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熱した油と心の雲4

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 虫の声さえ聞こえない夜の孤児院。
 耳が拾うのは心臓の鼓動だけ。
 瞳が映すのは、優しい無表情な少女だけ。

「……こんな、静かな夜だったんだ」

 ぽつり、と静寂に言葉を浮かべる。
 それは水面みなもに生じた波紋のように響き渡った。

「私は泣いてたの。今日みたいにみっともなく」

 声は食堂の木机に、手鍋に、天井の魔石に伝わって――私の正面、ルシルのもとへと届けられる。

「そんな私をなぐさめてくれたのはおじいちゃんだった。
 体をやさしく抱きしめながら、ものすごい魔術で空の雲を晴らしてくれた」

 白い髪のカーテンからのぞくは赤い瞳。
 空に浮かんだ二つの、片割れと同じ色。
 彼女は何も喋らない。うなずきもせず、相槌も返さない。

「あたたかい指で、怖い気持ちを溶かしてくれた。私を……助けてくれた」

 指をひとつひとつたたみながら語るは、やさしい思い出。
 “想い”を失った私が求めていた温もり。

「それでね、私を含めて“みんな・・・を実の子どもだと思って愛してる”って言ってくれたの。
 ……でも。私は“私だけ・・・を愛してほしい”って思った」

 私だけ。
 それは許されない、心に湧いた独占欲。

「そのときは あやふやな感情だったけど、みんなで遊んでたときに想いが言葉になったの。
 私以外がいなくなったら、おじいちゃんを一人占めできるんじゃないか……って」

 邪悪な感情がつきまとって離れなかった。
 優しく話しかけてくれるみんなの声に混じって、たまに聞こえるんだ。
 闇を溶かした泥のような、暗いささやきが。

 ルシルの瞳に私はどう映ってるのかな。
 気持ち悪い、って思われちゃったかな。

「みんなのことを何も知らないのに、一瞬だけど“邪魔だ”って思っちゃった」

 何にせよ、これで私は嫌われてしまっただろう。
 もうここにも居られなくなるかもしれない。

「ごめんね。みんな気を使ってくれてたのに、優しくしてくれたのに」

 詰まりそうな喉をこじ開けて。
 言葉を、想いを伝える。
 
「私……こんなので、ごめんね」

 みにくい感情もゆがんだ想いも、全ては彼女へと伝わった。
 伝わって、しまった。

 ルシルは何も言わなかった。
 変わらない表情からは何の感情も読みとることができない。
 ただ赤い瞳に私の姿を映して座っている。

 これから紡がれる言葉を想うと恐ろしくて、喉が変な音を出しそうになる。
 指先から全身にかけて、どんどん熱が失われていく。
 けれど、もう涙は流さない。

 私の失敗作を「いいものだ」と言って食べてくれた彼女のことだ。
 涙を見ることで、もしかしたら同情をしてしまうかもしれない。
 汚い感情を秘めた私を受け入れようとしてしまうかもしれない。
 ……そんなの、だめだ。

 優しいみんなに汚い私はふさわしくないから。
 私は、許されてはいけない。

「……辛かったね」

 ルシルは目を細めてそう言った。 

「……エイミーは私たちのことが嫌い?」

 告げられたのは短い問い。
 言葉は、私の失敗作を食べてくれたときのような、諭すように優しい口調で紡がれる。

「そんなわけ、ない」

 首を振って否定する。
 邪魔だって思っておいて、どの口が言うんだろう。
 だけど私は、優しいみんなのことも好きなんだ。
 酷いことを考えちゃったけれど……それでも、好きなんだ。

 こんな自分がそばにいちゃいけないってわかってるのに。
 料理に誘ってくれたことが嬉しくて。
 三人でやったサージュの下ごしらえが楽しくて。
 コロッケを食べてくれたみんなの笑顔がまぶしくて。
 私の心は、ちぐはぐな想いを抱えていた。

 変わらない。きっと変えられない表情の代わりに、ルシルは目を細めて言葉を紡ぐ。
 とても、とてもやわらかい声で。

「……なら、いいんだよ。誰かの一番になりたい。誰かに愛されたいと思うのは、みんな同じこと。
 行き過ぎたら別だけど、それを悪いことだなんて思わない」

 赤い視線は、変わらず私を貫き続けてる。
 その奥の光に嘘や同情は感じられない。

「……愛情はね、綺麗なだけじゃないの」

 彼女は言葉を切り、目をつむる。
 そして自分の胸に両手をあてながら継げた。

「……黒くて、重い。ドロドロとした感情も愛情。そんな想いを持つのは、みんな一緒だよ」

 噛みしめるように一語一語を紡ぐ彼女の唇は、かすかに震えていた。
 ルシルもかつて、私と同じような感情に悩んだことがあるのだろうか。

 彼女は私の悩みを当然のことだという。
 私は……信じてもいいのかな。

 誰かに愛されたい。一番に想ってほしい。
 そう願うのは、普通のことであると。

 私も誰かを好きになっていいのかな。
 好きだと伝えて、迷惑じゃないのかな。

「私も、誰かを好きになっていいのかな?」

 強い想いは口から滑り落ちて、言葉になっていた。
 ルシルの表情は相変わらず無表情だったけれど、

「……あたりまえ。私もみんなも、エイミーのこと、大好き」

 親指を立てながら言葉をくれた。
 次に人差し指を立てた彼女は それを私に突きつけて、笑う代わりに二度まばたきをする。

「……コリーあたりに言うと、勘違いして舞い上がるだろうから、気をつけて」

「あはは……うん。……うん」

 もう涙は流さない。
 そう、決めたはずなのに。

「ありがとう……」

「……ここは泣くところじゃなくて、笑うところ」

 泣き虫な私を、彼女は もう一度私を抱きしめてくれた。
 私のせいでぐっしょりと濡れてしまった胸元がひんやりとする。

 私を許してくれた少女の胸は小さくて。
 濡れて少し、冷たくて。

 とてもやさしかった。



 ◆



「……大丈夫?」

「うぐ……、ごめんね。もう、ちょっとだけ」

 相談を終えた私は、しばらくたった今も涙を流していた。
 最初の決心はどこへやら。
 安心したからなのか、恥ずかしいからなのかはわからない。
 けれど、次から次へとあふれてくるのだ。

「…………」

 そんな私を、彼女はいつまでも温めてくれた。
 凍える心を包み込むように。
 細い、小さな手で抱きしめてくれた。

 けいれんしていた喉も落ち着いたころ。
 お礼の言葉とともに離れようとすると、

「……怖いなら、一緒に寝る?」

 私の瞳をのぞきこんで、優しい言葉をくれた。
 ルシルが良いというのなら ためらう理由はない。
 本当はまだちょっと、怖いから。

「お願い、します」

 浅く頭を下げて頼み込む。
 やがて気恥しいのをこらえて彼女の顔を見上げると、
 
「……まさか本気にするなんて」

 口を両手で隠しながら驚きの言葉をつぶやいた。
 あてがわれたそれは、どうやら開いた口を隠すためのものだったらしい。
 もしかして……冗談だった?

「いや、あの、その、そんなつもりじゃ――」

 顔から火が出そう。とは、まさにこんなときのためにある言葉なのだろう。
 一気に温度が熱くなった頬を押さえ、彼女から離れようとした私は、いつの間にか腰に腕が回されてることに気が付いた。

「……逃げようとしてももう遅い。私は寝相が悪いから、覚悟しておくように」

 そう継げたルシルの顔は相変わらずの無表情だったけれど、なんとなく心は笑っているように思えた。
 弾んだ声音が、鳴らされる鼻息が、触れ合った温もりが。
 変わらない表情の代わりに、たくさんのことを私に教えてくれていたから。

「ありがとうね。ルシル」

「……気にしない。家族なんだから、あたりまえ」

 私の心には、もう悩みの雲は欠片も残っていない。
 悩みを晴らしてくれた彼女と共に、私たちは食堂をあとにした。



 ◆



 となりに温もりがある。
 それはとても幸せなことだと実感した。
 夜の薄闇も、いまは怖くない。
 耳に届く小さな寝息が。触れている肩が感じる体温が。
 たしかに、そこにあるから。

 いつしかゆっくりと下りてきた黒い幕に私の意識は閉ざされる。
 そこにもう、恐怖を感じることはなかった。



 ◆



 まぶたに覆われた暗闇のなか、誰かの声がした。
 痛みにあえぐ、悲痛な声が。

「うう……うぁ……!」

 寝起きのおぼろげな意識が一気に鮮明になり、引き剥がすようにまぶたを開く。
 “誰か”なんかじゃない。
 私を優しく抱きしめてくれたルシルが、うなされていた。
 月明りに照らされた彼女の額には、寝汗で白い髪がべったりと張り付いている。

「……ッァああ!!」

 ルシルはそれがうっとうしいのか、指でかきむしりだした。
 おぞましい、肉を引き絞る音が耳を埋める。
 指には尋常じゃない力が込められているのだろう。先端は白く染まり、爪は皮膚を裂かんと突き立てられている。
 このままではいけない、止めなければと思った私は跳ね起き、

「起きてルシル! 起きて!」

 彼女を揺さぶり起こした。
 肩を掴んで叫びながら、あざができてしまうほどに強く。

 けれども、まぶたは固く閉じられたまま。
 どうして? こんな状態で眠っていられるはずがない。
 それでもルシルは自分の顔をかきむしり続ける。
 ならばと腕を掴むも、彼女は無意識にそれを拒んだ。
 もう一方の腕が襲い来て、私の右眼と鼻を強く打つ。彼女は一瞬ひるんだ私を蹴り飛ばすと、再び爪を、自身の頬へと突き立てた。

 私は蹴られた下腹部を押さえ、充血し切った右目は閉じてしまう。血味を唇へと流す鼻は無視。
 普通の方法では止められないことを理解した。なら、できることは一つだけ――

「ルシル…………ッ!!」

 私は彼女が傷つかないように、自身の手で小さな顔を包んだ。
 被せた手に幾重もの赤い線がはしるのがわかる。
 切れ味の悪い刃物をねじこむような痛みに湧き出た苦鳴は、噛み合わせた歯で食い殺した。

 やがて、違和感に気付いたらしいルシルの体が硬直した。
 まぶたが震えた。
 私の血で赤く塗れた指先も、くぐもったうめきを漏らす口も動きを止める。
 そんな彼女を私は、私がしてもらったように抱きしめた。

「大丈夫。大丈夫……怖くないよ」

 噛んで口移すようにささやく。
 安心させるために、少しだけ体を揺らしながら。
 安定した振動は心を落ち着かせる。
 これは、おじいちゃんにやってもらったことの受け売りだ。

 しばらくそうしていると、彼女は小さな寝息をたてはじめた。
 血と汗の混じったにおいのなか。瞳を閉ざす少女の顔に、もう苦痛のあとはない。
 
 ルシルが抱えているものが何なのかはわからない。
 けれど、それが何だったとしても、私は彼女の味方であり家族だ。
 いつか打ち明けてくれる日が来たのなら。今日そうしてもらったように、私はすべてを受けとめよう。

 昏い想いを受け入れてくれた彼女のために。
 「大好き」と伝えてくれた彼女のために。
 ――苦痛に寄り添って、和らげたい。

 私は彼女を抱きしめたまま、そんな未来を心に描いた。
 ズキズキと傷む手の甲は辛いけど。
 涙が出ちゃうほど、眠れないほど痛いけど。
 それでも私は、寄り添っていたかった。


 翌朝、太陽が山々を越えるまえ。
 私はルシルが起きるよりも先に血痕を処理して、傷はおじいちゃんに治療してもらった。
 余計な心配をかけたくなかったから。気に病んで、自分を責めてほしくなかったから。
 ……結局、シーツについた血のあとからバレてしまったのだけど。

 涙の代わりにまつげを伏せて謝るルシルに、「お詫びの代わりに」と言って、この世界の料理を教えてもらった。
 コリーやラピス、デンテルとおじいちゃんも呼んで、もう一度みんなで。

 穀物粉を練ってパンみたいなのを作るのは、力が必要で大変だった。
 塩抜きをしないで干し肉を挟んでしまって、食べたら舌が いーってなった。
 それでも、みんなで作る料理は……楽しかった。


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