上 下
42 / 51

腐した花の苦甘き1

しおりを挟む


 コリーを殺したのは私だ。

 私の心ない言葉が、彼を死へと追いやった。
 心的外傷が引き起こした事故だって知りながら、弱った心に追い打ちをかけて。
 かえりみることなく、苛立ちをぶつけてしまった。

 ――どうして?

 疑問が、心的外傷を引きずり出す。
 胸の奥……暗色くらいろの沼から這い出てくるのは、嫉妬の罪。
 エイミーが受け入れてくれた、私の醜い本性。

 お母さまとお父さまの愛を求めて。
 愛されていたお兄さまを妬み続けた私の、飢えて、歪んだ愛情だ。
 それを自覚し続けなかったから。
 自分を責め続けられなかったから。
 ……コリーを、殺してしまったんだ。

 ラピスもそうなのかもしれない。
 エイミーに対する狂った愛情が、彼女を傷つけてしまったから。
 だからデンテルを連れて、外へ出てしまったのかもしれない。
 なら、デンテルが死んだのも私のせいだね。

 じゃあ、おじいちゃんも?
 わからないけど、きっと、そう。
 みんなみんな、私が殺しちゃったんだ。

 あはは。……なんだ、わかっちゃった。

 雨の日の問題は、一度も正解を引けなかったけれど。
 誰かと下らない争いをしていたけれど。
 今日は、私が一番乗りだ。

 でもいいんだ。もう。
 罪も歪みも、心的外傷も。
 家族も、真実も、過去も未来も……ひとつ以外を投げ捨てて。

「……エイミー。私のこと、すき?」

 だってもう、ここには、私とあなたしかいないのだから。
 上気し得ない頬の代わりに、情熱は唇の水音で伝えた。
 ねっとりと、ねぶるように。
 対する彼女は赤熱した瞳で私を見つめ、

「うん。すきだよ……だから、いなくならないでね」
 
 愛おしい吐息と、言葉をくれた。
 肺を、心を、醜いすべてを熱が満たす。
 私はただ貪欲に、それをむさぼった。

 かぶさった毛布のなか。
 むせ返るほど甘い芳香が満ちるそこで、私たちは互いの命を確かめる。
 鼓動で、熱で、染み出る汗で。

 私は、他に何もいらない。
 たとえどんなに醜くても、蔑まれても。他人がどんな評価を下そうとも興味はない。

「……すきって、もっと言って」

 この腕のなかの温もりがあればいい。
 閉じた世界で、最期のときまで求め合えればいい。
 そうしていれば、何も思い出さなくて済むのだから。

「すきだよ、ルシル」

 言葉とともに体が締め付けられる。
 満ち足りた心で、私は彼女の頬を撫でた。

「……しってた」

 軽く鼻を鳴らしてから、動かない頬の代わりに言葉を告げる。
 気持ちがれる前に、想いを伝える。

 見つめさせて。
 触れさせて。
 好きでいさせて。
 好きで……いて。

 全てが死に絶えた空間で。
 私は、捻じれた充足に身をゆだねた。



 ◆



 私たちの生活は、寝るか、食べるかだけになっていた。
 おなかが空いたら適当なものを食べて、またベッドに戻るだけ。
 だから日にちの感覚はあいまいだ。
 エイミーの傷が完治しているから、あの日からはかなりの日数が経っているのだろうけど。

 エイミーが何故か大怪我を負ってしまったあの日。
 あの日から、この家に太陽が訪れたことはない。
 家の頭上はいつも重たい雲が覆っていて、光を通してくれないのだ。
 ――でも、別に平気なんだ。

「……エイミー。そのペンダント、似合ってるよ」

「えへへ、ありがとう。……何度言われても嬉しいよ」

 何度おなじことを言っても、おなじ言葉を返してくれるエイミー。
 彼女の胸元にあるペンダントが、淡い光を生み出してくれるから。
 それは魔石の首飾り。
 何人かで作ったペンダントを、私は、自分からの贈りものだと言って手渡した。

 誰かが作った真珠色の魔石をめ込んだ。
 誰かが首紐を紡ぎ出した。
 誰かが設計図を作っていた。
 その設計図通りに、私が木片を削って作ったペンダント。

 足りなかった金具は、木片を貫通させることで良しとした。
 剣と竜の形が透かし彫りにされた、それ。
 私たちを結ぶ、愛おしい赤白のミサンガ。
 黒髪を結わえる誰かのリボン。

 それらを身につけて、エイミーは笑っていた。
 表情が死んだ私の代わりに、泣きながら笑ってくれていた。

 食堂で粗末な食事を摂りながら。私は、そんな彼女を真横に座って見つめていた。
 スプーンが運ばれてゆく唇。
 乾燥した空気が、そこからうるおいを奪ったらしい。
 薄い血が流れているのが目に留まった。

「……お茶、淹れるね」

 告げて、席を立つ。
 触れ合っていた温もりが消えるのは怖いけど、すぐに戻るから我慢する。
 近くから聞こえた温かい言葉に、心のなかでほほえんで。
 手鍋を魔石の火にかける。

 ……こうしていると、お月見のことを思い出す。
 二人だけで楽しんだお月見のことを。
 私が、何故だか苦手なソースを食べてしまって。
 そんな私を心配してくれた彼女と一緒に、紅茶を淹れたんだっけ。
 あのときは何も伝えることができなかったけど、いまは違う。

 ――伝えられないことは、たったひとつだけ

 湧いた思考を、頭を揺らして振り切って。
 私は彼女を目で撫でる。
 だが、二人の視線は絡まない。
 エイミーは窓の外を見つめたまま、動かなくなっていた。

「……エイミー?」

「……ゆ、き」

 凍りついた頬に、一筋の雫を伝えながら。
 彼女は目を向けることなく続けた。

「雪が……ふってるの。おじいちゃんがかえれなくなっちゃう」

 声はガラガラに掠れていて、枯れ葉を握りつぶしたときの音に近かった。
 おじいちゃん。
 それが誰かはわからないけれど、きっとエイミーにとって大事なものなのだろう。
 雪はしんしんと降り続いている。
 記憶を、罪を、過去を、未来を。
 全てを塗り潰してしまおうと、白いからだで世界を覆う。

 雪はもう、ずっと降り続いているというのに。
 エイミーは外を見るたびに泣いてしまうのだ。
 そして、必ず同じことを言う。

「つもっているからみんな、かえれないんだよね……しかたないんだよね」

 つぶやきとともに、床板にスプーンがこぼれ落ちる。
 両手を力なく放り出して。
 彼女は何度も、何度も同じ言葉を繰り返した。

 虚ろな瞳が映す先。
 外の世界はもう、ほとんどが色を失って、花壇に咲いた花も枯れている。
 そしていつか、私たちも枯れるのだろう。 

「……温かいよ。お茶、飲んで?」 

 でも、先のことなんかどうでもいい。
 小さな悩みを投げ捨てて、私はカップを差し出した。
 いつかの夜のように、彼女をなぐさめるために。

 けれども、エイミーは何の反応も示さない。
 窓の外……死を見つめたまま、唇の赤を塗り広げるばかり。
 放られた血色の薄い手をとって、私は、手の内のそれを無理やり掴ませる。

「……大丈夫。私はずっと、そばにいるから」

 そして、言葉とともに温もりを伝えてやる。
 握らせたカップ。それを、彼女の手ごと包みこんで、私は言葉を繰り返した。

 花が死に、人が消え、日の光すら失せかけた空間は冷たくて。
 本当に、どうしようもないくらい冷たくて。
 私は……それを気に入っていた。

「……大丈夫だよ。大丈夫」

 温もりが、より尊く感じられるから。
 触れた肌が、愛おしさを伝えてくれるから。

 お母さまがくれた、熱された火かき棒よりも。
 お父さまがくれた、鼻骨を砕くこぶしよりも。
 お兄さまがくれた、身体をつらぬく棒よりも。

 どんな痛みよりも、あったかいもので満たしてくれるから。

 れ甘い恍惚が、私の体をうずかせる。
 ツヤが失せた髪。
 痛んだ黒の香りに心をかたむけていると、温もりを包んだ手が浮き上がった。

「ありがとう。おいしいよ……甘くて、おいしい」

 カップの中身をひとくち飲んで、彼女は味わいながら言った。
 ふちを彩るのは薄い赤。
 けれど、その中身に色はついていなかった。
 透明な水面みなもの奥に、カップの底が沈むだけ。

 ……ああ、入れ忘れてた。
 エイミーに渡してしまったのは、お茶じゃなくてお湯だった。
 手鍋に沸き立つ、茶葉の沈まないただのお湯をにらんでから。
 私は小さく舌打ちをした。



 ◆



 厚くかぶせた毛布のなか。
 かたわらで寝息をたてるエイミーを撫でながら、私は、伝えられなかった言葉を呟いた。
 けれど、それは自分の耳にも届かなくて。
 もしかしたら、口を旅立ってすらいなかったのかもしれない。

 伝えられないのは、私とエイミーが違う・・から。
 いくら彼女でも間違いなく、この差は埋まらない。

 私は最初、仲良くなりたいだけだった。
 なのに。
 なのに想いは、まるで螺旋階段らせんかいだんを転げるように、急速に強まっていって。
 独占欲に換わって、憎しみに換わって、嫉妬に換わって、そして――

 ……優しい彼女のことだ。
 告げたら、私の醜い欲望すら受け入れようとしてしまう。 
 あの日。ぐちゃぐちゃに折れた腕を無視して、消えた誰かを案じていた光景が、そんな未来を教えてくれる。

 でもね、それじゃあだめなんだ。
 それじゃあ、お兄さまと同じになってしまうから。 
 体は縛れても、心は離れてしまうから。
 無理をすればきっと、この関係は壊れてしまうだろう。
 ゆるやかにしてゆく甘い毒が、苦くなってしまうだろう。

 ――だから、これでいいんだ

 いつものように自分に言い聞かせ、止まっていた手を動かす。
 彼女の髪を、頬を。そして首を―― 

「…………痛っ!?」

 指先が軽く触れた瞬間、エイミーは跳ね起きた。
 冷気を遠ざけていた毛布がはげ落ち、首飾りが部屋を照らし出す。
 引き絞られたシーツが悲鳴を上げる。
 彼女は怯えていた。
 打ち鳴らされる歯音が、震えて縮こまった肩が、鈍い光が揺らぐ瞳が。
 すべてが強い恐怖を物語る。

 荒い吐息が私の頬を撫で、目をつむった一瞬。
 エイミーは毛布を拾い上げたらしい。
 全身をそれで覆いながら、彼女は乱れた呼吸を繰り返していた。

 突然のことに呆然とする私を置き去りに、呼気は毛布へと吸い込まれてゆく。
 まるで臓物までもを吐き出しているような、水混じりの音が耳朶を打つ。
 私は酷く怖くなってしまって。
 指先を、彼女が包まる毛布に伸ばそうとするのだけど、

「ごめんね……」

 内から響いた声がそれを制した。
 震える、嗚咽まじりの声。
 短い言葉を噛みしめて、意図を探るけど答えは出なくて。
 私は呪文のように、彼女の名を繰り返すことしかできなかった。



 ◆



「…………夢?」

「そう、怖い夢をみただけ。だから心配しないで」

 エイミーはそう言って力なく笑った。
 涙の忘れ物……ひくつく喉をおさえながら。

 汚してしまった毛布を取り去って。
 私たちは、適当な部屋から拝借してきた毛布にくるまっていた。
 魔石の首飾りが未だ光っているのは、彼女の恐怖を表しているのかもしれない。

 あらためて見ると、彼女の目下は黒々と沈んでいた。
 ずっと見つめていたのに気付かなかったなんて、私はどうかしていたのだろう。
 深いくま・・のうえ。黒い瞳は、やはりあいが染みていて。
 そこから雫がこぼれる前に、私は言葉を探した。

「……エイミーは怖がりさんだね」

 口を突いたのは偉そうな文句。
 言葉とともに髪を撫でながら、私は継げる。

「……大丈夫。私が、エイミーを守ってあげる」

 それは、いつか私がもらった言葉。
 エイミーが私だけと結んでくれた約束だった。
 でも……今の彼女は壊れかけているから、その約束は私が引き継ごう。
 胸を張って告げた想いは、小さな胸に届いたらしい。
 涙をこぼしながら。彼女は血がにじむ唇を、ゆっくりと開いてくれた。

「そっか……なら、安心だね」

 震える声は、安心からはかけ離れていて。
 すぐに嘘だとわかったけれど、言葉を重ねることはしなかった。
 代わりに痛んだ黒髪を梳いておく。
 何本もが抜けて、指先にからまって。
 愛おしいそれを、私は床におろしてあげた。


 エイミーは魔術を使えなくなっていた。
 始まりは覚えていないけど、きっとだいぶ前から。
 魔術を使うには強い心が必要だ。
 壊れかけの彼女に、もうマナを集める力はないのだろう。

 最近は味覚も鈍くなってきたようだ。
 何を食べても「甘い」「おいしい」としか言わなくなってしまった。

 心もずっと不安定で、朝起きると必ず泣いている。
 だから。私は起きると、彼女をなだめるのが日課になっていた。

 最近の私は夢見がいい。
 眠ると必ず、かつてのお母さまやお父さま、お兄さまを殺す夢を見られるのだ。
 たくさん殴って、蹴って、最後は首を絞めさせてくれる。
 それがとても楽しくて。
 楽しくて。
 楽しくて。
 私が受けた痛みの、ほんの一部でも味あわせられることが嬉しくて。

 すがすがしい気分で目が覚めると、必ずかたわらにエイミーがいてくれる。
 彼女が泣いているのはとても悲しいけれど。
 同時に、少し、ほんの少しだけ嬉しくもあった。

 泣き止むまでの時間……エイミーが何よりも、私を求めてくれるから。
 彼女は怯えた瞳で、丸めた体を押し付けてくるのだ。
 なんだか赤ちゃんみたいで可愛くて。
 過去も未来もいらないから、現在いまだけがあればいい。
 小さくなった彼女を抱きしめていると、そう、強く思うんだ。


 ――だからね


 いまが一番しあわせなんだ。

 私もエイミーも、もう壊れるまで時間がないことはわかってる。
 もしかしたら、もう取り返しがつかないほど壊れているのかもしれない。

 でも、どうでもいいんだよ。

 ぜんぶどうでもいいんだよ。

 もう私たちが、未来へ進むことなんてないんだから。

 この世界という名の檻から、出ることなんてできないんだから。

 ここで、ずっとずっと……いつかれ果ててしまうまで。
 未来へつながらない物語を、私とあなたで紡ぐこと。

 それだけが、私の願い。


しおりを挟む

処理中です...