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失ったもの1

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 四角い窓から見上げた空は茜色に染まっていた。

「……きれい」

 短い感想が口からこぼれおちる。
 電線がない景色なんて初めて見た。
 空が、とっても広いんだ。

 視界の端にあった雲の行く先を目で追うも、すぐ窓枠に通せんぼされてしまう。
 遠く、遠く、どこまでも続いているような空は、私の目に焼きついた。
 まばたきすると茜色が浮かぶ。

 心に満ちてゆく感動を楽しんだあと。
 部屋の入口からただよってきた香ばしい匂いに、興味は傾いた。
 みんなは食堂で待っていると言っていたから、もうじきお夕飯なのかもしれない。
 そんなことを考えていたからだろうか。

 ――きゅう
 
 あっ、と思ったときにはもうおなかが鳴っていた。
 小さい音だったし、聞こえてないよね……?

「おお、もうじき晩ごはんじゃのう。エイミーも食欲があるようでよかったわい」

 おどけた調子でおじいちゃんは笑いかける。
 私のおなかの音を時計代わりにしないでほしいものだ。
 ……デリカシーがないなあ。

 別に怒ったわけじゃないけれど、ちょっとだけ気にさわった私はプイとそっぽをむいた。
 ついでにほっぺも膨らませておく。

 おじいちゃんはそんな私に軽く謝ってから、孤児院の子どもたちのことを話してくれた。
 さっきは泣いてしまって、顔もほとんど見られなかったからありがたい。
 ここに暮らすのは男の子が二人に、女の子が私を入れて三人になるらしい。
 私は、孤児院というと、もっと大勢の子どもがいるものだと思っていた。
 だけど、それは前の世界の常識だ。この世界ではそういうものなのかもしれない。

 聞かされたみんな年齢は、全員が十代前半だった。
 私の年齢を伝えると「近い歳でよかったのう」とおじいちゃんは優しく語りかける。
 本当によかったと思う。高校生とか大学生とか、年上の人って、ちょっと怖いし。

 そのあと、いくつかの決まりごとを教わった私は、おじいちゃんと一緒に食堂に行くことになった。
 ここでのごはんは朝と夕の二回だから早いらしい。
 夕方にごはんを食べるなんて、なんだかへんなかんじだ。

「エイミー、手を」

 ベッドからおりた私におじいちゃんの手が差し伸べられる。
 なんだかお姫さまになったみたいで、ちょっとだけ照れくさい。

「ありがとう」

 視線をそらしてお礼を言うと、私はその手を握った。
 骨と皮ばかりの しわしわな手は、それでも温かくて安心する。
 秋のはじまりみたいな肌寒い陽気だからかもしれない。

「……っ!」

 どのくらい眠ってたのかわからないけど、私の足はまだ寝ていたいらしい。
 もつれる、っていうのは初めてだけど、たぶんこれが、そう。足の支えを失った体は傾いてゆく。
 穴に吸い込まれたときのことを思い出して、肩と頬の筋肉がこわばった。

「ほら、急ぐでない」

 硬くなった体と心を抱きとめてくれたのは、手をつないでくれていたおじいちゃん。
 抱きしめられたとき、おこう・・・の匂いが ふわっと香った。

「…………」

 でも、今の私に匂いを楽しむ余裕はない。
 おじいちゃんが居てくれるのに心臓がバクバクと鳴りだした。
 自分のなかに隠れていた怖さが、辛さが、顔を出してきたんだ。
 嫌な汗がにじみ出て、引いたはずの涙まで流れてくる。

「もう少し、ここにいるか?」

 私を抱きとめたまま、おじいちゃんは優しくささやいた。
 赤ちゃんにするみたいに、背中をゆっくりたたきながら。

「……いい」

 本当はそうしたかったのに、私は申し出を断った。
 意地をはってしまったのかもしれない。
 恥ずかしかったから、照れ隠しに強がったのかもしれない。

 何でそう言ってしまったのか、結局のところ自分でもよくわからなかった。
 わかるのは、私を抱きしめてくれている腕がはなれること。
 はなれてしまうと、今よりもっと辛くなってしまうこと。

「そうか」

 おじいちゃんの短い言葉が響く。
 そして、失われてしまう。
 私を怖いものから守ってくれる、優しい腕が。


「…………?」

 だけど、いつまでたっても腕は私を抱いたまま。ただよう香りもそのままだった。
 どうしたんだろう? 抱かれたまま見上げると、視線と視線がからみあう。
 おじいちゃんは少しだけ困ったような表情を浮かべている。
 彼は口ひげをもぞりと動かし、言い辛そうに切り出した。

「すまんが腰が痛くなってのう。……もう少しこのまま、支えていてくれんか?」

 ……それは嘘だってすぐにわかった。
 おじいちゃんが私を支えてるんじゃない、逆なんだから。
 きっと彼は、意地っ張りな子どもの意地を・・・尊重してくれたのだろう。
 そこまで理解していながらも私ときたら、面と向かってお礼をするのは照れくさくて。

「……しかたないなあ」

 ローブに顔をうずめ、お礼の代わりになまいきな口をきいてしまった。
 嫌われちゃったかもしれない。一瞬心配になってしまったけど、おじいちゃんの顔を見上たら不安はどこかへ行ってしまった。

 ほそまったまぶたの向こう。
 深い海のような青い瞳が、優しく見守ってくれていたから。



 ◆



「ありがとう。もう大丈夫じゃよ」

 私が落ち着いたころをみはからって、おじいちゃんは語りかける。
 とても柔らかくほほえみながら。

 私には最初、その言葉の意味がわからなかった。
 どうしてお礼をされてるんだろう? しばらく考えたあと、彼がついた優しい嘘を思いだした。

「……ありがとう」

 涙のあとを、ぬぐいながら想いを告げる。
 それはさっき言えなかったお礼の言葉。
 お礼にお礼で返すのはへん・・かもしれない。
 でもきっと、このおじいちゃんなら私の気持ちをわかってくれる。
 そんな根拠のない思い込みを、彼は笑顔で裏付けてくれた。

 そして、彼は手を軽く引く。

「さあ、食堂にいこうか」

 私の足は まだ本調子ではなかったけど、さっきみたいに転ぶことはなかった。
 おぼつかない足取りの私にあわせているのだろう。
 おじいちゃんの歩みは、とてもゆっくりだった。


 部屋のそとは板張りの廊下が、右と左に、奥へ奥へと伸びていた。
 これだけ長いと雑巾がけが大変かもしれない。
 鈍く光る暗色くらいろの床板は、おばあちゃんの神社のそれとよく似ている。
 歩くたびに きしきしと鳴る床が、少しだけおもしろい。

「ここが倉庫。こっちが書庫じゃな」

 手を引かれて歩いた長い廊下では、おじいちゃんが部屋の紹介をしてくれた。
 ここには各個人の部屋と、食堂、書庫、倉庫。それと、石造りの礼拝堂があるらしい。
 明日にでも全て案内してくれると言っていた。

 書庫の扉を閉めた彼は、次いで質問を口にする。

「それじゃあ次に、決まりごとを言ってみてくれ」

「ええと、“勝手に敷地の外へ行かない”だよね。外には怖い動物、魔獣が出るから」

 部屋で伝えられたことを思い出しながら答えた。
 この孤児院の敷地、石の塀で区切られた向こうには“魔獣”という動物がいて危険らしい。
 おじいちゃんは、生物ではなく“現象のひとつ”だ、と言っていたけど、私にはよくわからなかった。
 でも、そんなものがいなかったとしても、私が一人で外出することはありえない。
 知らないところに出かけるのは好きだったけど、今は怖くてたまらない。
 自分の命が失われてゆく感覚……あの体験が、私の心を縛り付けるから。これはきっと、心的外傷と呼ばれるものなのだろう。

「……そうじゃな。もの覚えがいいのう」

 おじいちゃんは頬をゆるめ、私の頭を撫でてくれた。
 さすがにこのくらいは覚えられる。子ども扱いされているのだろうけど、悪い気はしなかった。
 ここに来る前までは子ども扱いされることを嫌っていたはずなのに、不思議なものだ。
 違和感を感じたものの、それはまだ緊張しているからだと割り切った。


 いくつかのことを確認しながら廊下を歩むことしばらく。私たちの足は、明かりのついている一室の前で止まった。
 暗色の床板に、一筋の強い光がはしっている。
 扉のわずかなすき間から橙色と話し声がもれているここが、食堂なのだろう。

「あっちの席に座るといい」

 おじいちゃんは扉を開けて語りかける。
 明るい照明、広い部屋、大きな机といくつかの椅子。
 同い年くらいの子たちが座る椅子の奥では、一人の女の子が鍋を煮込んでいた。

「ん? ……ほおら」

 扉の前で尻込みしていた私の手を、おじいちゃんが優しく引いてくれる。
 人見知りというわけではないのだけど、少しだけ気おくれしてしまったのだ。

「みんな良い子ばかりじゃよ。そんなに固くならんでよい」

 手を引く力は決して強くなく、けれど握る力はとても強い。
 その手は、私に足りなかった勇気を足してくれた。

「……うん」

 やはり面と向かって言うのは恥ずかしくて。
 私は、おじいちゃんの服の袖を見ながら言った。
 童話の魔法使いのような彼のローブは、とてもゆったりしていて柔らかい。
 あれにくるまって寝たら気持ち良いかもしれないなあ。

「もう、大丈夫だよ」

 おじいちゃんがついていると思うと勇気が出る。
 でも、やっぱりまだ、ちょっとだけ怖いから。
 私はそそくさと空いている席へ早歩いた。

 食堂の子たちには、扉の前でもじもじしていたところから見られてたから、急いでも意味はなかったのだけど。



 ◆



 部屋は、外からのぞいたときよりももっと広く感じた。
 木製の皿やカップが収められた大きな食器棚。縦長の広いテーブル。そして奥には、区切られていない調理スペースがある。
 それらを抱えているにもかかわらず空間には空きがあって、人と人とのすれ違いもかんたんそうだった。

 椅子に座った私は、ふと学校の給食の時間を思い出した。
 席を立つと後ろの子にぶつかってしまうから、必ずひと声かけるようにしてたんだっけ。
 でも、後ろの席の男子は気遣ってくれなくて。おかわりの度に椅子をぶつけられて……あれ?
 あのときの私はどう思ったんだろう。
 怒ったんだっけ、悲しかったんだっけ? 何度か注意したことは覚えているのに、自分の感情が思い出せない。

「――ねぇ、エイミー」

 何か、へん・・になった記憶の重要な部分に気づいたとき、高い位置から声がかけられた。
 意識はそちらにかたむき、思考は流れて消えてしまう。
 首をあげると、そこにいたのは背の高い糸目の男の子。
 ここにいる子はみんな十代前半と聞いていたのだけど、彼の身長は180cmくらいに見える。まるで大学生だ。
 けれども怖いと感じなかったのは、顔に笑みが浮かんでいたからかもしれない。

「えっと……」

「ああ、僕はデンテルっていうんだ。これからよろしくね」

 私の視線が上向くのを待ってから、彼はやわらかく言葉を継げた。
 名前を訊ねようとしたのを察してくれたのだろう。私の学校にはいなかったタイプの男の子である。
 まっすぐに目を見て言われた言葉に対し、私はやや視線を逸らしながら返答した。
 失礼なのはわかっているけど、おくびょうな私にはこれが精一杯だ。

「ところで、苦手な食べものはあるかな?」

 情けない自分に何かを想うより先に、デンテルは転校生にするみたいな質問を投げかけた。
 考えてみれば、今の私は転校生そのものだろう。いままで質問する側にもされる側でもなく、昼休みになってから声をかけにいくタイプだった私は、どうしていいのかわからなくなって。
 「なす・・がきらい」とだけ無愛想に答えてしまった。

 デンテルはそれに対して首をかしげるばかり。
 つっけんどんな態度が気分を悪くしたのかと思ったのだけど、どうやら違ったらしい。
 席についている他の子たちも首をかしげていて、かみ合わない会話を見守っていたおじいちゃんが、

「エイミーは転移者じゃからのう。伝わらないコトもあるかもしれんな」

 そう告げると、お鍋の前に立っている子以外が「ええっ!?」と声をあげて驚いた。
 “転移”って、実は珍しいものなのかもしれない。
 それと“なす”はこの世界には存在しないようでひと安心である。
 小さな安心に胸をなで下ろし、ひと息をついたころ。
 向かいの席の女の子が立ち上がり、

「……私はルシル。よろしく、ね」

 落ち着いているけれど可愛いらしい声で、自分の名前を教えてくれた。
 立っているのに、座っている私と身長がかわらないくらい、とても背の低い女の子。
 彼女の髪は真っ白だ。おじいちゃんと見比べると、同じ白のはずなのに印象が違うことがわかる。
 まるで色を根こそぎ奪われてしまったような……そんな印象を受ける髪色だった。
 前髪以外は短く切りそろえられ、ヘアピンやゴムなどもしていない。
 代わって、前髪だけは長く伸ばされていて。髪のカーテンの向こう、赤い瞳を隠しているかのようだった。

「あ……うん、よろしくね」

 返事が遅れたことに気付き、かけあしぎみに言葉を返す。
 遅れた理由は表情。よろしく、そう言ってくれた彼女の顔には、何の表情も浮かんでいなかった。
 髪、瞳と視線を滑らせて、最後に顔全体を見つめたとき。私は、用意していた言葉を飲み込んでしまったのだ。
 理由はわからないけど、この子には嫌われているのかもしれない。

 さっさと座ってしまった彼女から視線を外し、私は小さく息を吐く。
 これから上手くやっていけるのかなぁ。暗い気持ちで床板のふし・・を見つめていると、それは影にさえぎられた。

「俺はコリー。これからよろしくな!」

 影の主は犬耳をつけた男の子。彼は笑みを浮かべながら、軽い調子で名乗りあげる。
 頭のうえについた耳は小刻みに動き、空気の振動を拾っているようにも見えた。
 ……本物の耳、なのだろう。代わりに、瞳のとなりにはあるべきものがなかった。

 視線をそらすと日焼け以上に濃い褐色の肌が目にとまり、次いで、ひざ下を埋め尽くすけむくじゃらに釘付けとなった。
 赤茶けた体毛は不潔そうには見えないが、形容しがたい不快感を覚える。

 ――私と違う、カタチをしている

「ん、具合でも悪いのか? 顔色がわりぃけど――」

 コリーは私に近づいてきた。
 口のなかから白い犬歯をのぞかせ……手を、伸ばしながら。

「ひっ……!」

 すぼまった喉は言葉を生み出さない。
 私は焦り、恐怖に突き動かされるまま後ずさった。

 ――ドンッ

 背もたれのない椅子は体を受け止めない。
 腰から伝わる鈍い痛みが、椅子から落ちたことを知らしめた。
 私は、自分と違う姿をした存在が怖かったのだ。同じ言葉を話す、得体の知れないものに見えて。

 彼は差し出した手を引くことも、倒れた私へ伸ばすこともなく立ち尽くしていた。
 とりあえず追いかける気はないみたいだけど、それでも安心することはできない。
 距離をとった方がいいんじゃないか。腰の痛みも遠ざけ、そんなことを考えていると――

「こら、コリー。やめなさい」

 料理をしていたお姉さんがやってきて、立ち尽くす彼の頭をお盆でたたいた。
 なだめるように軽く、気の抜けた音が私の恐怖をときほぐす。
 お姉さんは私を助けてくれたのだろう。
 腰まで届く空色の長髪。それを結わえる虹色のリボンが印象的な彼女は、私の視界を後ろ姿でおおってくれた。

「あ、ああ……悪い」

「……コリー、せくはら?」

 ぼそりとつぶやいたルシルの言葉が、コリーの褐色の頬に赤みを添える。
 そんなやり取りを聞いていて。彼はただ、他の子と同じようにあいさつをしてくれただけなのだとわかった。
 おくびょうな私が彼を見た目で判断して、傷つけてしまっただろうことも。

「ごめんなさいね、エイミー。
 コリーも悪気があったわけじゃないの。許してあげてくれるかな?」

 お盆を机に座らせ、リボンのお姉さんは私へと向き直る。
 彼女は足が悪いのか、歩き方が少しぎこちなかった。

「全然っ! そんな、あの、ごめんなさい」

 罪悪感と、焦りと、胸に残った少しの恐怖と。色んな感情がぐちゃぐちゃになってしまった私は、意味不明な返事をしてしまった。
 それが恥ずかしくて。顔が、どんどん熱くなっていく。
 あわてて立ちあがった私に、彼女は小さくほほえみながら手を差しだしてくれた。

「……私はラピスっていうの。エイミー、これからよろしくね」

 握手かな? おそるおそる差し出した私の手を、ラピスは両手で大事そうに握ると、もう一度「よろしくね」と言ってくれた。
 私も“よろしくお願いします”と返したつもりだけど、どもったりしてなかっただろうか。

 ラピスはデンテルほどではないけれど背が高い。
 知的な雰囲気のお姉さんだ。
 澄んだ空色の長髪は光を受けて輝き、現実のものでないような美しさをかもしていた。
 それを結える虹色のリボンもまた、上品に彼女を飾り立てている。

「エイミーごめん! その、そんなつもりじゃなかったんだ……」

 コリーは反省した面持ちで謝罪の言葉を口にする。悪いことなんてしてないのに。
 きっと彼は優しい子なんだ。
 転移してきた私を気遣って、体調を心配してくれたのだろう。
 ……そんな彼を外見で判断して拒絶し、怖がった私は最低だ。

「謝らないで! こっちこそ、その、ごめんなさ――」

 ――ゴンッ!

 急いでおじぎしようとした私の頭は、勢いよく机のカドへと打ち付けられた。
 視界が白黒に明滅したあと、じんじんとした痛みが身体中に染み渡る。……泣きそうなくらい痛いし、恥ずかしい。

 きっと、私の顔は真っ赤っかなのだろう。
 無事なはずのほっぺまでも熱をもっている。
 額を押さえて顔をあげると、そこには楽しげに笑うみんなの顔があった。

 ふつう、失敗を笑われることは恥ずかしいことだと思う。
 だけど今は、不思議と嫌な感じはしなかった。
 それは、笑いながらも私を気遣う言葉をかけてくれたから……かもしれない。


「……はい。食べるのはもう少しだけ待っててね」

 おじいちゃんにもらったおしぼりを額に添えていると、ルシルがお皿を運んできてくれた。
 ランチプレートのようなそれには、パンのような薄黄色のなにかと、漫画で読んだ干し肉のようなもの。それとサラダが乗せられている。
 パンというより とうもろこし粉を練って作った、外国の主食に近いかもしれない。
 私は社会科の教科書を思い出した。

「エイミー、熱いから気をつけるんだよ」

 次いで運ばれてきたのは湯気の立つスープだ。
 さっきまでラピスが煮込んでいたものなのだろう。
 運んでくれたデンテルにお礼を言ったあと。
 私も手伝わなきゃ、と思ったときにはもう遅く、みんなは席についていた。

「さあ、それじゃあごはん前のあいさつをしましょう」

 所在なさげにする私に小さくウィンクをして、ラピスが宣言する。
 どうすればいいのかわからずに辺りを見回すと、みんな一様に両手を胸の前で合わせていた。
 “いただきます”とはさすがに言わなかったけど、食前のあいさつはどこの世界も似たようなものなのかもしれない。

 それぞれが小さく一礼すると、私たちの夕食は始まった。



 ◆



「――あ、ありがとう」

 食事を終えてひと心地ついていると、座っている私と目線の同じ少女――ルシルが温かいお茶を注ぎに来てくれた。
 嫌われている、なんて思い込みは、コリーのことと同じで誤解だったみたいだ。

 トポトポと注がれる薄緑色が、落ち着く香りを湯気にのせて運んでくれる。
 人肌より少し温かいくらいのそれをひとくち。
 じわっと広がる心地よい渋みが、混乱ぎみの頭を少しだけ整えてくれた。

 私の目の前には空になったお皿が置かれている。
 干し肉はビーフジャーキーみたいのを想像していたんだけど、思ったより塩辛くてびっくりした。
 でも、主食のパンみたいなのと一緒に食べるとちょうどよくて。
 そこにあつあつのスープを流し込むと……とっても美味しかった。

「おいしかった、です。とっても」

 夕焼けを空を見上げたときみたいに、感想がぽろりとこぼれた。
 意識しないと呟きが漏れてしまうのは、想いが言葉になる世界だからなのかもしれない。

「……そう。よかったわ」

 唐突な私の感想に、ラピスは目を閉じて ゆっくりとうなずいてくれた。
 でも、その表情はどこか悲しいような、辛いような。
 薄い影が差しているように見えた。

「ね、どれがおいしかった?」

 しかしその影はすぐにどこかへ消えてしまう。
 一転、にっこりとほほえんだラピスは楽しそうに訊ねてきた。
 さっきのは気のせいだったのかもしれない。

「え? ええと……スープがおいしかったです」

 予期しない質問に思わず口ごもるも、なんとか感想を伝える。
 スープに入っていたお芋のような野菜。
 というかじゃが芋そのものな野菜が、ほくほくしていて好みだった。
 教えてもらった名前は、たしか『サージュ』だったかな?

「明日はここの案内をするから、そのとき畑も見に行くとしようかの」
 
 お皿を重ねながら おじいちゃんは語りかける。
 話によると、サージュをはじめとした野菜は孤児院の畑で栽培しているらしい。
 学校の授業でどういうものかは知っているけれど、実物を見たことはないから楽しみだ。

 おじいちゃんに短く返事をして、何気なく天井を見上げる。
 そこにあったのは淡く、橙色に光る石のようなもの。
 電球……じゃ、ない。

 思えば電気やガスが通ってなさそうなこの家で、どうやって鍋を温めていたのかも不思議だ。
 ついさっき食べた料理はとても温かくて……というか熱いくらいだった。
 私が猫舌だったなら、きっと何度も ふーふーしていただろう。
 気になった私は質問してみることにした。

「……あの。お鍋ってどうやって温めたの?」

 しかし私の訊き方が悪かったみたいで、みんなはきょとんと首をかしげるばかり。
 次いで電球について訊ねたのだけど、反応は似たり寄ったりだった。

 どう伝えたものか。
 考え込んでいたら、やがてコリーが「ああ、わかるわかる」と頷いてから興奮気味にまくしたてた。

「驚いたよな? 俺も最初に見たときはびっくりしたぜ! 最高級品の魔石が、あっちこっちにあるんだもんな」

「……うん。ここの生活は、下手な豪邸よりも快適」

 ルシルも頷いて納得しているけれど、こっちはちんぷんかんぷんだ。
 二人が話している『魔石』って何なんだろう。

「「 え? 」」

 疑問は言葉となってもれていたらしい。……この癖は早く治さないと、恥をかいてしまいそうだ。
 さっきまで頷きあっていた二人は口を閉じ、顔をこちらに向けてくる。
 魔石とは、彼らにとって常識的なものなのかもしれない。

「そっかそっか。エイミーは異世界から来たんだもんね」

 デンテルは、ぽんと手を叩いてから興味深そうにうなずく。
 私がこの世界の常識を知らないということを察してくれたようだ。
 
 ……みんなの話によると、この孤児院では生活に『魔石』という道具が役立てられているらしい。
 それを使って照明にしたり、火を起こしたり、飲み水を生み出したりしているとのことだった。
 元いた世界での電気や機械の役割を、ある程度魔石という道具が担っているのだろう。
 江戸時代みたいな暮らしをしているわけじゃなくて助かった。

「――よかったら、エイミーの元いた世界の話を聞かせてくれんかのう?」

 みんなの声が落ち着いたころ。私たちを温かく見守っていたおじいちゃんが、お茶をすすりながら訊ねてきた。
 それを聞いたみんなは目を輝かせ、「聞いてみたい」と口々に告げてくれる。
 転移が珍しい現象だから、ということはわかっている。
 それでも私のことに興味を持ってくれるのは嬉しくて、自然と頬がほころんだ。

 もしかしたらだけど、おじいちゃんは魔石のことを黙っておくことで、みんなの興味を惹くようにしてくれたのかもしれない。
 視線がからんだとき、なんとなくそう感じたのだ。
 そんな気遣いは嬉しい反面、困ってしまう。
 誰にでも通じる面白い話なんて、私には思いつかないのだから。

「その、私のいた国では電気ってものがあって――」

 結局、私は理科の教科書に載っているような情報を口にすることにした。
 授業の内容そのままの、私にとっては退屈な話は みんなとって興味深かったようで。
 熱心に聞いてくれるものだから、私の頬は再び熱くなってしまった。



 ◆



 夜の闇を薄く照らすは、赤と青の光。
 いつの間にか空を覆っていた雲の向こうにあるという、二つの月によるものらしい。
 前の世界とまったく違う月明かりなのに、私はそれに違和感を持たなかった。

 食後の会話を楽しんだあと。
 私たちは就寝のため、それぞれの自室へと別れた。
 部屋にあるのはベッドと、飲み水が入った瓶だけ。
 大きい部屋ってわけじゃないけど、これだけ何もないと広々としている。

 ここには私以外誰もいない。
 閉められた窓からは、虫の声も、風の音も聞こえない。
 そして月の光も無かったら、まるで冷たくなってゆく――

「……だめ」

 何か恐ろしいことを考えそうになった頭を振って、浮かんだ考えを追い出した。
 前の世界でも私は一人で寝起きしていたはずだ。
 そのときは何ともなかったはずなのに、いまは一人で眠るのが……怖い。

 部屋のはしっこの、影が一番濃くなっている場所が怖い。
 天井の木目が人の顔に見えてきて怖い。
 誰もいない空間が怖い。

 暗いところが怖いなんて小さな子供みたいだ。
 もう私はお化けのテレビを見てもトイレに行けるし、暗いところを怖いなんて思わなくなったはず。
 あやふやなものを怖がるなんてばかばかしい。
 非科学的だって、クラスメイトも言っていた。

「…………」

 納得するだけの材料を集めて思いこもうとするも、恐怖はぬぐえなかった。
 どうしても思いだしてしまうのだ。
 命が失われていく絶望を。
 さまよい続けた、冷たい暗闇を。

 毛布をかぶって目を閉じるも、恐怖は ひたひたと足音を鳴らして近づいてくる。
 まぶたを開くと、それが目の前にいるような。
 そんな妄想が頭のなかを占めてしまって寝付けない。


 ――コンコン、コン


 襲い来る恐怖を散らしたのは、扉を叩く小さな音。
 ゆっくりと三回、木の板が響きのある声を上げた。

「……誰、ですか?」

 まさかお化けじゃないと思うけど、この世界は私が知っている世界じゃないんだ。
 “絶対にない”とは言えないだろう。
 こんなことなら誰かに確認しておくんだった。

 とりとめもない後悔をしながらも、私は扉の向こうにいる誰かへと問いかけた。
 せめてもの武器として飲み水の入った瓶を胸に抱えて。
 これは結構重い。ぶつけたら怪我をさせてしまうかもしれない。

 息が浅くなる。
 口のなかは渇いているのに、首筋には汗が流れているのがわかる。
 それでもなんとかかき集めた唾を ごくりと飲み込んだ。
 大丈夫。そう自分に言い聞かせながら。


 来るなら、こい……!
 

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