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割れたマグカップ

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 お気に入りのマグカップ。
 それはむかし、私の手をすり抜けるように足元へ落ちた。
 大切なものはいつも掴むことができなくて……そして、砕け散る。

 あのときの破片は白かったけど、いまは赤。

 失われていく血と命はトクトクと染み出て、乾いた地面に吸い込まれてゆく。
 私の眼は、その様子を呆然と見つめていた。
 ……きっと私は、死んでしまうのだろう。

 ――死ぬ

 その言葉の意味を、私は、辞書を引いて知った顔をしていた。
 けれど、本当はその意味を理解してなんていなかったんだ。

 だってこんなにも冷たくて。
 寂しくて、切なくて、痛くて痛くて……心がはり裂けてしまいそうなほど辛いなんて知らなかった。

 寒い。さむい。さむい――

 音も、においも、全てが私の手元を離れて。
 温もりを失った体とは逆に、顔だけは熱を帯びてゆく。視界すら、ぼやける。
 役目を終えようとしている瞳が最後に、誰かの影を映した。



 ◆




 沈んだ意識の底に、音が響いた。

 画用紙を重ねて切るような厚みのある音。
 それは一定の間隔で水音を交えて、子守唄のように染み渡る。
 やがて、そこにもうひとつ。私の寝息がまじわった。
 意識して呼吸をすると、胸が少しだけふくらんで。書道の時間のにおい……墨の匂いが鼻をついた。
 
 これはペンが走る音なのかもしれない。
 あたりをつけてからまぶたを開く。
 少しずつ、ほんの少しずつ。そこにいる誰かに気付かれないように。

 最初に感じたのは光だった。
 橙色だいだいいろの、やわらかい光。
 それは天井の、石のようなものから降り注いでいるようだ。

 目で追う左側には木製の壁と、窓。
 ここは家のなかなのだろう。
 天井と同色の光をもたらす窓を軽く見やって。
 反対側を見ると、小さく肩を動かす亜麻色あまいろのローブがあった。

 上に乗っている頭は白色。
 真っ白な後ろ髪を、瞳が映す。
 短く切り揃えられたそれは、少しツヤが失われているように感じる。

 ぼんやりと髪をながめていると、頭のなかに色々なことが浮かんできた。
 保健室の、きんもくせいの匂い。
 黒穴に呑まれた私の足。
 近づいてくるかたい地面。
 その後に続いた、冷たくて暗い、闇。

 ――死の感触が蘇る

「はぁっ……はぁっ……!」

 そうだ、私はどうなってしまったの?
 あれは現実? それとも夢?

 呼吸が浅くなる。
 命を確かめるように心臓が跳ねて、鼓動が耳にかじりつく。
 肺がせわしなく動いて空気を取り込むなか。
 視界の中央、白い髪が揺らめいた。

 あとを追うローブが衣擦れの音を奏でる。
 床の小さな軋み声とともに、白髪の主はこちらを向き直った。

「――目が、覚めたようじゃな」

 紡がれたのはしわがれた声だった。
 声の主は、白い口ひげを生やしたおじいさん。
 混乱していた私の視線は、彼の青い瞳に結ばれた。

 海のように深い青。
 それは絡まった毛糸をほぐすように、私の恐怖を、やさしく和らげてくれた。
 細まったまぶたの向こうに広がる、瞳の海に沈んでゆく。
 私の意識を抱きとめてくれる、深い海へと。

 たくさんの怖いものが、吐息にのせて排されて。
 代わりに肌寒い空気が肺を満たした。
 そんな墨の匂いが混じった空気をんでいたら、突然に涙がこぼれた。

「え……?」

 私の動揺を置き去りにして、あとからあとから雫は落ちる。
 どうして泣いているのかなんてわからない。
 わからないけど、涙はいくら拭いてもあふれてくるのだ。

 安心したから。
 怖かったから。
 辛かったから。

 ……たぶん、全部違う。

 これは悲しいときに出る涙だって、目をこすっているうちにわかった。
 なんで悲しいのかなんてわからない。
 ただただ、どうしようもなく悲しいのだ。

 ひっくひっくと喉が鳴って苦しい。
 泣きやまなきゃ。そうあせるごとに、しゃっくりみたいな衝動は強くなってゆく。
 うつむいた先。力いっぱい握りしめた私の手が、真っ白になっているのが見えた。

「……たくさん泣くといい」

 言葉とともに、頭に固いものが触れられた。
 おこうと墨の匂いが混じる布が鼻を撫でて。
 遅れて視線をあげると、骨と皮ばかりの腕が目にとまった。

 おじいさんの手が、私の頭を優しく撫でる。
 心の悲しさを包み込むような……あたたかい手で。

 ゴツゴツとした固い手のひら。
 けれども、優しいそれが心地よくて。
 私は少しのあいだ悲しみを忘れて、彼の優しさに身をゆだねた。



 ◆



 喉のけいれんが落ち着いて、涙も勢いを弱めたころ。
 私はようやく起きあがった。

 胸元までを隠していた毛布をめくると、そこにあったのはいつもの服じゃなかった。
 ゆったりとした麻のチュニックが身を包んでいる。
 でも今は、そんなことどうでもいい。

「ねえ……おじいさん」 

 おじいさんの背中。亜麻色あまいろのローブに向けて、すがるように声をかける。
 泣き顔を見ないように気を使ってくれたのかもしれない。
 彼は、私が座るベッドに腰かけて、背を向けて佇んでいた。

「私、どうなっちゃったの……?」

 それが心をざわめかす。
 優しい瞳が見えないことが怖くて。
 気付けば私の手は、彼の手先へと伸ばされていた。

「――生きているよ」

 答えは間をあけずに告げられた。
 空気を伝う言葉を追いかけるように、おじいさんはこちらを向き直る。

「君は生きている。胸に手をあててみるがよい」

 そして同じ言葉を送り出す。
 強い語調と、私の手を握り返す力が裏付けてくれた。
 言葉の、正しさを。

 それでも臆病な私は、自由な方の手を胸元に添えてみる。……聞こえた。
 あのとき遠ざかっていった命の鼓動が、確かにここにあった。

「ほっほ。……この指を、よおく見ておいてな?」

 文字通り胸を撫で下ろす私を見て、お顔のしわを集めて彼は笑う。
 笑みを浮かべたまま、彼は右腕を空へと伸ばし、五本全ての指をピンと立てた。
 指先がぼんやりとした明かりを宿し、そこに小さな光の粒が集まってゆく。
 おじいさんは光る指先をはしらせた。
 一本一本の指が別の生き物のように動いて、そのあとは白く光り、飛行機雲のようにたなびいて、連なって、五つの形を完成させる。

「わぁ……!」

 直後、それは空中で弾けた。

 浮かんでいた光の破片は、花びらとなって宙を舞う。
 何もない空間から生み出された花片は、やがて床に落ちて消えた。
 まるでアスファルトに吸い込まれる雪みたいに、溶けるようにして。
 光は美しく……けれど、少しだけ寂しく思えた。

「これが『魔術』。ここが元いた世界ではないことの証明で、君の怪我を治した方法じゃよ……『転移者』さん」

 語りながら、おじいさんは再び指先をはしらせる。
 宙に描かれた光の線は水となって、いつの間にか取り出されていたカップに吸い込まれた。
 彼はそれを一口飲んでから私に差し出す。

「ほら、お飲みなさい」

 私は手渡された水を受け取って、短くお礼を伝えた後こくこくと飲みほした。
 それはただの水で、よく冷えていたわけでもないけれど。
 たくさん涙を流して乾いた体に染み渡った。



 ◆



 注がれた水が底にわずかを残して消えたころ。
 私の疑問は全て、おじいさんによって答えられていた。

 彼が言うには、ここは私が元いた世界とは違う世界。
 世界に開いた“穴”に吸い込まれる形で、私は世界を『転移』してしまったとのことだった。
 『転移』した私は、空中から放り出されてしまったらしい。

 それは、まるで昨夜に読んだ本――鏡の国のアリスのような話だった。
 普段なら信じられないだろうけど、おじいさんに見せてもらった『魔術』のことがある。加えて、何の傷も残っていない体も証拠となるだろう。
 真っ赤に染まっていた私の体。痛みと寒気、恐怖……あれは夢なんかじゃ決してない。
 夢なんかじゃない。なのに、いまの私にはすり傷ひとつ残っていないのだ。
 さっきチュニックをめくって確認したから間違いない。
 
 ここは、そんな魔法のようなことが起こる世界――私にとっての、異世界の孤児院のようだ。
 四人の身寄りのない子どもたちがここで生活をしていて、おじいさんはここの職員さんであり、管理人さんでもあるらしい。
 私も、ここに置いてくれると言っていた。

 転移について。これからについての話が済んだあと。
 私が訊ねたのは記憶についてだった。

 自分自身よくわかっていないのだけど、今までの記憶がへん・・になっているのだ。
 昨夜、何度も読んだ本を引っぱり出してきて、もう一度最初から読みなおしたこと。
 朝食べたパンとコーヒーの味。
 お父さんとお母さんとの会話。
 なかやすみの時間に、友達と話したビーズ細工のはなし。

 ぜんぶ覚えている。
 でも、それを体験したのが自分だって思えない。
 映画の主人公を見ているみたいに、記憶のなかの私の目線は宙を浮いてるのだ。

 そして私は、自分の名前が思い出せないでいた。
 なんとなく、昔みた名前を奪われてしまう映画を思いだして怖くなった私は、思いきって訊いたのだった。

 あやふやな私の説明を聞くのは、それはそれは大変だったと思う。
 けれど、おじいさんは伝えたかったことを理解してくれたらしい。
 しわに囲まれた目を細めて、少し間をおいてから。
 彼はゆっくりと口を開いた。

「異世界からやってきた人はそうなってしまうらしいのう。残念じゃが、もとの状態や世界に戻ることは……できない」

 言葉はひとつひとつがためらいに満ちていて。
 私に伝えていいのか、やめた方がいいのか、考えながら話しているように感じた。

 普段の私なら、二度とお母さんやお父さん、友達に会えないなんて言われたら泣きわめいたかもしれない。
 でも、不思議と今の私にショックはなかった。
 “そうなんだ”……お気に入りのマグカップを割ってしまったときよりも、帰れないという言葉は私の心を揺らさなかった。
 もしかしたら、私の記憶がへんになってしまったせいなのかもしれない。


 記憶といえば。
 私はこの世界の言葉なんて習っていないのに、何故かおじいさんと話せている。
 それについて訊いたところ、この世界では“想い”を“言葉”にできるのだと言っていた。
 よくわからないけど、便利なのでそれ以上は訊かなかった。

 理科の授業で習ったのだけど、生き物は環境に“順応”するらしい。
 動物の体毛が地域によって濃くなったりするように。鳥が都会で巣作りに不燃ゴミを使うように。
 私の体も、この世界に順応しようとしているのだろうか。



 ◆



「……ありがとうございます」

 もらった情報を噛みくだいて、残った水とともに飲み下したあと。
 私は、空のカップを手渡しながらお礼を告げた。

「助けて頂いて、本当に。とっても怖かったんです……苦し、かったんです」

 不慣れな敬語で。
 せばまる喉に邪魔されながらも、想いを伝える。

「そんな時おじいさんの影が見えて、今もそばにいてくれて。私は救われました」

 カップに伸ばされた彼の腕。
 それは私の手を、上から包み込んでくれた。

「……そうか」

 口ひげをもぞりと動かして返された言葉は、とても短くて。
 でも、手のひらはとても……温かかった。

 不器用な私の言葉を、笑わずに聞いてくれたことが嬉しくて。
 じんわりと胸に広がる優しさを味わっていたら、手の内のカップがするりと抜けた。

「これから君は、ここで生活をすることになる」

 小さな咳払いのあと、おじいさんはカップをもてあそびながら言った。

「しかし、名前がないと不便だしのう。君の名前を決めたいんじゃが――」

 途切れた言葉の間。
 口端が歪み、彼の瞳が遠まった。
 しかしそれも一瞬のこと。おじいさんは再び、何でもなかったように言葉を継げる。

「わしが決めてもいいし、自分で決めてもいい。……さあ、どうする?」

 話の尾は問いで締められて、カップは机に座らされた。 
 私は考える。

 アサガオや金魚の名前と違って、これからこの世界で私が使い続けることになる名前だ。
 考えなしに決めて、のちのち恥ずかしくなってしまったら困る。
 いくつか候補は浮かぶものの、自分に似合っているか、違和感はないかと考えたら自信がない。
 だから、私は二つの間をとることにした。

「おじいさんに名前の案をいくつか出してもらって、その中から決めるのはダメ、かな?」

「ふうむ、そうじゃのう」

 おじいさんは少しの間考え込んで、いくつかの案を出してくれた。

 『サーシャ』『ラライ』『ローヌ』『プリム』『アトラ』そして最後に彼は、『エイミー』と案を出した。

「エイミー……」

 その名前だけが何故か胸に残る。
 もしかしたら、元の私にゆかりがある名前なのかもしれない。

「わたし、エイミーがいい!」

 名前が決まった瞬間、頭のなかが透きとおった。
 どこかあいまいだった意識がはっきりしてゆく。
 体を包むチュニックの質感。外を旅する風の音。ごはんを求める、私のおなか。
 遠ざかっていたいくつもの情報が、私の中を駆け巡る。

 この瞬間から新しい人生が始まる。
 そう、世界が教えてくれたようだった。

「よろしくの……エイミー。
 わしはこの孤児院の管理人、アルダメルダという。みんなはおじいちゃんと呼ぶから、よかったらエイミーもそう呼ぶとよい」

 声を張りながら、おじいさんは空中に何かを描きだした。
 別々の生き物みたいに動く指先は、次へ次へと光の線をむすんでいく。

「ようこそエイミー。ようこそ、この世界へ」

 描き出された形はまばゆい光を生み出し、部屋を白く染め上げる。
 私の目がまだチカチカしているうちに彼は部屋の扉を明け放った。

 ――そこに待ち構えていたのは、四人の少年少女たちだった


「「「「 ようこそ! エイミー!! 」」」」


 四重に重なった声が私の耳を震わせる。
 世界も、おじいちゃんも、彼らも。みんなが私を受け入れてくれる。

 それが嬉しくて。
 私は、また涙を流してしまった。


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