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解かれた握手

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 赤と青の月明りが照らす夜の食堂。
 なんとなく目が冴えて眠れなかった私は、一人でお茶を飲んでいた。
 こうしていると、お母さんが作ってくれたホットミルクを思い出す。
 ……そのときの感情は失われてしまったけれど。

「ん、おいし」

 ずずず、と音をたてて飲んでみる。
 ちょっとだけ寂しい気持ちを紛らわせる、ひとりごとも添えて。

 二つも月があるのだから当たり前なのだけど、この世界の夜はとても明るい。
 けれどまぶしいと思わないのは、光の質が違うからだろうか。
 私にはよくわからないけど、“ぶるーらいと”がどうとか、学校で聞いたことがある。

「はぁー……」

 コリーがよくしているように、ぐでーっと机に伏せてみた。 
 冷たい机の感触が頬に気持ちいい。
 ちょっとお行儀が悪いけど、誰も見てないし……いいよね。

 眠気を呼ぶにはリラックスするのが一番だ。
 眠るわけじゃないけれど、私はそっと目を閉じた。
 目が閉ざされると耳や鼻が敏感になる。

 さっきまで飲んでいたお茶の匂い。
 着ている服の、せっけんの香り。
 お夕飯の鍋物の残り香は……さすがにしないけど。

 耳が拾うのは、外の緑を揺らす風の声。
 と、それにまじって歌が聞こえた。
 ほがらかな曲調のそれは、童謡か、民謡か。

「……こっちだよね?」

 小さな歌声は外から聞こえてくる。
 きしむ廊下を奥へ奥へと進んで、裏口の扉に手をかける。
 おじいちゃんが油を差している扉は大した抵抗もなく、ゆっくりと開いてくれた。
 そのすきまから入り込んでくるのは秋口の冷たい風。
 それと、もうひとつ。

「――ん、エイミーか」
 
 歌を中断したコリーの声が耳を揺らした。



 ◆



 夜の闇を裂く月明かりの下。
 地べたに敷いた古布のうえに座っていたコリーは、私の姿を見て駆け寄ってきてくれた。
 サクサクと踏み鳴らされる枯草が、乾いた音を響かせる。

「こんな夜更けにどうしたんだ?」

 コリーは鼻をひくひく動かしながら聞いてくる。
 さっきまで飲んでいたお茶の匂いがするのだろうけど、あまりに無遠慮だ。女の子としてはちょっと恥ずかしい。
 なにかお返しを……そうだ。

「ここでステキな歌を聴かせてもらえるって、招待状が届いたの」

 ちょっぴり大人っぽく、余裕ありげに言ってみた。
 きっとラピスなら、こんなふうに上品な言い回しをするんじゃないかな。
 まだまだ子供っぽい私がやっても不釣り合いかもしれないけど。

 そんな私の冗談はわかってもらえたようで。
 コリーは後ろ頭をぽりぽりと掻きながら、褐色の頬に少しだけ赤みを添えた。

「あー……起こしちゃったか?」

「ううん。食堂でお茶を飲んでたから聞こえただけ。私の方こそ、お邪魔してごめんね?」

 むしろ私がコリーの歌を妨害しちゃったわけで。
 どちらが迷惑かといったら、間違いなく私の方だろう。

 そんな私に、彼は大きく首を振って否定してくれた。
 頭の動きに合わせて耳もプルプル揺れていて、なんだかとてもかわいらしい。

「コリーも眠れなかったの?」

「いや、今日は月が綺麗だからさ。月見をしてたんだ」

 まんまるの月を両目に映して、コリーは照れくさそうに笑った。
 似合わないってわかってるよ。
 そう、小さくつぶやきながら。
 
 私は、似合わないなんて思わない。
 誰しもきれいな景色には感動するものだし、気分次第で歌をうたうこともあるだろう。
 そこに性別とか性格なんて、関係ないと思う。
 けれどコリーが恥ずかしいと感じるなら、私はそれを否定しない。

「……次からは、私もさそってほしいな」

 否定しない代わりに。
 私はコリーが感じる心に、世界に招待してもらおう。
 それで私の想いは、いつかわかってもらえればいい。

「月も、星も、とってもきれい」

 月を囲んで空に光るは、たくさんの“こんぺいとう”みたいな星々。
 真っ黒な闇に輝く数多の星は、空を見上げれば私の視界を埋め尽くしてくれる。
 ――とっても甘やかな、すてきな光で。

「こんなきれいなものを一人占めするのは、ちょっとずるいと思う」

 普段と違う状況に気分が舞い上がっているのかもしれない。
 私らしくない、理不尽なわがままを言ってしまった。
 
「……でも、夜外に出てたことがバレたら、おじいちゃんに怒られるぞ?」

 そんな私にコリーは心配混じりの言葉をかけてくれる。
 うーん、なら……

「次はみんなでお月見をするのはどうかな?
 おじいちゃんもさそっちゃえば、怒りようがないと思うの」

 おじいちゃんと毛布にくるまって月を見たとき、心のそこからぽかぽかするような幸せな気持ちになれた。
 あれをみんなでできたなら、きっと忘れられない思い出になる。

 私の提案にコリーはパッと顔を明るくして、

「それ、いい考えだな!」

 耳を立てて乗ってくれた。
 彼から香るのは私と同じせっけんのかおりと、もうひとつ。
 さっきのお返しにそれを一嗅ぎしてから、私は大きくうなずいた。



 ◆



 ちょっとだけ肌寒いね。
 私が言うと、コリーはすぐに自分の部屋から毛布を持ってきてくれた。
 けれども、彼はそれを握りしめたまま、古布に座る私のまえで立ち尽くしている。

「コリー?」

 どうしたんだろう。
 毛布を抱えた彼の視線は、私をとらえてはいない。
 落ち着きなく空をさまようばかりだ。

「いや、その。俺、けっこう汗っかきでさ。干してはいるんだけど……」

 おろおろとするコリーを見ていて気がついた。
 彼がさっき鼻をひくつかせていたのは、自分のにおいを気にしていたんだ。
 きっと私に気を遣ってくれていたのだろう。
 私のにおいを嗅がれていたのではないとわかって安心した半面、自意識過剰だった自分が恥ずかしくなってきた。

「そんなこと気にしないよ。寒いから、一緒に入ろ?」

 恥ずかしさをごまかすように発した言葉は、いつもより早口になっていたかもしれない。
 口とともに手も動かして招くと、彼は私の後ろから毛布をかけてくれた。
 顔だけ出した“てるてる坊主”みたいになった私は、バレない程度に匂いを嗅いでみる。

「…………」

 ちょっとだけ汗のにおいもしたけど、さっきも嗅いだコリーのにおいがした。
 自分とは違う、人のにおい。
 私はそれが嫌いではなかった。

「……よっ、と」

 小さな声とともに、私の後ろに腰が下ろされた感触がする。
 狭い古布の上に二人で座るため。
 背中あわせに毛布にくるまった私たちは、同じように空を見上げてつぶやいた。

 同じ言葉を。
 短い感想を。

 …………

 …………

 …………

 しばらく黙って空を見上げていた私は、ふと昔のことを思い出した。
 それは前の世界の記憶。

 私はこの世界で初めて満天の星空を見た。
 前に住んでいたところから星はほとんど見えなかったから。

 だから、思い出されるのは私のことじゃない。
 外国へ旅行したクラスメイトの言葉だった。

「――コリーはさ。こうやって星を見ていると、手を伸ばして掴みたくなる?」

 記憶のなかの女の子は、“光の海みたいな星空を見た”と言っていた。
 “気がついたら星を掴もうと手を伸ばしていた”とも。

 そのとき私がどう思ったのかはわからない。
 けれど、それはとても自然なことなのだと思うのだ。
 人はだれしも、きれいなものが好きなのだから。

 なのに、いま私は手を伸ばしたくならなかった。
 その理由が自分でもわからなくて。知りたくて。
 背中合わせのコリーに訊いてみた。

「え? 星は掴めないだろ」

 ……もっともな答えを返されてしまった。
 これは私の訊き方が悪かったのかもしれない。
 なんて言えば伝わるか考えていると、後ろから「冗談だよ」と声がかけられた。
 そして言葉は継げられる。

「たとえ届くとしても、俺は手を伸ばさない。……星は綺麗だけど、あったかくないから」

 だから眺めているだけでいいんだ。
 そう、彼は淀みなく言った。

 コリーの言葉にはわかるところもあって、わからないところもある。
 私はきれいなものが好きだった。
 今は無い、お誕生日にもらった真珠色のペンダント。
 そこに籠められた想いは消えてしまったけど、光にかざすと淡く輝くそれが大のお気に入りだったことは覚えている。
 毎日磨いていたことも。
 眠る前にいつも眺めていたことも。
 だから、きれいなものは手元に置いておきたくなるものだと思うのだ。
 
 けれど“あったかくない”というのはなんとなくわかる。
 記憶のなかにあるペンダントも、夜空に光る星や月も。
 いま背中が感じる体温には代えられないから。

「エイミーはどうなんだ?」

 未だ考えがまとまらない私に、彼は質問を投げかける。
 問いかければ問い返されるのは自然な流れだ。
 だけど私は答えを用意していなかった。
 
「……わかんない」

 正直に答えた。
 私の、想いを。

「私はきれいなものが好き。だけど私の手は、星空に伸びなかった」

 コリーが言葉に籠めた想いは私に伝わっていない。
 私の答えをコリーの答えに求めたから、理解できなかったのかもしれない。

 自分の気持ちは自分だけのものだ。
 言葉にして伝えるとき。
 やっぱりそれは、全く正しい情報としては伝わらない。
 ましてや、自分の気持ちもわからない私の言葉なんて、きっと理解しようがない。

「貝合わせの貝殻も、虹を見たときもそうだった。きれいだとは思ったけど、欲しいとは思わなかった」

 それでも知ってほしかった。
 わからないままの自分を。
 わからないことをもどかしく思う自分を。
 どうしてそう思うのか、それすらもわからないけれど。

「……そっか」

 私の話をじっくりと聴いたうえで、コリーは短い返事を選んだ。
 そしてラピスがしたみたいに、ぐぐっと背中に体重をかけてきた。
 伝わってくる鼓動に意識を傾けていると、だんだん心にくすぶっていたもどかしさが消えてゆく。

 やがて焦っていた心が落ち着きを取り戻すころ。
 彼は、ぽつりぽつりと語りだした。

「俺はむかし……嫌われ者だったんだ」

 言葉には間があって、それが次の言葉を選ぶ時間であることがわかった。
 コリーもまた、私に何かを隠そうとしているのだろう。

「ここに来るまでに色んなものを失った。大切なものも、そうでないものも」

 哀しげな声が紡ぐのはコリーの過去。
 きっと苦しくて辛い、思い出のかけら。

「大切なものを失うとさ、すっごい辛いんだ。必死に手を伸ばしても、失ったものは二度と手の内に還らない」

 だから、
 彼は吐き出すように継げる。

「一度失った人間は大切なものが何かわかるんだ。
 心にぽっかりと開いてしまった穴が、失った大切なものがあった場所だから」

 そこで彼は言葉を切って、後ろ手に私の手を握ってきた。
 熱いほど火照ったその手は、毛布のなかで握りしめられていたものかもしれない。

「……大切なものだけあればいい。何でも手に入れられるほど、俺たちの手は大きくないからさ」

 ぎゅっと握られた手。
 言葉からこぼれた感情は温もりが運んでくれた。
 私が思い悩んでいた答えはきっと、ここにある。

「……そう、だね」

 コリーの言うとおりだと思った。
 私の小さな二つの手。
 そこに大切じゃないものを入れる余裕は、きっとない。
 私の心は、それをわかっていたのかもしれない。

 
 後ろ手に繋がれた手。
 指と指がからまってしまっているそれは不格好だけど、私にとって星空よりも手を伸ばしたくなるものだった。


 
 ◆



「……まだ、あったかい」

 コリーと別れてベッドにもぐった私は、いまだ冷めやらぬ右手を左手と結んでいた。
 後ろ手で繋いでいたときと同じ不格好な握手。
 まるでそれは、神さまに祈っているかのようだった。

 ラピスはこの世界に神さまがいるって言ってた。
 そして助けてはくれないとも言っていた。
 ――それでも人は祈る。自分を超える、力強い存在に。

 二人の話はぼかされていたところもあったけど、合わせることでおぼろげながら理解することができた。
 きっとこの世界は優しくない。
 必死に握りしめた大切なものすら、奪い去ろうとするほどに。

 繋がれた手をほどいて見やる。
 ぷにぷにとした小さい手。
 いつもと変わらない私の手が そこにあった。

「これじゃ、だめだよね」 

 握りしめながら言う。
 この手では何も掴めない。
 誰かの手を引くことも、大切なものを守ることも。
 この孤児院の外を怖がるみんなを守るには、こんな手じゃだめなんだ。

 私は前の世界で大切にしていた、汚らしいどんぐりのことを思い出した。
 いたずら書きがしてあるそれを、ペンダントと一緒に毎日眺めていたことを。
 腐ってしまったそれを、泣きながら土に埋めたことを。
 それは前の私にとって、とても大切なものだったんだと思う。

 失ってから気付く大切なもの。
 それはとてもきれいな響きで、感動的な言葉だ。
 でも、そんなの私は欲しくない。

 大切なものを守る力が、私は欲しい。
 

 強い決意を胸にした私の手と手は、もう繋がれていなかった。
 私が守りたいのは、私じゃないから。


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