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腐れ朽ちる闇のそこ3

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 世界は赤に染められていた。
 回廊の魔石灯も、尖塔の硝子窓も、石造りの壁や床も。
 城内の至る所に血痕が散っていた。

 高く響く剣戟けんげきの音に混じって悲鳴が轟く。
 水音を孕んだ悲鳴。
 銀の鎧に身を包んだ騎士がまた一人、命を赤へと換えられたのだろう。
 けれど今、それに心を揺らす余裕はない。

「トトナ……っ! トトナ!!」

 濃い鉄錆の匂いにむせ返りながら、私は愛しい少女の名を叫び続けていた。
 高いヒールの靴を脱ぎ棄て、素足で駆ける。
 向かう先は城外……彼女が寝泊まりしている、飼育対象のいない厩舎。

 平静を失った世界を駆ける。
 灯りを失った回廊の、ほとんど闇と化した空間を駆ける。
 濃密な赤に足を取られても。
 絶え間ない呪詛じゅそに心を蝕まれても。
 ただひたすら、先を目指して駆け抜ける。

「――――っ!」

 闇が満ちていた回廊を抜け、光が満ちる広間に踏み込んだ私は息を呑んだ。
 居館パラスや回廊と比較にならない死の臭い。
 そして、瞳を満たす質の違う赤……炎が広間を包んでいたのだ。

 噴き上がる猛火は魔術で創られたものなのだろう。
 黒煙を吐き出すことはなく、ただただ条理を塗り替える死を撒き散らしている。

 髪先を焦がす熱風に一瞬ひるむも、歯を食いしばって駆け抜けた。
 足が焼ける。
 腕が、肺が焼けて呼吸が追いつかない。

 それでも体を、心を前へ……!

「――かはっ!?」

 突然の激痛と浮遊感。
 出口へと足を伸ばした刹那、暗闇から現れた人影によって私の体は枯れ枝のように放られた。
 鳩尾を穿った一撃が腕か足かはわからない。
 痙攣けいれんする胴と喉は分析する余裕を与えなかった。

 胃液が苦味を与えながら吐き出され、仰向けになった体を汚してゆく。
 視界の端。
 宝物のリボンを避けることすら許されない。

「こいつが例の……。アグニマズドお母さまもお喜びになるなぁ」

 人影――紫紺の装束に身を包んだ男は、炎が満ちる広間で涼しげに呟いた。
 白い髪からのぞく、温度を排した赤い瞳が私を映す。
 見たこともない顔だったが、彼は一方的に私のことを知っているらしい。
 その正体を思案するよりも先。男は酷薄な笑みをこぼし……抱えていた大型の刃物を両手に持ちかえて薄笑った。

「はは。逃げられると面倒だからね」

 灼熱に照らされて刃が煌めく。
 枝の剪定せんていばさみのような形状をしたそれは、黒混じりの赤を滴らせていた。

「…………や、めて」

 私は痙攣する喉を無理やりこじ開けて、短い言葉を絞り出す。
 男の目的なんてわからない。
 けれど、意図は読めてしまったから。

 恐怖に引きつる顔を上げて、涙交じりに懇願した。
 トトナを助けたいんです……許して下さい……どうか、どうか……。
 血の赤と胃液の黄が混じった唇で。
 短い生涯のなかで得た、自分の命より大切なものを守るために。

 ――だが、男は非情だった

「駄目だよ。母さまに叱られてしまうだろう?」

 口元についた紅茶を拭うような、そんな軽い調子で男は言った。

「――ぎッ!?」

 蹴り飛ばされた肩に強い衝撃。
 血か、絨毯の色かはわからない。不明な色味を塗りつぶしながら、私の体は部屋の端まで転げまわる。
 回転を止めたのは壁。石壁に頭蓋ずがいを打ち据えられ、私はうつぶせに倒れ伏した。
 鳩尾への一撃が強烈すぎて、全身の感覚が鈍くなっているのだろう。
 頭部や蹴り抜かれた肩の痛みも、口付けた床の味も、鼻から染み出る赤の感覚も希薄だった。

 炎の熱で視界が揺らぐ。
 薄まった自我のなか。それでも私は、右腕を地に立たせて膝をつく――否、膝は震えて動かなかった。
 ぜてしまいそうなほど熱い眼球で見やり、腕もがくがくと震えていることを理解する。
 奇妙な動きをする腕の向こうに、男の足が見えた。
 足の脇。赤黒い液体を滴らせる剪定鋏が、その鋭利な刃が目に留まる。

 男は大きく足を振り上げ、私の背を踏みつけた。
 背骨が苦痛を叫ぶ。無様な悲鳴とともに、肺の空気が強制的に排される。
 男が視界から消えた。見開いた瞳は、燃え盛る炎を映すのみ。
 けれど、足首にあてがわれた刃物の冷たさが、鋏が開かれる鈍い金属音が教えてくれる。

 開いた“鋏”は閉じて、断つためにある。
 あてがわれたのは私の足首。
 まもなく筋が断たれて、私の足は殺されてしまうのだろう。

 足を奪われてしまったらトトナを探せない。
 もう一緒にお散歩することも、彼女の手を引くこともできない。

 ――許して下さい

 もう一度紡ごうとした言葉は、バチン、という無慈悲な音に切り落とされた。

「――ッあああああああああああああ!!!」

 痛い、痛い、痛い痛い痛い!!!!

 薄まる足先の感覚に代わって、絶たれた腱の痛みが鮮烈に襲い来る。
 頭の中が赤に塗りつぶされて何も考えられない。
 炎の熱も、血の臭いも、世界の全てが遠ざかる。

 ……そんななか、男の声だけは嫌に近く聞こえた。
 それが私にとって必要なことだと、体が判断してくれたのかもしれない。

「止血くらいはしてあげるよ」

 変わらず軽い調子で男は言う。
 乱暴に引き抜かれた刃の痛みをこらえ、首をよじって視線で追うと、彼の指先は《しるし》を刻んでいた。

 《火》《集束》《圧縮》……やがて男の手先は赤熱し、煌々とした光を撒き散らした。
 悪意に集うマナが肌を刺す。
 そして灼熱がゆっくりと、血を吹き出す足首へと伸ばされて――

「あ、あ、あぁぁ」

 いや、いや……やだよぉ。
 痛いのも奪われるのも、いや……いやだ。

「――ははっ」

 愚図る私の心を鼻で笑い飛ばして。
 男の手は、私の足と結ばれた。

「ぎっ……いっ……!?」

 肉が焼け焦げる音が鼓膜を殴る。
 相乗して膨れ上がった痛みは悲鳴さえも食い殺した。
 意図せず噛み合わされた歯の隙間から、血色の泡がこぼれ落ちる。

 切り落された腱が伝える寒気を伴った疼痛とうつう
 そこに上塗りされた火傷の、刺傷ししょうに似た痛みが掛け合わされる。
 互いが互いを高めあい、痛みが仲良く手を組んで。

 私の心を抉り殺す。

「あはははは。さぁ、もう一本だね!」

 明るい声が近く響く。
 冷たい瞳の男は、華やかに高い笑いを上げながら。
 大鋏おおばさみを足首へとあてがった。

「や……ぁ、ぐ」

 私は情けないうめきと涙をこぼしながら、腕を使って這い進む。
 ここじゃないどこかへと逃げるために。
 死にかけた心と体を守るために。

 けれど背を踏みつける足が、それを許さなかった。

 ――バチン

 再び耳を揺らした無慈悲な響き。
 それを最後に、私の意識は黒く塗りつぶされた。
 深い、深い、奈落の底へと――



 ◆



 乱れた呼吸の音が響いていた。
 反響するそれは壁面を跳ね返り、私の耳朶を打ち据える。
 自分の息遣いによって、私は意識を取り戻した。

「……ぐ、ぅぅ」

 足首から全身へと広がる痛みに心を占められるより先。私は、目を開こうとした。
 だが、開かない。閉ざされた瞼の闇が広がるばかり。
 瞳を潰されてしまったのではないか。
 抉られてしまったのではないか。
 抗いようのない恐怖に突き動かされるまま、私は顔に手を這わせた。

 そうして気がついた。
 手も、開かない。

「や……いやぁ……」

 何もわからない。
 暗い、痛い、怖い。

 恐怖に侵され半狂乱になった体は、私の支配を離れて暴れまわる。
 化け物のような声を轟かせながら。
 全身を床へ、壁へと打ち付けた。

 数多に疑問は浮かぶも、それは言葉に成り得ない。
 血塗れの唇を伝うは、意味を成さない音ばかり。
 喉を震わせる怨嗟に耳が埋まる。

 闇に沈んだ空間で。
 私は、身体が動かなくなるまで暴れ続けた。



 ◆



 ……いつまで平静を失っていただろう。

 倒れ伏した体を伝う冷気。
 頬を擦る石床のザラつき。
 そして、頭蓋と両手のいましめを知覚できるくらいには、心は落ち着きを取り戻していた。

「どうして……?」

 無為な嘆きが闇に溶ける。
 力を使い果たした私が次にしたことは、ただ怯えることだった。
 震える言葉に意味はない。

 ――けれど、それは契機になった。
 激痛と恐怖に占められた心は、自分が・・・助かる術を探して思考を巡らせる。

 自室で、悲鳴に叩き起こされたのは朝だったはずだ。
 鼓膜を破らんとする怒号と、剣戟けんげきの金属音を覚えている。

 居館パラスの扉を開け、見開いた瞳が映したのは一面の赤と銀。
 鉄錆の臭いを撒き散らす赤絨毯のうえ、鎧騎士が入り乱れて剣を交えていた。

 血塗れの銀を振りかざす者。
 ほふった死体を足蹴にする者。
 数人に囲まれ、串刺しにされる者。

 それら全てが同じ甲冑に身を包んでいる光景は異様だった。
 恐らく、敵味方の区別をつけていたのは“声”なのだろう。
 生者が声高に叫んでいたのは、腐毒の神の忌み名と、魔女の名前。
 エルヴンガンドの大魔術師、“紅蓮”の二つ名を持つ――アグニマズド・グラットン。
 私から自由を奪った男も、たしかあれ・・の名を呟いていた。

 革命、クーデター、内乱の誘発、侵略。
 数多の言葉が浮かんで消えて――私は駆け出したのだった。


「トトナ……アルダメルダ、さま」

 肩に触れた感触。
 リボンの質感によって、思考は現実へと引き戻された。
 
 トトナはどうしているのか、今の私に推し量ることはできない。
 彼の人は敵か味方か……それさえもわからない。

 大魔術師は出国はともかく、入国にかなりの手間がかかると聞く。
 魔女の単独行動という線は薄いだろう。

 となると、エルヴンガンドが白の国を落としにかかったか。
 可能性としてはあり得る。だが――

「…………」

 それでも縋るしかなかった。
 エルヴンガンドの大魔術師……“十指”の二つ名を拝命した彼の人、アルダメルダさまに。

 “空の魔法使い”である私の力。
 手紙の魔法は一度かけた相手なら、たとえ離れても発動することができる。
 魔術と違って《しるし》を刻む必要もない。

 ……こんなことならトトナにも使っておけばよかった。
 先に立たない後悔を排して、私は魔法を発動させた。

 “助けて下さい”
 短い想いを魔法に籠めて、遠い彼方へと送り出す。

「――っ!?」

 直後、縛られた指先に軽い電流が奔る。
 衝撃が意味するのは“失敗”。
 魔法が不発に終わったことを告げる合図サインだった。

 原因を考えることなど馬鹿らしかった。
 重要なのは、手の内の希望が壊玩具ガラクタになったという事実だけ。
 《しるし》を刻む指を封じられ、視界を闇に閉ざされて。
 逃げ出すための足さえも奪われた私はもう、何も為せることがなかった。

 ここがどこかはわからないけれど、置かれている状況は理解しているつもりだ。
 打ち付けた体が伝えてくれた。
 三方を囲むのは無骨な石壁。狭い間隔でそびえるそれは、決して脆さをにじませない。

 残った一方には格子がはめ込まれている。
 舐めたときの舌に残った重苦しさが、鉄製であることを知らしめた。

 鼻腔を満たすかび臭さと、全身を包む冷気からすると、ここは地下である可能性が高い。
 地下牢――人を閉じ込めておくために造られる施設。
 そんな場所でただの小娘ができることなど、何もなかった。

 だが、殺さずに囚らえたということは目的があるのだろう。生かされているという事実が、それを裏付ける。
 ……だから、まだ助かる可能性はあるかもしれない。

 助かったとしても、私の足はもう元のようには戻らない。
 死ぬまで一生この足を引きずって、歩けないことに涙して、人に迷惑をかけ続ける。
 それでもトトナと共に居られるなら。
 あの陽だまりの日々に戻ることができるなら、どんな不便でも受け入れよう。
 一緒にごはんを食べて、お昼寝をして、本を読んで――


 足首の、身を焦がす痛みに耐えながら。
 私は突き崩された幸せを拾い集めて、夢想した。 



 ◆



「――うぐ……ぇっ」

 何度目になるかわからない嘔吐を経て、私は体を仰向けに戻した。
 閑寂とした空間に荒い呼吸が響く。
 骨にまで至る傷を受けていた私は、高熱に侵されていた。

 額は焼けつくほどに熱いのに、首から下は凍てつくほどに寒い。
 胸を満たす吐き気は止まることを知らず、苦い汁をひた送る。
 かき消えてしまいそうなほどに感覚が薄まった指先とは逆に、心臓は破れてしまいそうなほどにがなり続けていた。

 ……ここに来てから、もう何日になるのだろう。
 闇に閉ざされた空間は、時の移ろいを伝えない。

 知らしめるのは私の体。
 弱まってゆく命の灯火が、残り時間を知らせてくれていた。

「はっ、はぁっ……ぁぁ」

 頭蓋のいましめの内で、雫が染み出る。
 身体は乾き切っているにもかかわらず、胃液と涙だけは際限なく排されるのだ。
 だが、それに何かを思う余裕はなかった。
 ――どうしようもない痒みが、足先でざわめいていたから。

 切り裂かれ、焦がされた傷口は腐りつつあるのかもしれない。
 けれど私に、不自由な手を伸ばす勇気はなかった。
 知ってしまったら……きっと心は朽ちてしまうから。

「んっ……じゅる……はぁ……」

 私は痒みを誤魔化すように、吐き出した胃液を舐めとった。
 石床のザラついた感触と、口内に広がるおぞましさが心を満たす。

 臭いはわからなかった。
 闇に侵された精神は、いろいろなものを捨ててしまったから。
 ……そうやって私は、やがて、命さえも捨ててしまうのだろう。

 恐怖から身をまもるため。
 生まれる前の赤子のように体を縮めて、私は眠りに落ちた。
 

 ――からだが腐る

 ――夢をみた



 ◆



 破れた袋から空気が漏れるような音がする。
 奏でているのは肺か喉か、それを確かめようという気にはならなかった。
 身体を本能が占めていたから。

 全身を満たしていた痛みと熱は、いつの間にか鈍くなっていた。
 代わりに現れたのは果てしない飢餓感。
 それが、胸に近い位置をぐりぐりと抉るのだ。

 手先が縛られていてよかったと思う。
 食べてしまって、魔術が使えなくなってしまったら困るもの。
 アルダメルダさまにお褒めいただいた魔術が、使えなくなってしまったら困るもの。

「ふ、ふふ……」

 私は喰い抉った二の腕を揺らして、掠れた声で笑った。
 かつてそうしていたように、上品に笑いたかったのに。
 涸れた喉が許してくれなかった。

 意地悪ね……。
 微笑びしょうを湛えようとするも、縛められた頭蓋が許さなかった。

 きっと、私は死んでしまうのだろう。

 いつかの私は認めようとしなかったけれど、いまならわかる。
 でも……それもいいかもしれない。

 こんなにも惨めで、辛くて苦しくて……怖い思いをし続けるくらいなら。
 もう、死んでしまいたい。

 自分の体が怖い。
 腐りゆく肢体が、破れてしまいそうな心臓が怖い。
 いっそ破れてしまえって、何度思ったかわからない。

 壊れゆく心が怖い。
 味も、においも、触感さえも捨ててしまった心が怖い。
 ……狂ってしまえれば楽だったのに。

 闇が、体と心を蝕む闇が怖い。
 光を失うことがこんなにも恐ろしいなんて知らなかった。
 自分は、もう死んでしまったのではないか。
 そんな疑問に対する答えさえ、光が無ければ見つけ出せないから。

 恐怖に満たされて。
 私は、絶望を知った。



 ◆



 死にたい。
 間違いなくそう思っていたはずだ。
 けれども身体は正直で、垂らされた希望の糸に縋ってしまった。

「はっ……ぐ、ちゃく……」

 口へと運ぶ、水気を含んだ何か。
 全てをあきらめていた私の元にそれ・・が投げ入れられたのは、少し前のことだった。

 ただ浅い呼吸を繰り返すばかりだった私は最初、いつもの幻聴だと断じていた。
 耳元で生み出された音を無視して、再び心を閉ざす――つもりだった。

 でも、私は希望を捨て去ることができないでいた。
 絶望に呑まれた心に残った、最後の拠り所。
 生を求める本能が突き動かすのだ。

 舌でなぞるも、希薄な感覚は味を伝えない。
 鼻を動かすも、瀕死の心は匂いを伝えない。

 だから噛んだ。
 顎を動かして、砕いて、飲みこんだ。

 それが何か、どうして与えられたのかなんてどうでもよかった。
 重要なのは飲み込めるか、否か、ただそれだけ。

 噛み切りにくいところは、歯ですり潰すようにして断った。
 ぎゅちぎゅちと、生温かいそれが口の中で躍る。
 まるで外へと逃げようとしているふうだった。

 何度も何度もこぼれるそれを、私は時間をかけて飲み下した。
 
「ぐぷっ……おぇっ……」

 けれど、体は受け付けてくれなくて。
 せっかく詰め込んだそれを吐き出してしまうのだ。

 喉の奥から異物がせり上がるのは苦しかった。
 息ができなくて、詰まったときは本当に死んでしまう覚悟をした。
 
 それでも私は嬉しかった。

 ――吐き出したそれを、また食べることができるから



 ◆



 食料は、私が死に瀕する度に投げ入れられた。
 靴音はわからない。
 ただ石床に、水気を孕んだ落下音が響くだけ。
 何もかもを失ってしまった私が、唯一満たされる瞬間がそれだった。

 頭をからっぽにして。
 噛んで、飲み込んで、吐きだして。
 そしてもう一度飲み込むのが……いつしか、たまらなく好きになっていた。

 今日も私は満たされる。
 最高に幸せな時間。
 生温かい食料を、口の中ですり潰していたときのことだった。

「…………?」

 やわらかい、けれど噛み切れないものが口内に残る。
 食い千切ろうとしているのに、力が上手く入らないのだ。

 なんでだろう? ……久々に生まれた疑問に動揺しながら、私はそれを吐き出した。
 唾液を多量に含んだ何かが、石床の上へと広げられる。

 舌でなぞって形をさぐると、それは紐であることがわかった。
 しなやかな、覚えがある紐――

「え……」

 忘れていた恐怖が蘇る。
 どこまでもどこまでも落ちてゆくような、浮遊感を伴った恐怖が。
 閉じていた五感全てをこじ開けながら、蘇る。

 鼻腔を満たす鉄錆の臭い。
 口内を埋める生温かさ。
 耳を揺らす、荒い吐息。
 喉を掻き毟りたくなるような、どうしようもない不安。

 歯の根が震える。
 焦燥に急かされるまま、私は……肩で髪を探った。

 そこにあった。



 吐き出した紐と同じ、虹色のリボンが。



 ――生きて、ずっと友達でいてください

 赤い髪からのぞく群青色の瞳が。
 照れ笑いを浮かべながら差し伸べてくれた手が。
 愛する友人の姿が……闇の世界に描き出される。

「あは、あははははははは!!」

 場違いに明る声が闇のなかを舞い踊った。
 声の主は私。
 血色の吐息にのせて、狂った笑いを送り出す。

 じんわりとお腹に広がってゆく熱。
 トトナはいたんだ。
 私の、ナカに。

「ははははは! あっはははははは!!」

 枯れた心は涙を流さない。
 代わりにこぼすのは笑い声。

 狂気に身を委ねながら、私はトトナの食感を思い出していた。
 においも味もわからなかった。
 けれども肉厚で、筋張っていた箇所が多かったことは覚えている。

 なかなか噛み切れなくて、がんばって噛み潰したこと。
 口から何度もこぼれて、外へ出ようと這いずっていたこと。
 ……ああ、もしかしたら私は、食べていたものが何だったのか知っていたのかもしれない。

 口から外へと送り出していたのも。
 飲み込んだあと、何度も何度も吐き出したのも。
 ぜんぶ……私の体だったから。



 ◆



 ゆっくりゆっくり、トトナが私のモノになってゆく。
 汚いからだに溶けてゆく。

 それはとても幸せなことだった。
 約束を守ることができたのだから。
 大好きなトトナとずっと一緒にいられるのだから、辛いことなんてあるはずがない。

「……死んじゃえ」

 私は幸せだ。
 幸せでなければいけないんだ。

 たとえ足が腐れ、焦げていたとしても。
 心が侵されて、ただれていたとしても。
 友達はずっと……私のそばにいてくれるから。

「……死ね……死ね」

 いち足すいちが、にであるように。
 あの子は消えてなんかいないんだ。
 私のナカで、生きているんだ。


 ――なんて暗示では、自分すら騙すことができなかった


「どうして……?」

 口端を伝う嘆きが、薄弱な嘘を暴く。
 もう何もわからなかった。
 何もわかりたくなかった。

 それでも、本心は真実を求めて留まらない。
 体と離れてゆく心から目を背け。
 私は、何度となく繰り返した行為――手紙の魔法を送りつける。

 宛先に記すは、愛おしい彼の名前。
 私と……そしてトトナが愛した男の名前。

「ねぇ……私、どうすればいいのかな?」

 言葉と裏腹に、明確な意志を籠めて。
 私は魔法を送り出した。

 それが届いたかどうかはわからない。
 深い、深い、奈落の底へ。
 意識は沈んでしまったから。


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