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腐れ朽ちる闇のそこ4

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 記憶を手繰る指先を止めた。

 語り続けた口を閉ざして、瞼を引き剥がすように目を開ける。
 過去に沈んだ意識を引き上げるために。
 まばゆい光が網膜を焼き、耳鳴りが一層強さを増した。

 身体を蝕むのは絶望の残滓ざんしだろう。
 揺らいだ心に呼応して、足先の痛みが騒ぎ始める。
 腐れる痛み……死の気配を撒き散らして。

 部屋に満ちる、魔術によって作られた光は心を救わない。
 腹底から込み上げる吐き気は消えなかった。
 だが、瞳は愛おしい家族……エイミーの黒髪を映してくれた。

 少女の肩は淡く揺らめいていた。
 それは私の頬を伝う雫のせいなのか、彼女の怯えからくるものなのかはわからない。

 わからないままに私は、揺らぐ肩を抱きしめた。
 強く、弱く、大切な家族の名を呼んだ。

「その、ラピス……」

「ありがとう。もう、大丈夫だから」

 気遣わしげな声は先んじて摘み採ってしまう。
 語る過去も、あと少し。
 分けてもらった勇気を胸に、私は再び口を開く。

「――それからも暗闇の日々は続いたわ。
 けれど……閉ざされた世界で、虹色のリボンだけは見えていた」

 私がつけていたものと同じ……けれど、違うもの。
 それは暗闇の中で私を責めているように見えて。どうしようもなく眩しくて。
 私は視界の外へと追いやった。

「死にたかった。死にたくて、死にたくて、死にたくて……でも、死ねなかった」

 いつか手を差し伸べてくれた少女はもういなかった。
 それでも私は死ぬことができなかった。

「トトナとの約束があったから死ねなかったのかもしれない。
 ただ、自分が生き汚かっただけかもしれない。
 実際のところはわからないけれど、私はそれでも口に運び続けたわ」

 口に運んでいたものが何か。
 トトナがいまドコにいるのか。
 全てを知った上で、私は目を背けた。

「彼女のリボンはいつの間にか消えていた。……きっと、食べてしまったのだと思うの」

 語りながらもう一度おなかを触ってみる。
 ……やっぱり、ここにあった。

「再び訪れた真っ暗闇に、完全に心が殺されてしまう寸前。
 私はアルダメルダさま……おじいちゃんに助け出されたわ」

 始まりも終わりも、全ては突然のことだった。
 助け出された……というのは少し違うかもしれない。
 だけど、今の記憶ではそれが真実だから。
 私は言葉を繋げて、エイミーの興味を逸らす。

「私の知らないところで、どんな物語が編まれていたのかはわからない。
 国を崩した方策、仕組んだ者の意図、数多の疑問は氷解しなかった。
 ……地を這う人間はやはり、全てを知り得ることなど出来ないのだから」

 でも、
 私は継げる。

「確かなこともあるの。トトナを食べてしまったのは、私ということ」

 許されない罪を犯してなお、生き永らえているということ。
 声なき声で付け加えて自嘲する。

「これが私の過去。ラピスの、心よ」

 揺れる黒髪に輝く虹色のリボン。
 それを見やりながら、私は告げた。


 貪食――それが私の罪。
 『ラピス』を作る、心的外傷の根幹だと。



 ◆



 どのくらいの時間が経ったのだろう。
 すべてを語り終えた私は、放心したように黒光りする床を見つめていた。

 気がつくとエイミーの足がこちらに向き直っている。
 彼女の瞳はいま、私をどう映しているのだろう。
 恐れ、あわれみ、侮蔑……顔をあげるのが怖い。

 すべてを受け入れなければいけない。
 そう必死に自分に言い聞かせ、責め立てて。
 それでも動けないでいた私の頭は、あたたかい二本の腕で包まれた。

「ラピス……ありがとう。話してくれて」

 冷え切って硬直した私の心に、他愛もない彼女の言葉が染みてゆく。
 その声に導かれるように顔をあげると、

「……エイミー?」
 
 そこには涙と鼻水を流し、それでも一生懸命に笑いかける少女の顔が。
 トトナとお揃いのリボンで髪を結われた……エイミーの顔が輝いていた。

「もう大丈夫だよ。何があっても、私はそばにいるからね」

 こぼれる雫を拾うこともせず、涙交じりの言葉は告げられる。
 哀色あいいろが滲むひきつった笑顔。
 けれど、そのの笑顔は手を取るように、私の心を現在いまへと導いてくれた。

 鼻の奥の、ツンとする衝動。
 口へと滴る透明の塩辛さ。
 ゆらゆらと揺らめく少女の黒髪。

 いつかのように、まどろんでいた五感が鮮明に開かれる。
 ――でも、そこにあったのは絶望ではなかった。

 首の後ろに、ゆるく回された腕の熱が。輝く笑顔の明るさが。
 寄り添う心が……私を一人にはさせなかったから。

「……ふふ」

 エイミーとトトナは全然違う。
 容姿も、性格も、仕草も。ほとんど重なるところなんてないはずのに。
 辛さを殺して手を差し伸べる姿は、鏡映しのように瓜二つだった。

 どうしてかはわからない。
 だけど、気付けば私の顔にも笑みが浮かんでいた。

 エイミーと同じ……いや、もしかしたらもっと酷いかもしれない。
 冬へと移ろう空気が教えてくれた。
 私の顔が、涙と鼻水でペタペタになっていることを。

 けれど不思議と、私は顔を隠す気にはならなかった。
 おなかの底から……手の先から……足の先から……心の底から。
 身体のすべてで、心の闇を洗い流すように笑った。

 エイミーも笑っている。
 顔中を、やっぱりペタペタにして。
 それでも私を勇気づけようと笑っている。

 そんな彼女の、女の子にあるまじき顔を拭いてあげようとして。
 私は布巾を取ろうと立ちあがった。

「え……?」

 感じたのは違和感がない違和感。
 それは、私を縛り付けていた鎖が消えたことによるものだった。

「どうしたの?」

 呆然と立ち尽くす私にエイミーが問いかける。

「……足が、動くの。痛くないの」

 闇の鎖に絡め取られた私の足。
 れる痒みも、焦げ付く痛みも、いまはもう消えていた。

 代わりにあるのは少女の心。
 愛おしい家族の、優しい想いがそこにあるばかり。

 足先に手を伸ばすよりも先に、あたたかな腕が再び、私を包んでくれた。
 今度は強く、強く……壊れてしまうほどに強く。

 こぼれ落ちる雫のゆくえ。
 瞳が映すは、少女の髪を結わえる虹のリボン。
 私の宝物はエイミーの光を受け、愛色あいいろの輝きに満ちていた。


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