目がちの瞳にすっと通った鼻、形のよい唇を持った見目麗しい女性である。
思わず魅入っていると、艶やかな頬にほっと赤みがさした。
心なしか瑞々しい白い肌までが朱に染まったように映った。
その時磐余彦が感じたのは、これまで出逢ったどんな女性にも感じたことのない、嫋嫋と絡みつく甘い余韻だった。
磐余彦はいつの間にか口元が緩んでいることに気づき、慌てて唇を引き結んだ。
夕日がやけに眩しく感じたのは、気のせいだったのか――。
大和盆地に冬の気配が色濃くなった。
磐余彦たちが布陣する三輪山の中腹からは、耳成山、畝傍山、天香具山の大和三山の姿がくっきりと見える。
その向こうには、葛城山系の山々が横たわっている。
勇将長髄彦率いるヤマト軍本隊は、耳成山の麓に兵を集結させて日向の軍勢を迎え撃つ態勢を固めていた。
双方の距離は約一里(約四キロメートル)ほど。
軍勢とはいっても日向軍はわずか二百。対するヤマト軍は優に千を越える。
その後方には、ヤマト王ニギハヤヒ直属の精鋭八百余も控えている。
兵力では依然として日向軍が圧倒的に不利である。
三輪の豪族事代主は、表向きは中立を唱えており、直接の加勢は控えている。
ただし密かに日向軍へ武器の補給を続け、ヤマト軍の詳細な動向を知らせてくれている。
戦いが膠着状態に陥って何日か過ぎたころ、椎根津彦が「奇兵」と「少衆」の策を献言した。
「奇兵」とは『六韜』の〈竜韜〉にある用兵術で、戦いに応じて兵を千変万化に行動させ、敵を混乱させる法である。
「少衆」は同じく〈豹韜〉にある法で、多数の強力な敵軍に対して少数の弱兵で戦って勝つ戦術である。
日中、日向軍は敵の正面から攻めず、大和盆地の南に位置する多武峯を迂回して、ヤマト軍の側面や後方から散発的に奇襲を仕掛けた。
ヤマト軍が追って来れば敢えて戦わずに逃げた。
日向兵は草木が深く繁る場所に潜んでいるため、ヤマト軍が矢を射かけても木や草むらに遮られ、容易に追撃することができなかった。
深追いしたヤマト兵は狭い谷に誘いこまれ、上から岩や丸太を落とされて怪我人が続出した。
やがて日没となった。
ヤマト兵は疲れた身体を引きずって自陣へ引き揚げ、竈を組んで煮炊きを始めた。
兵士たちが粥と薄い汁の夕餉にありつこうとしたとたん、不気味な風音が舞った。
矢の飛翔音である。
矢は三輪山とは反対の畝傍山の方角から飛来してきた。
まんまと背面を突かれたのである。
兵士が三、四人、ぎゃっと悲鳴を上げて倒れた。いずれも背中に矢が突き立っている。
「敵襲だ!」
叫んで立ち上がった兵士にも二本の矢が刺さり、うめきを上げて倒れたきり動かなくなった。
あたりには椀からこぼれた粥や汁の臭いが立ちこめた。
焚火に落ちた椀や杯がくすぶって、もうもうと煙を上げている。
ヤマトの陣は大混乱に陥り、もはや夕食どころの騒ぎではなくなった。
その混乱に乗じて道臣率いる奇襲部隊が突撃した。
敵の只中に斬り込んため矢を射られる隙を与えず、道臣はあっという間に五、六人を斬った。
剣根が丹精込めて鍛えた片刃の鉄剣は、軽い上に頑丈だった。敵の剣と打ち合えば簡単に折った。
白兵戦における道臣はまさに無敵の剣士といえた。
そのころになると、ようやく敵陣から矢が射返されるようになった。
だが日向兵は鉄板を貼った木盾で防いだ上に、胴には短甲という鉄の鎧を装着していたので、ほとんど怪我人は出なかった。
これらもすべて剣根が拵えた防具で、優れた鍛冶師の存在が如何に重要か、日向兵は改めて思い知った。
三輪山は優美な山容だが山襞が多く、兵を潜ませるのにはまことに都合のよい地形である。
弟猾と弟磯城、八咫烏から成る遊撃隊は、後方に陣を張るヤマトの補給部隊を襲い、大混乱に陥れた。
石押分の子とその仲間は、茂みを利用して巧みに相手に近づき、ムササビのような動きで樹から樹へ飛び回って敵の弓隊を狙い撃ちした。
井光と苞苴担の子の小隊は、落とし穴を掘ったり罠を仕掛けるなどして敵を攪乱して戦意を削いだ。
いずれも縄文系の民が得意とする狩りに根ざした戦術である。
磐余彦率いる日向軍本隊は、耳成、畝傍、天香具山の大和三山を見下ろす三輪山の高台に布陣していた。
ヤマト最強を誇る長髄彦の本隊に対し、日向軍は果敢に戦い、軍師の椎根津彦は敵陣の手薄な所を見出し、的確な指示を与えて数的不利を感じさせなかった。
そして総大将の磐余彦も、剣根が拵えた片刃の剣を手に溌剌と戦場を駆け巡った。
軽くてよく斬れる片刃の剣という〝新兵器″は、剣の達人道臣だけでなく剣のあまり得意ではない磐余彦にも活躍の場を与えた。
ただし磐余彦はむやみに敵を殺したりはしなかった。
剣先で二の腕や太腿をさっと斬るだけだ。
それだけで敵は剣を手離し、戦意を喪失する。
敵兵の多くは農民出身で、戦いが終わればそれぞれの村で働き手としての役目を果たすことになる。
仮に手傷を負って農作業に多少の支障が出たとしても、なんとか生きていくことはできる。
殺してしまったら、今まで生きてきたことが無駄になる。
今は殺すか殺されるかの戦いをしている関係だが、磐余彦はそうした若者たちの未来を費えさせたくなかったのである。
(第九章終わり)
会談が始まってからすでに長い時間が経ち、磐余彦は不意に喉の渇きを覚えた。
その時、馥郁たる香りが漂ってきた。
一人の女が茶を運んできたのである。
長い黒髪に細い金色の櫛を挿し、上品な青い衣に身を包んだ、楚々とした佇いの女だった。
事代主が紹介した。
「我が娘、踏鞴五十鈴媛でございます」
目を合わせた瞬間、磐余彦は雷に撃たれたような衝撃を覚えた。
黒目がちの瞳にすっと通った鼻、形のよい唇を持った見目麗しい女性である。
思わず魅入っていると、艶やかな頬にほっと赤みがさした。
心なしか瑞々しい白い肌までが朱に染まったように映った。
その時磐余彦が感じたのは、これまで出逢ったどんな女性にも感じたことのない、嫋嫋と絡みつく甘い余韻だった。
磐余彦はいつの間にか口元が緩んでいることに気づき、慌てて唇を引き結んだ。
夕日がやけに眩しく感じたのは、気のせいだったのか――。
大和盆地に冬の気配が色濃くなった。
磐余彦たちが布陣する三輪山の中腹からは、耳成山、畝傍山、天香具山の大和三山の姿がくっきりと見える。
その向こうには、葛城山系の山々が横たわっている。
勇将長髄彦率いるヤマト軍本隊は、耳成山の麓に兵を集結させて日向の軍勢を迎え撃つ態勢を固めていた。
双方の距離は約一里(約四キロメートル)ほど。
軍勢とはいっても日向軍はわずか二百。対するヤマト軍は優に千を越える。
その後方には、ヤマト王ニギハヤヒ直属の精鋭八百余も控えている。
兵力では依然として日向軍が圧倒的に不利である。
三輪の豪族事代主は、表向きは中立を唱えており、直接の加勢は控えている。
ただし密かに日向軍へ武器の補給を続け、ヤマト軍の詳細な動向を知らせてくれている。
戦いが膠着状態に陥って何日か過ぎたころ、椎根津彦が「奇兵」と「少衆」の策を献言した。
「奇兵」とは『六韜』の〈竜韜〉にある用兵術で、戦いに応じて兵を千変万化に行動させ、敵を混乱させる法である。
「少衆」は同じく〈豹韜〉にある法で、多数の強力な敵軍に対して少数の弱兵で戦って勝つ戦術である。
日中、日向軍は敵の正面から攻めず、大和盆地の南に位置する多武峯を迂回して、ヤマト軍の側面や後方から散発的に奇襲を仕掛けた。
ヤマト軍が追って来れば敢えて戦わずに逃げた。
日向兵は草木が深く繁る場所に潜んでいるため、ヤマト軍が矢を射かけても木や草むらに遮られ、容易に追撃することができなかった。
深追いしたヤマト兵は狭い谷に誘いこまれ、上から岩や丸太を落とされて怪我人が続出した。
やがて日没となった。
ヤマト兵は疲れた身体を引きずって自陣へ引き揚げ、竈を組んで煮炊きを始めた。
兵士たちが粥と薄い汁の夕餉にありつこうとしたとたん、不気味な風音が舞った。
矢の飛翔音である。
矢は三輪山とは反対の畝傍山の方角から飛来してきた。
まんまと背面を突かれたのである。
兵士が三、四人、ぎゃっと悲鳴を上げて倒れた。いずれも背中に矢が突き立っている。
「敵襲だ!」
叫んで立ち上がった兵士にも二本の矢が刺さり、うめきを上げて倒れたきり動かなくなった。
あたりには椀からこぼれた粥や汁の臭いが立ちこめた。
焚火に落ちた椀や杯がくすぶって、もうもうと煙を上げている。
ヤマトの陣は大混乱に陥り、もはや夕食どころの騒ぎではなくなった。
その混乱に乗じて道臣率いる奇襲部隊が突撃した。
敵の只中に斬り込んため矢を射られる隙を与えず、道臣はあっという間に五、六人を斬った。
剣根が丹精込めて鍛えた片刃の鉄剣は、軽い上に頑丈だった。敵の剣と打ち合えば簡単に折った。
白兵戦における道臣はまさに無敵の剣士といえた。
そのころになると、ようやく敵陣から矢が射返されるようになった。
だが日向兵は鉄板を貼った木盾で防いだ上に、胴には短甲という鉄の鎧を装着していたので、ほとんど怪我人は出なかった。
これらもすべて剣根が拵えた防具で、優れた鍛冶師の存在が如何に重要か、日向兵は改めて思い知った。
三輪山は優美な山容だが山襞が多く、兵を潜ませるのにはまことに都合のよい地形である。
弟猾と弟磯城、八咫烏から成る遊撃隊は、後方に陣を張るヤマトの補給部隊を襲い、大混乱に陥れた。
石押分の子とその仲間は、茂みを利用して巧みに相手に近づき、ムササビのような動きで樹から樹へ飛び回って敵の弓隊を狙い撃ちした。
井光と苞苴担の子の小隊は、落とし穴を掘ったり罠を仕掛けるなどして敵を攪乱して戦意を削いだ。
いずれも縄文系の民が得意とする狩りに根ざした戦術である。
磐余彦率いる日向軍本隊は、耳成、畝傍、天香具山の大和三山を見下ろす三輪山の高台に布陣していた。
ヤマト最強を誇る長髄彦の本隊に対し、日向軍は果敢に戦い、軍師の椎根津彦は敵陣の手薄な所を見出し、的確な指示を与えて数的不利を感じさせなかった。
そして総大将の磐余彦も、剣根が拵えた片刃の剣を手に溌剌と戦場を駆け巡った。
軽くてよく斬れる片刃の剣という〝新兵器″は、剣の達人道臣だけでなく剣のあまり得意ではない磐余彦にも活躍の場を与えた。
ただし磐余彦はむやみに敵を殺したりはしなかった。
剣先で二の腕や太腿をさっと斬るだけだ。
それだけで敵は剣を手離し、戦意を喪失する。
敵兵の多くは農民出身で、戦いが終わればそれぞれの村で働き手としての役目を果たすことになる。
仮に手傷を負って農作業に多少の支障が出たとしても、なんとか生きていくことはできる。
殺してしまったら、今まで生きてきたことが無駄になる。
今は殺すか殺されるかの戦いをしている関係だが、磐余彦はそうした若者たちの未来を費えさせたくなかったのである。
(第九章終わり)
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