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嘘窓の瞳1

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 積み木を高く積み上げるのは、崩すときを見たいから。
 希望も同じ。
 高く、高く積み上げて突き崩す刹那。
 その一瞬間こそ尊いの。

 そう楽しげに語ったあの人の心を、僕は今も理解できないでいる。
 積み上げたものがいつか崩れてしまうことは理解できた。
 けれど、ならばこそ守るべきだと思うのだ。
 ……そう思えるようになったのは、今、僕が満たされているからかもしれない。

 ただの“窓”である僕は、何も持っていなかった。
 最初から。
 といっても、本当のはじまりを思い出すことはできないけれど。

 からっぽだった僕に中身をくれたのは、この孤児院のみんなだった。
 星空の美を映す瞳をくれた。
 人の温もりを感じる肌をくれた。
 体を満たす香りを、味を楽しむ心をくれた。
 使い方がわからなかったそれらを、一つ一つ丁寧に磨いてくれた。
 
 僕はそのことを忘れない。
 いつかみんなと別れる日が来ても。
 積み上げた希望が崩れ去ったとしても。
 永久とわに、想いは胸に。

 ――決して忘れることはない
 ――この罪と思い出は、僕だけのものだから



 ◆



 始まりは、持ちかけられた相談だった。

「――エイミーに贈りものをしたい?」

「ああ……デンテルならこう、いいアイディアを持ってると思ってさ」

 目の前の少年は特徴的な耳を垂らし、所在なさげに訊ねてきた。
 彼の不安げな様子を見るのは久しぶりのことだ。
 最後に見たのは夏、ルシルに下半身を見られて馬鹿にされたときだったかな。
 褐色の肌は赤みを悟らせにくいけど、頬は僅かに上気しているように見えた。

 コリーに相談したいことがあると言われたのは昨夜のこと。
 珍しく神妙な面持ちで切り出した彼に二つ返事で了解をしたところ、今朝、書庫へと連れられてきた次第だ。

「まず、どうして贈りものをしたいの?」

 相談に乗ること自体は構わないけれど、目的も動機もわからないのではどうしようもない。
 的確な答えを出すなら材料はそろえておいた方が良いだろう。
 そんな想いから訊ねたのだけど、コリーはさっそく言葉を詰まらせてしまった。
 ……これは長くなるかもしれない。

 僕は適当に痛みが見られる本を見繕うと、括っていた紐を解きはじめた。
 あとで新しいもので括りなおすとして、とりあえずは影干しをしておこうという算段である。
 きっとコリーも、じっと待っていられるより片手間にされた方が話しやすいだろう。

 やがて一冊の本が紙の束へとバラけたころ、彼はやっと声を絞り出した。

「えっと、笑わないでくれるか?」

「笑わない。……なんて、聞かなくてもわかってるでしょ?」

 笑わないとは言ったけど、あまりに普段と違う様子がおかしくて。
 僕はついつい軽口を付け加えてしまった。

 余計なひと言だったかな。
 少し心配になったけど、彼にとってそれはむしろ好ましかったらしい。
 大きく頷いたあと、表情をひとつ明るくして続けてくれた。

「その、だな。エイミーが虹色のリボンをつけてるのを見てさ……デンテルはどう思った?」

 たぶんこの質問に意味はない。
 自分の想いを告げるまえの緩衝材。
 ここのみんなはある一点に於いて臆病だから、それも仕方ないことなのだろう。

「可愛いと思ったよ。ラピスも言っていたけど、彼女には明るい色が映えるね」

 二冊目の本をあらためながら答えた。
 僕にとっては意味のない質問だけど、彼にとってはきっと違う。
 片手間だけど、心はしっかりとコリーに注いでいた。

 語りながら思い浮かべるのは数日前のこと。
 神さまの涙を見上げたときの、エイミーの姿。
 そこに昨夜、ラピスとお茶を飲みながら交わした言葉を重ね合わせる。

「……お前ってやっぱ、そういうこと言うのに抵抗ないのな」

「そうかもね」

 やや呆れ気味に言う彼に、僕は適当に返して先を促す。
 手先では、引っ付いた羊皮紙がペリッと乾いた音を奏でたところだった。

「俺はさ、リボンがどうとかよりも……なんていうか、」

 歯切れの悪い言葉は、先を求めて旅をする。
 鈍い言葉は想い。
 彼は迷っているのだろう。

 だが、旅はいつか終わるもの。
 先を見つけたコリーは、迷いを断ち切って継げた。

「喜ぶあいつが可愛いと思った。俺もあんな顔をさせてみたいって、そう思った」

「……そっか」

 想いを籠めた言葉に返すのはありふれた相槌。
 心を揺らさない言葉を選ぶのは、おじいちゃんからの受け売りである。

「こんなふうに思ったのは初めてでさ。よく、わかんないんだ」

 三冊目の本に手を伸ばしたとき、垣間見えた顔には笑みが浮かんでいた。
 もう表情に影はない。
 迷いを絶ち、自分の想いと向き合った彼は真っ直ぐだった。

「今はわからないままでいいよ。きっと、いつかわかるから」

 心に芽吹いた感情は冬枯れを知らない。
 なんて想いからこぼれた、ただの独り言。
 優しい彼なら、いつか、真に求めるものを理解できるだろう。

「難しいこと言うなよ!」

「あたっ」

 しんみりしていた僕の背中を、コリーはいつものように叩いた。
 大きな音のわりにたいして痛くないそれは、僕らの常。
 何度となく繰り返されてきたスキンシップだ。
 肺の空気を少しだけ持っていかれたあと、僕は質問に対する言葉を探した。

「なら、僕が聞いておくよ」

 三冊目の本を処理したあと、ようやくそれは見つけ出された。
 僕は彼の方へと向き直って続ける。

「エイミーが欲しがっているものを。
 コリーの願いを叶えるなら、気に入ってもらえるものじゃないとダメなんでしょ?」

 問いかけると、彼はそれはそれは嬉しそうにうなずいた。
 昨日のエイミーに負けない笑顔。
 希望に満ちあふれた顔だった。

「ありがとうな! ……あ、でも――」

「大丈夫。コリーに頼まれたなんて言わないよ」

 言い募ろうとした彼の先を駆ける。
 すると、コリーは笑みをより一層深くして、僕の背中を叩いてきた。



 ◆



 さて……請け負ったものの、なんて訊ねたものだろう。
 暗い色の床板がはりめぐらされた廊下に立ち。
 外に流れる白雲をながめながら、僕はそんなことを考えていた。

 秋空に浮かぶ雲は高い。
 空気の透明度が見せる錯覚だと知っているけれど、今日は別の感想を持った。
 心が落ち着く清々しい景色。
 そう思えたのは、“神さまの涙”を“嬉し泣き”と評した彼女の影響かもしれない。

 不吉の前兆とされるそれを別の見方で捉えた少女。
 エイミーの感想は、僕にとって新鮮なものだったから。

「……おっと、いけないいけない」

 独り言を呟いてから、ゆるく首を振って意識を正す。
 白雲に紛れて思考までも流れていたらしい。
 いまはコリーの相談に集中しないと。

「――何か悩み事かの?」

 かけられた声の方へ、振っていた首を反動のままに向ける。
 そこにいたのは白髪に白い口ひげが印象的な、青い瞳のおじいちゃん。
 ゆったりとしたローブに身を包む彼は、優しい笑みをたたえていた。

「まあ、そんなとこ。僕のじゃないんだけどね」

 苦笑いを浮かべながら頬をかく僕に対し、おじいちゃんは二の句を継げなかった。
 察しがよくてありがたい――と、

「その荷物、買い出しの準備?」

 目に留まったのは、彼の両手に下げられていた麻袋。
 両手で持たれたそれには、かなりの重量が込められているように見える。
 金属の擦れるくぐもった音が聞こえるから、中身はお金と食料かな。

 訊ねた僕に対し おじいちゃんは頷きひとつ。
 そして、手に持ったそれを降ろしながら口を開いた。

「ああ。もう少し先になるが、また数日は家を空けることになる。……すまんの」

「いつも通り三、四日でしょ。大丈夫だよ」

 申し訳なさそうに告げる彼に、僕は当然の返答をした。
 感謝こそすれ、僕たちがおじいちゃんを責めるなんてあり得ない。
 それでも表情に影を落とすから、

「おじいちゃんが買い出ししてきてくれないと生活できなくなっちゃうでしょ。
 ……野菜だけのスープが延々と続くのは、ちょっと嫌だなぁ」

 僕は続けた言葉のあと、憐れっぽく肩を落としてみせた。
 そうしてようやく、おじいちゃんの顔から影が失せる。
 
「わしも、それは嫌じゃのう」

 いたずらっぽく返事をした彼の肩も、同じように下げられていた。
 そんなふざけた仕草が面白くて。
 僕は小さく笑みをこぼした。

 やがて麻袋を手に、彼の姿は倉庫へと消えてゆく。
 僕はそんな背を見届けてから、再び白雲へと視線を伸ばした。



 ◆



 太陽が沈み、月の輝きが冴える宵の口。
 食事の後片付けを終えた僕が向かったのは居住区の一室だった。

「エイミー、起きてる?」

 扉の向こうへと声をかける。
 厚くもない木の扉は、音を内へと伝えたはず。
 けれども言葉が返されることは無かった。

 特訓で疲れて眠っっちゃったのかもしれない。
 訊ねるのは明日にしようかと考えた矢先、

「えっと、私に用かな?」

 肩上に切りそろえた黒髪を薄く濡らした少女……エイミーが、横から声をかけてきた。
 肌を伝う水滴が、麻のチュニックに吸い込まれてしっとりと濡らす。
 どうやら水浴びに行っていたらしい。

「うん。……あ、大した用じゃないんだけどね」

 「そうなんだ」彼女は手に持った虹色のリボンを撫でつけながら答える。
 ずいぶんと大切に扱っているようだ。
 触れる指先に、慈しみが見て取れる。

「ここじゃ落ち着けないから、私の部屋に入ろ?」

 僕が言葉を切り出す前に、エイミーは扉を開けて内へと歩んだ。
 そして身振りを交えて手招きする。
 せっけんの匂いに混じる甘い芳香が、優しく鼻を撫であげた。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 導かれるままに足を進める。部屋は、僕やコリーと同じ間取りだった。
 暗い色の床板のうえに置かれた一つのベッド。
 四角い枠でくくられたガラス窓。
 大した家具も無い殺風景な部屋なのに、なぜだろう。
 そこが少女の空間であるという主張を、僕は肌で感じていた。

「座って待ってて。紅茶を淹れてくるよ」

 指先で寝具を示し、彼女は部屋を去ろうとする。
 「それは悪いよ」と言い募る僕に、

「いいの。お客様は言うことを聞くものだよ?」

 エイミーはあどけない笑みをもって対した。
 彼女はどうも、たまに頑固で困る。
 これ以上の問答は無駄だろう。
 観念した僕があいまいな笑みを浮かべると、それを了承と捉えた彼女は、今度こそ部屋をあとにした。

 一人残された僕はベッドに腰かけ、窓の外……空に浮かぶ二つの月を見やる。
 赤と青。
 寄り添うように、時として競うように輝くその光が、僕の視界を埋めてくれた。

 こんな幸せがいつまでも続けばいいのに。
 二色に染められた世界に、叶わぬ願望が浮かんで朽ちる。
 積み上げたものはいつか崩れる。
 そんな現実が、僕の理想を許さないから。

 ――彼女なら、それさえも違う見方をするのかな


「……エイミー。この本なんだけど、」

 しばらく続けられた思考を中断させたのは、開く扉の音と声。
 前髪以外を短く切りそろえた白髪の少女、ルシルの言葉が耳を揺らした。

「や、やあ」

 揺れる赤い瞳に対し、ぎこちないあいさつを送る。
 女の子のベッドに腰かけているこの状況。
 さて、どう釈明したものだろう。

 ――パタン

 部屋の扉は僕の返事を待たずに閉じられた。
 訪れるのは数拍の間。
 遠ざかる足音が僕の意識を覚醒させる。

 まずい、出遅れた分を取り戻さなければ!
 僕は腰を持ち上げて、踏みしめる足に力を籠める。
 軋み声をあげる床を蹴って、扉の向こうへと駆け―― 

「きゃっ!?」
「わぁっ!?」

 紅茶を盆に乗せたエイミーとぶつかりそうになった。
 寸でのところで踏みとどまったけど、薄茶色がはねて盆に落ちる。

「ごめん! 手、やけどしてない!?」

 離れていく音ばかりに気をとられて、その他がおろそかになっていたらしい。
 何をやっているんだという自責を感じながら、エイミーの持つお盆をひったくる。

「う、うん。びっくりしたけど大丈夫。……それより、どうしたの?」

「いや、それがね――」

 やけどがなかったことに胸を撫で下ろしつつ、僕はさっきの出来事を告げた。
 うんうん。と頷いていた彼女の首の動きは次第に鈍くなり、顔が赤みを帯びてゆく。
 短い報告が終わるころ。
 エイミーの頬は、コールの実のように真っ赤になっていた。

「……ルシルには明日、ちゃんと説明しておくから。ね?」

 やがて、彼女は唇の隙間から絞り出すように言った。
 視線で促す先にあるのは、僕が先ほどまで腰かけていたベッドだ。
 おそらく、自分のことよりも僕の相談を優先したいということなのだろう。
 優しい子だ。

「うん。紅茶、ありがとう」

 そんな優しさに僕は甘えることにした。
 優しくて頑固な彼女は、きっと言っても聞かないだろうから。 
 お盆に乗せられていた紅茶を手に、ベッドの方へと足を進める。

「あ、そっちじゃないの……!」

 未だ頬に色を差したままの少女が慌てる。
 そんな様子を見て、僕はふと思い出し笑いをしてしまった。

 思い起こされたのは、エイミーと一緒に紅茶を淹れたときのこと。
 あのときはコリーが間違って、彼女が使ったカップに口をつけたのだった。
 それに気づいて、顔を今と同じくらい赤らめていた彼女。
 何も知らずに僕とじゃれ合うコリー。
 脳裏をよぎったそんな光景が、自然と頬を緩ませた。

「ごめんごめん。こっちだね」

 甘いもの好きの彼女に軽く謝って、僕はもう一方のカップを手にする。
 そして、そのままひとくち。

「――ん、甘い」

「えへへ、少しだけ甘めにしておいたんだ。デンテルも甘いのが好きだったよね?」

 ぽろりと感想をこぼした僕に対し、エイミーはカップのふちを拭いながら訊ねた。
 ……はて、そんなこと言ったかなぁ。

「ああ、覚えてくれていたんだね」

 無意識のうちに何か言っていたのかもしれない。
 覚えはないけれど、僕は適当な相槌を打つ。
 甘いのが好きなのは事実だし。

 そんな返答に納得したらしい彼女は、くすりと笑って僕の隣へ腰かけた。
 手の内のそれよりも甘い紅茶の香りが、湯気に乗って宙を舞う。

 エイミーは音をたてずに紅茶をひとくち。
 そしてカップから瞳だけを上に向けて、僕の顔を覗き込んだ。

「……エイミーはいま、欲しいものってあるかな?」

 間をつくってくれた彼女に感謝しながら、僕は質問を口にした。
 半日考えた質問と、その口実を頭に巡らせながら。

「欲しいもの?」

 ちろりと、赤い舌がのぞく。
 カップのふちを舐めたあと、エイミーは僕の言葉を繰り返した。

「そう。虹にエイミーがお願いしてくれたことは覚えてるけど、物だったら何かあるかな、って」

 何でもないふうに僕は継げる。
 ただの日常会話。深い意味はないと思ってもらうために。

「うーん……欲しい物、かぁ」

 だが、彼女の反応は思わしいものではなかった。
 紅茶をお盆に戻して、エイミーは小さなうなり声をあげる。
 真剣に悩んでいるのに、何も思い浮かばないといったふうだ。
 ……よほど、いまの生活に満足しているのだろう。

「――じゃあ、前の世界で大切にしていたものとか、覚えてる?」

 このままでは答えが出なそうなので質問を変えてみる。
 悩んだ挙句、やっぱり無いよ、と返されるような気もしていたから。
 すると、今度はすぐに口が開かれた。

「えっとね、前はどんぐり……ううん。お気に入りのペンダントがあったんだ」

 彼女は言いかけた何かを飲み込んで、さらっと答えてくれた。
 喉の奥に消えた何か。
 それを僕が追及することはないけれど――

「エイミー……泣いてるよ?」

「え?」

 少女の頬を伝う一筋を指摘するくらいはいいだろう。
 視線の焦点を少しズラして言うと、彼女は曖昧にはにかんでから目元を拭いだした。
 ごしごしと、しばらく目をこすりつけたあと。
 耳を揺らした小さなため息を合図に、僕は言葉を重ねる。

「そっか。どんなペンダントだったの?」

 若干の気まずさを打ち払うため、あえて何事もなかったふうに問う。
 そんな僕の考えを理解してくれたようで、

「……真珠色のペンダントなの。光にかざすと淡く光って、きれいだったんだ」

 彼女もまた、平静を取り繕って返してくれた。
 少し形は違うけど、聞きたいことは聞けたから良しとしよう。
 きっと、今のエイミーはそっとしておいた方がいい。
 僕はカップを盆に戻し、短い礼を告げて部屋をあとにした。

「おやすみ。……よい夢を」

 扉を閉める直前、小さな言伝ことづてを残して。



 ◆



 板張りの廊下に満ちる空気は、冬の色が差していた。
 もうじき秋が終わるのだろう。

 四季は移ろう。時の流れが止まらぬ限り。

「……なんて、ね」

 自嘲を籠めた呟きは、夜の闇にした。
 後に残るのはただただ閑寂とした空気だけ。

 いつ消えるともしれぬ幸せに怯えながら。
 僕の足は、少女の部屋から離れていった。


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