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違える心2

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 痛い。痛い。
 頬からドロリと、膿のように湧き出る赤色も。
 視界を隠そうとする白髪のカーテンも。
 全てが霞むほどに胸が痛い。

「はぁ……! はぁ……っ!!」

 駆け込んだ礼拝堂の扉を後ろ手に閉めて、私はそのまま崩れ落ちた。
 大した距離を走ったわけでもないのに膝が笑っている。
 笑うことができない私を馬鹿にするように、ケラケラケラケラ笑っている。

 どうしてあんなことをしてしまったんだろう。
 エイミーを叩いてしまった右手を見やる。
 べっとりと付いた血のりは大半が乾いていた。
 その赤鎧せきがいのしたには、家族を傷つけた罪の感触が詰まっている。

「――ぁああッッ!!」

 それが許せなくて、憎たらしくて。
 石床へと腕を叩きつけた。
 高く振りかぶって、中身を外へと引きずり出すために。

 何度も。
 何度も。
 何度も。

 自分が許せなかった。
 嫉妬に狂って、手を差し伸べてくれた彼女を傷つけた自分が。
 私はかつて、エイミーに言ったことがある。

 ――誰かの一番になりたい、愛されたいと思うのは当たり前

 偉そうなことを言ったものだ。
 綺麗ごとを吐く私自身、自分のなかの嫉妬を許せていないのに。
 自分の欲望を正当化するために彼女を利用したのかもしれない。
 ……それも失敗したけれど。

 私はラピスが憎かった。
 昼間も夜もエイミーを一人占めして、心を満たす彼女が。
 頭がよくて綺麗で、こんな私にも優しくしてくれる彼女が憎かった。

 私に内緒で魔術の特訓をしていたエイミーが憎かった。
 昼間、遠目で見ただけでわかった。
 彼女にはとてつもない魔術適性があるのだろう。
 その才能が。私がいくら手を伸ばしても手に入らなかったものを、容易く手にした彼女が憎かった。

 魔術の研鑽けんさんを積んで、一体どうするの?
 この家を出て外の世界へ。
 私を置いて、遠くへ行ってしまうの……?

「――――ッ!!」

 こぼれ落ちる感情をごまかすように、ざらつく石床に腕を擦りつける。
 ぐりぐりと赤色を引き延ばしていると、だんだん哀しみが痛みに変わってきた。
 肉を抉るおぞましさと刺すような痛み。
 体の苦痛が心を満たしてくれる。

 そうしていると少しだけ気が楽になってきた。
 礼拝堂に満ちる静寂を裂く、荒い吐息。
 淀んだ鉄錆と汗のにおい。
 無機質な石床を伝う冷気。
 そして、無様な自分の姿を客観視できるくらいには。

 ――でも、それも一瞬のこと

 おなかの奥の、黒くて重いかたまりが暴れ出す。
 それに呼応して嫉妬の炎が再燃し、私の心をぐずぐずに焦がしはじめた。

 どうして私じゃないんだろう。
 私はいつも恵まれない。
 大切なものはいつも奪われて、消え失せる。

 エイミーの耳元で髪を結えるリボンが。
 虹色のそれが、私を置き去りに作り上げた二人の絆のようで……酷く、妬ましかった。

 憎みたくなんかなかったのに。
 手を差し伸べてくれたエイミーとラピスが、本当は大好きなはずなのに。
 ――私は嫉妬に狂って、彼女たちを袖にした。

「…………」

 昏い後悔の沼に呑みこまれた私は、舌のうえに、そっと歯をのせる。
 ぬめるそれが決して逃げられないように、根元の方へ。

 限界まで見開かれた瞳に力が満ちる。
 頭の血管が強く脈打って、痛みを伴って告げてくる。
 そんな体の警告を振り切って、私はゆっくりと歯を振り下ろし――

「やめなさい」

 寸前、突然響いた声に身体が硬直した。
 口端を伝って唾が滴り落ちる。

 石床を見つめていた視線を上へ向ける。
 声の主を探して、ゆっくりと。

「……ルシル。やめなさい」

 そこにいたのは、皺だらけの手で《しるし》を刻む大魔術師。
 アルダメルダ・ファーファレウス……おじいちゃんだった。
 魔術による光を纏い、彼は真っ直ぐにこちらを目指して歩み寄る。

 礼拝堂の正面入り口から現れた彼は息を乱していた。
 居住区へと繋がる扉は私の背が塞いでいるから、きっと走って、回り込んで来てくれたのだろう。

「口を閉じろ」

 ――パンッ!

 思わぬ衝撃に顔が真横へ折れ曲がった。
 遅れて頬に熱が灯る。
 
「もう一度必要か?」

 振り抜いた平手。その残心を湛えたまま彼は問いかけた。
 いつものやわらかい笑みを浮かべるおじいちゃんじゃない。
 とても哀しそうな。
 そして、どうしようもなく辛そうな顔をしている。

「……お願い、します」

 おじいちゃんはわかっているんだろうな。
 私が、優しく遇されることを望んでいないことを。
 どうしようもなく自分勝手な心を、責めてほしいと願っていることを。

「うむ。……歯を食いしばれぃ」

 髪を掴まれて上向けられた顔が、再び真横へと折れ曲がる。
 水音を孕んだ破裂音がくうを裂き、爪痕の痛みを押し退けて熱が駆けた。

 口内に血の味が広がる。
 ビリビリと痺れる痛みが全身に巡る。
 だが、それがむしろ心地よい。

 次いで、瞳が薄い青を映した。
 おじいちゃんに何度となくかけてもらった《水の加護》。
 それはエイミーの優しさであり、私が踏みにじった魔術でもある。

 心に問いかける声なき声は、私の内心なんておかまいなしに迫る。
 是か否か、無機質な二択を。

「――わかるな?」

 彼は抑揚のない声で凄んだ。
 感情を排された音がもたらすのは、有無を言わさない強い威圧。
 この家に来てから二度目となるそれに怖気づいた私は、思考を経ずに加護を受け入れた。

 直後、全身の痛みがどこか遠くなる。
 身体じゅうを巡っていた苦痛がすぐに消えることはないけれど、抉れた傷口から伝わっていた痛みは、痺れへと置き換えられた。

「横に座るぞ」

「……はい」

 加護によって作られた清涼な空気を滑る声。
 その音色に、もう威圧は含まれていなかった。

 《水の加護》は、傷の治癒のほかに消音の効果がある。
 打ち消されないのは“対象者が必要と望む音”だけ。
 建物の軋みや小さな風の音。
 そういった雑多な音が消え失せた空間で、響くのは彼の鼓動と声ばかり。

 何度となく繰り返した感覚だ。
 そして、自分の鼓動が聞こえないのもいつもどおり。

「……おじいちゃん」

 全ての音が死に絶え、彼だけが生きる空間で。
 私は、その生にすがった。

「……私、エイミーに酷いことをしちゃった」

「…………」

 彼は言葉を生み出さない。
 ただ命の音を響かせて、ジッと私を見つめている。
 深い青色の瞳は何も語らず、ただ赤い眼を映していた。

「……どうすればいい、かな」

 そもそも、私はどうしたいのだろう。
 許しを乞いたいのかもしれない。
 ラピスを押し退けて、私を傍に置いてほしいのかもしれない。

 わからない。
 もう、何もわからない。

「――難しく考えるな」

 どうしようもない感情をそのままぶつけた私に、おじいちゃんは短く告げた。
 それから私の手を取って、さすりながら続ける。

「知ってると思うが、エイミーには魔術師に……ゆくゆくは大魔術師になる素質がある」

「……うん」

 たぶんそうだと思ってた。
 垣間見ただけでも、彼女のあり得ないほどに高い適性が伝わったから。
 まるで戯曲に出てくる英雄のように、あの子はマナに愛されている。

 冷静になった今ならわかる。
 エイミーが魔術をひけらかさなかったのは、きっと私のため。
 大魔術師の家系に生まれたのに、何の適性もなかった出来そこない。
 ……そう罵られ続けて、魔術を憎んだ私への気遣いだったのだろう。 

「だがな、肝要なのはそこではない。重きを置くべきは、力を以て何を成すか、じゃ」

 乾いた血が、おじいちゃんの手のひらで温められて溶ける。
 赤に塗れた手をさすりながら、それでも眉をしかめることなく。
 彼は誇るように声を張り上げた。

「エイミーは“私が好きなみんなを守る”……そう言ってくれたよ」

「……みんなを、守る?」

 予想外の言葉に動揺する私。
 それを見据えるおじいちゃんの頬は、少しだけ緩んでいた。

「魔術は力。もちろん簡単に触れさせるつもりはなかった。
 わしはこれでも本気で脅したんじゃ。大人げなく、竦みあがらせるつもりでな」

 彼はそこで言葉を切って、静かに視線を逸らした。
 心の揺れが収まるのを待ってくれているのかもしれない。

 彼が本気で脅したということは、それは恐ろしかったことだろう。
 私はここに来たばかりのころを思い出した。

 この家にまだ、私と、おじいちゃんとラピスしかいなかったとき。
 魔術を身につけなければいけない強迫観念にとらわれていた私は、昼夜を問わず《しるし》を刻み続けた。
 魔術師で、魔法使いでもあるラピス。
 大魔術師のおじいちゃんに教えを乞って、必死に。

 ……それでも、やっぱり結果はついてこなくて。魔術に取りつかれていた私は酷く落胆した。
  こんな私に価値なんかないって。
 助けられた命をも捨ててしまおうとした私は――そこで初めて怒られた。

 魔術を使われたわけじゃない。
 暴力を振るわれたわけでもないのに、おじいちゃんの怒りは、アグニマズドお母さまのそれよりも恐ろしかった。

 “大切な家族を傷つける者は許さない”
 “それがたとえ、自分自身を傷つける行為だったとしても”

 言葉はまるで《しるし》だった。
 世界を塗りかえるような音は、肌を通して心に響いた。
 “絶対に正しい”……一片の疑念すら抱かせない力が、彼の言葉にはあったのだ。

「――だが、エイミーは自分を曲げなかったよ」

 再び、彼の視線が私を射抜く。
 エイミーの想いを伝えるために。

「震える声で、ここで暮らすみんなが好きだと言った。
 ……ルシル。もちろんそこには、お前さんも含まれておる」

 握られた手に力が籠る。
 強く、熱い想いが痺れの上から包み込む。

「どんなに大きな力を持ったとしても。人の力なんて“世界”の前では塵に等しい。
 だからこそ、その大小に価値を見出すなど愚かしいことじゃ」

 大魔術師アルダメルダは、そう言って自嘲げに笑った。
 エルヴンガンド王国に選ばれた一握りの存在。
 その彼が軽んじるのだから、かつて私が求めた魔術というのは下らないものなのだろう。

「エイミーにとっては、魔術なんて目標を達するための手段に過ぎないのじゃろう。
 彼女の誓いに迷いはなかった。ただ真っ直ぐに、“守りたい”意志を伝えてくれた」

 懐かしむように彼は言う。
 我が子の成長を見守る父の顔というのは、こういうものなのだろうか。

 エイミーは弱い子だと思っていた。
 転移者についての知識はないけれど、この世界のことを何も知らないということはわかる。
 未知に怯え、世界に怯えて。
 そしてひたすらに温もりを求める……私と同じ存在だと思っていた。

 ――でも、違ったんだね

「だから、な」

 小さく頷いた私に対し、おじいちゃんは口調を和らげて継げた。
 幼子をあやすような、温かみのある抑揚で。

「難しく考えることはない。あの子はちゃんと、ルシルのことを見てくれているよ」

 そう言って彼は、服の裾で血を拭ってくれた。
 《水の加護》は即座に傷を治すことはできない。
 頬の傷はまだ塞がっていないから、首や腕の赤が先に清められる。

「……だめだよ」

 でも私は、おじいちゃんの言葉を受け入れるわけにはいかない。
 私はあの子に……エイミーに守ってもらえるような存在じゃないから。

「……私が許されるのは、だめ」

 エイミーの嫉妬は魔が差しただけ。それでも彼女は、一瞬湧いた感情すらも許さなかった。
 たったひとり、礼拝堂で自分を責めていた。
 たくさんの涙をこぼして苦しんだ。

 対して、私はどうだろう。
 彼女の比じゃない醜い嫉妬心に狂っておきながら、表情ひとつ変えず、涙を流すこともない。
 エイミーとラピスを……愛する家族を傷つけた私が、許されていいはずがない。

「――許すか、許すまいか。それを判断することは、わしにはできん」

 そう言って彼は、ため息を宙へと送り出す。
 吐息の余韻よいんが消えたころ。彼は指を鳴らして、言葉を継げた。

「よって、その先は本人に聞くとよい。……のう、エイミー」

 言葉は私ではなく、彼の背後に投げかけられた。
 それは私の背後でもあり、居住区へと続く扉でもある。

 おじいちゃんは私の手を引いて移動を促す。
 ぐいと引っ張る腕の力は強く、私の抵抗を許さない。

 魔術によって音が消えた世界で。
 けれども、彼女の声はより大きく響いた。

「えっと……盗み聞きして、ごめんなさい」

 そこにいたのは涙に目を腫らした女の子。
 唇と頬を乾いた血で染め、それでも気丈に振る舞う優しい家族……エイミーだった。



 ◆



 あとは任せたぞ。
 そう言葉を置いて、おじいちゃんは扉の向こうへと消えていった。
 文字通り手放された私は、石床にへたり込んで呆然とするばかり。

 深夜の礼拝堂。
 うら寂しい、冷たい空気が満ちるこの場を照らすのは、魔術によって作り出された光。
 ……それともうひとつ。

「ルシル、痛い……痛いよね。ごめんね」

 みんなを導く優しい光。
 エイミーの心が、私を照らしてくれていた。

「…………」

 何も悪くないのに彼女は謝り、気遣いの言葉をかけてくれる。
 どうしようもなく醜い女に寄り添ってくれる。
 だというのに、私は言葉を返すことすらできないでいた。

 痙攣けいれんし続ける喉は、声を送り出すことを許さない。
 私は常に、言葉が詰まるよりも先に口を開くことを心がけている。
 でも、今はそれすらもできないのだ。
 胸の中にはたくさんの感情が、言葉が渦巻いているというのに、私はその一片すらも伝えることができない。

「ねえ、ルシル」

 情けないこの身を責め、悶える私に。
 彼女は静かに語りかけた。

 黒い虹彩に白が映る。
 私の髪、魔女の母と同じ色が。
 その姿に何かを考えるよりも先に、彼女の手先が目を惹いた。
 それは私の腕へと伸ばされ――何かに怯えるように引っ込められる。

「……みんなでコロッケを作った日のこと、覚えてる?」

 何度か同じ動作を繰り返したあと、エイミーは瞳にあいを湛えて継げた。
 引きつる喉は未だ役立たずだけど、首を動かすことくらいはできる。
 私は彼女の瞳を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。

 忘れるはずがない。
 忘れるなんて……ありえない。
 私の胸で涙してくれた彼女の想いは、一生の思い出だから。

「失敗作のコロッケを食べて、褒めてくれたこと。
 “また食べさせて”って言ってくれたこと。……私は、本当に嬉しかった」

 エイミーは自分の胸に手をあて、噛みしめるように言った。
 肩には若干の震え。
 赤く腫らした目からは新たな雫がこぼれ落ちる。

「あの日の夜も、ルシルは私を助けてくれたよね」

「……覚えているよ。ぜんぶ、覚えてる」

 流れる涙をとめたくて。
 私は引きつる喉を押さえて、無理やりに声を絞り出した。

 彼女は返事がかえされるとは思ってなかったらしい。
 ぬれた瞳を見開いて、それから取り繕うように続けた。

「あはは……あのときは涙とかよだれで、ぐしょぐしょにしちゃってごめんね」

 不自然な照れ笑い。
 哀しい気持ちを押し込めていることが見て取れる表情だった。
 激しく首を横に振って意志を伝えると、エイミーは「ありがとう」と返してくれた。

 私の想いが正しく伝わったかはわからない。
 けれど、私が言葉を重ねるよりも先に、彼女の声が放たれた。

「いま私がここに居られるのは、ルシルのおかげだよ。
 あの夜、ルシルが許してくれたから。守ってくれたから……私は自分を受け入れることができた」

 だから、
 継げる彼女の瞳には強い意志。
 眼差しが示すは“絶対”の想い。

「これからは私が守るよ。ルシルも、ここのみんなも」

 エイミーは力強く言い切った。

「――嫌われたって、私はもう迷わないから」

 そう付け足して、彼女は眉根を吊り上げる。
 そして私の手をとった。

 魔術がかけられているとはいえ、床に打ち付けた私の腕はまだ痺れている。
 それなのに何故だろう。
 握られた手からは痛みじゃなくて、温かさばかりが伝わってくるのだ。

「……違うよ」

 温もりが伝えてくれるのは愛情。
 なら、私が与えたのは何?

「……嫌いになんか、なるわけない」

 叩きつけた手のひらが与えたのは嫉妬と憎しみ。
 そんなの、許されるはずがない。
 
「……違う、違う違う!」

 過去を変えることはできない。
 過ちを無かったことにすることはできない。

「……っ私が言いたかったのは、そんな言葉じゃない!!」

 でも、罪をあがなうことはできるだろう。
 許されなくたっていい。
 優しい女の子にせめて、私の心を伝えたい。

「…………!」

 だというのに私の喉は役立たずで。
 肝心な一瞬に、痙攣して言葉を送りださない。
 こんなにも強く想っているのに、心と体は離れてゆくばかり。

 “気持ちは言葉にしないと腐り、想いは伝わらない”
 おじいちゃんはかつてそう言った。
 なら、私の想いはれるだけ?
 エイミーは私に嫌われていると思ったまま……?

「――わっ!?」

 そんなの、たとえエイミーが認めても私が認めない。
 意識よりも無意識が先行して、私は彼女を押し倒していた。
 繋がれた手を引いて、軸足を払って……自分の腕を背に回し、衝撃を吸収した。
 二人分の体重と石床に挟まれた腕に、《水の加護》を貫通した痛みが襲い来る。
 傷口に新鮮な痛みが上塗りされ、食いしばった歯の隙間からうめきがこぼれる。

 ――なんて、今の私に関係ない!!

「……き」 

 彼女の体に私を重ねる。
 抱きしめる腕の力は限り強く。
 想いを決して漏らさないように強く、強く。

「……すき。エイミーが、大好き」

 雑音が消えた世界。
 エイミーだけが生きる私の世界。
 鼓動が、息遣いが……全てが近い。

「……ごめんね。……ごめんなさい」

 上気し得ない私の顔。
 そこに埋め込まれた赤い瞳は、愛おしい彼女の顔を映しだす。

 虹色のリボンを耳元に結える女の子。
 黒色の瞳が映すのは私。
 流れる雫は想い。
 小刻みに震える唇がいま、開かれる。

「ずるい、ずるいよ……」

 こぼれる涙は次へ次へと追いかけて、その勢いを増すばかり。
 彼女はそれを拭おうともせずに、私の背へと腕を回して力を籠める。

「嫌いって言ったじゃんか……私、とっても辛かったのに」

 引き寄せる力は、温もりを求める力は、私の力を超えていた。
 触れ合った体温が溢れる感情を伝えてくれる。

「それでも私は好きだから、我慢しなきゃって思ってたのに――」

 言葉とともに伝えられた感情は、愛。
 ちっぽけで醜い私を包みこむ、大きくて優しい愛情だった。

「大好きだよ……ルシル」

「……私も、大好きだよ」

 手を伸ばしあった愛情が結ばれる。
 心の傷が、あたたかいもので満たされてゆく。

 ――トクン

 小さな鼓動が耳を揺らした。
 それは私が刻む命の音。
 否定し、不要なものと断じた私の音。

 エイミーが許してくれたから再び聞こえだしたのだろう。
 彼女だけが生きる世界に、私が受け入れられた。
 それが嬉しくて。
 どうしようもなく愛おしくて。

 私は彼女の胸で、涙を流さずに泣き続けた。
 


 ◆



 礼拝堂の扉の向こう。
 何者かの足音が闇の奥へと消えてゆく。

 その気配に気付くことができたなら。
 扉を開けて声をかけていたなら、あるいは違う結末が待っていたかもしれない。
 だが、少女たちの意識は、互いにのみ向けられたままだった。
 ……ならば仮定の話など無駄だろう。
 
 永遠に続く幸せなんてあり得ない。
 やがて朽ち果てるのだ。
 愛した記憶も。積み重ねた経験も。強い信念も。
 あまねく全ては結末が定められている。

 彼女たちはまだ知らない。
 やがて来たる落陽らくよう、紡ぐ物語の終焉を。

 だが、去りゆく音の主は想う。
 叶わぬと知りながらも求めてしまう。

 ――この泡沫の夢が永遠に続きますように、と


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