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雨煙る

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 散乱した食器棚の内容物に囲まれて。私は、眠ってしまったコリーを膝に乗せて座っていた。
 窓の外には雨が降っている。
 冷たい雨。温度を感じさせないそれが、部屋に入りこまんと硝子ガラス窓を叩く。
 雨粒の向こうに人影を探すけど、そんなものはどこにも見当たらなかった。

「もう入って大丈夫だよ」

 視線を剥がす。
 健やかな寝息をたてる家族の頭を撫でながら。私は、扉の向こうへ声をかけた。
 少しの間を置いて、食堂の扉は控えめな声をあげる。

「……エイミー。それ、痛くない?」

「全然。コリーは優しいから……きっと、加減してくれたんだよ」

 鎖骨の鈍い痛みを、頭の隅へと追いやって。
 怯えをにじませるルシルに笑顔で告げた。

 瞳の奥。揺らめく光が不安を語る。
 彼女は納得した様子ではないけれど、それ以上訊ねようとはしなかった。
 ただ、私のそばに寄り添って、頬にこぼれた涙を拾ってくれた。

 ……ルシルと私の目が合ったのは、ちょうどコリーが、私の胸元を掴みあげたときのことだった。
 駆け寄ろうとした彼女を押し留めたのは私だ。
 今となっては遠い昔に感じる、なぞなぞを楽しんだ雨の日。
 あの日のジェスチャーを、ルシルは覚えてくれていたらしい。
 中指と親指で結んだ小さな輪っかを、彼女は拾い上げてくれたのだ。

「ね……。ルシル」

 小さな温もりで胸を満たして。
 私は静かに、瞳を見据えて口を開いた。

「二人で、仲良くしててね」

「……え?」

 ――別れの言葉を伝えるために

「お肉はもう無いけど。畑にも倉庫にも、まだまだ食材はあるから平気だよね」

「……なに、言ってるの?」

 ルシルの動揺を無視して言葉を継げる。

「必ずみんなを連れて帰ってくるから……それまで、待ってて」

 怯えを殺して強く言い切った。
 魔術を使うときのように、絶対の想いを籠めて。

「……やだ、やだぁ!」

「…………」

 涙を流さずに泣く少女。私に抱きついてきたルシルも、コリーと同じように撫でてやる。
 薬指と中指を、顎先から滑らせて。細い白髪をなぞりあげ、耳元を過ぎたあたりをくしゃくしゃと。
 雫を湛えない頬は冷たくて、小刻みに震えていた。

「……だめだよ。ラピス、言ってたよ?」

「うん。……そうだね」

 昨日の昼。デンテルの誘いを蹴ったラピスの剣幕は、いつもの様子からかけ離れていた。
 何か重大な隠し事をされているような。
 そんな不安が、私の臆病な心をざわめかす。

 窓の向こう。塀の奥に、それはあるのかもしれない。
 きっとルシルも同じように思っているのだろう。

 ――何かがある

 そう思わせる外の世界を、窓を通して一目見る。
 空を覆い尽くす雨雲は、窓枠の向こう……遥か彼方まで続いているようだった。
 塀の奥に広がっていた草原も、山も。今はもや・・に阻まれて見通せない。

「だけど、私は約束したから」

 怖い。
 温もりを押し退けて、恐怖が胸を埋め尽くす。

 ラピスがあんなに拒絶した理由は何だったのだろう。
 どうして二人はいなくなってしまったのだろう。
 おじいちゃんは……どうして帰ってこないのだろう。

「二人も、おじいちゃんも。きっとどこかで困ってると思うんだ」

 怖い。
 あんなに外を拒絶していたラピスが、自分から進んで出ていくはずがない。
 だから、私が知らない外の誰かが二人を連れ去ったに違いない。
 二人を探しに行くということは、きっとその犯人と戦うことになる。
 私に人を傷つけることができるのか、勝つことができるのかはわからない。
 それはとても怖くて、怖くてたまらないけれど――

「私は行くよ」

 手のひらからこぼれてしまった、大切なものを拾うために。
 星の満ちる夜、コリーは私に教えてくれたから。

 私の小さな手は、もう一方の手を握るためにあるわけじゃない。
 愛おしい家族の手を引くために。守るためにあるんだって、気付かせてくれたから。

「私たちが帰ったとき、誰もいないのは嫌だから。ルシルは……私たちを待っていて」
 
「……だめ。行くなら、私も連れてって」

 湿らない瞳の奥で、止めどない涙を流しながら私を縋る少女の手を、私は両手で包みこむ。
 自分を傷つけてしまう悲しい手。私を救ってくれた優しい手。
 小さな指を愛でながら。口を開く前に、私は首を横に振った。

「……どうして?」

「ここの外には魔獣が出るって聞いたよ。
 生き物の命を奪うためだけに生み出された、死と腐毒の神……ロプスキュリテの下僕しもべたち」

 ルシルの問いに答えながら、私はラピスの話を思い返す。

「私は出会ったことがないから、それがどれほど恐ろしい存在なのかわからない。
 ……でも、だからこそ連れていくわけにはいかないの」

 だって、
 私は想いを籠めて継げる。

「ルシルのことが大好きだから、傷ついてほしくないんだ」

「……っ! そんなの――」

「あはは。ここで“絶対に私が守る”って、胸を張って言えたら格好いいんだけどね」

 言い募ろうとするルシルの言葉を、震える笑いで掻き消して。
 そこから紡ぐは、空想に広げた理想の姿。
 物語の主人公のように体も、心も強くて。迷うことなんか全然なくて、立ちすくむなんてありえない。
 出会った誰もを愛し、愛され、その全てを幸せにできる。
 ……そんな、夢。

「でもね、それは無理なんだ」

 私には何の特別もない。
 力も、知識も、自信も、経験もないから。
 おじいちゃんもラピスも、こと魔術に関して私を褒めなかった。
 ただの一度も。
 私は、きっと落ちこぼれなのだろう。

 私にみんなを守る力なんてないのかもしれない。
 外に出てすぐ、魔獣に食い殺されてしまうかもしれない。
 ラピスたちをさらった悪者にあっけなく打ち負けて、なぶられて殺されるかもしれない。
 だからこそ私は嘘をつく。ルシルの心を傷つける、本当に酷い嘘を。

「二人は足手まといなの。……私に、重荷を背負わせないで」

 死ぬのは私だけでいい。……二人は生きて、苦しまないで。



 ◆



 ルシルを突き放して、コリーを置き去りにして。
 私はひとり、おじいちゃんの部屋へとやって来た。

「…………」

 作られた光を薄暗い部屋に導くと、耳鳴りが私を出迎えた。
 引き出しは中身をぶち撒けられて、放られて。
 乱雑にはがされたシーツに温もりはなくて。

 数日前、おじいちゃんがいたころのことが。
 もっと前……。私が助けられた日のことが。
 幸せだった過去むかしが思い起こされるけれど、それらは現在いまと重ならない。
 かみ合わせの悪い歯車のように、酷く、耳障りな音を、頭蓋ずがいの内に響かせる。

 それでも私は手を動かした。
 魔術の触媒。一部の魔術を使うために必要な、金属片や布、魔石を探すために。
 散らばった引き出しの中身を漁り、くすねて麻袋に詰めてゆく私は、まるで泥棒だ。
 借りたものを返せるかどうかはわからない。
 もちろん返すつもりだけど、もしも死んでしまった叶わないから。

「っ……!」

 怯んだ心が、私の心的外傷を蘇らせた。
 血が流れ出てゆく寒さを。
 命が失われてゆく痛みを。
 喪失感を。孤独を。切なさを……絶望を。

 全身の毛穴が開くような錯覚とともに、呼吸が浅くなってゆく。
 耳鳴りは一層強さを増して、心臓は痛みをともなって命の危険を伝える。

 視界が揺らいだ。
 あの日、支えてくれたおじいちゃんはここにいない。
 ……けれど私も、もう震えるだけの泣き虫じゃない。

 歯を食いしばって踏みとどまって、私は窓の外を見た。
 降り続ける雨は止むことを知らない。
 大きな雫が窓に打ちつけられて、鈍い悲鳴を上げている。

 遠く、かすむ向こうに思いを馳せて。
 私は再び手を動かした。


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