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腐した花の甘苦き2

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 目覚めは、いつも苦しみからはじまった。

「ぁ……ガ、ァ……」

 絞められた喉から、水音ばかりがこぼれだす。
 混じるうめきは ほんの少し。
 それは、声帯が小さな指に潰されているからだろう。

 手足の感覚は消えてしまったけれど、色々なものがせき止められている首から上は、逆に鮮明だった。
 眼球に太くはしった血管が、ぷちぷちと音を立ててはぜてゆくのすら解かる。

 喉を絞めつける手は氷のように冷たくて。力強いけれど、とても脆くて。
 私の手で温めてあげたいのだけど、死んだ手先が持ち上がることはなかった。
 代わりに体が大きくけいれんする。

 揺れたひじか、どこかが魔石に触れたらしい。
 ペンダントに照らされて白い髪が浮かび上がった。
 赤い瞳は まぶたに閉ざされて見えないけれど……そこにいるのは私の家族。
 たった一人になってしまった、大切な家族だった。

 瞳がその姿を映してくれたのは、ほんとうに少しの間だけだった。
 視界の端から湧きだした闇に蝕まれて、何もかもが消えてゆく。
 それでも意識をつなぎとめようと、私は必死に抗った。

 私が死んだら、きっと彼女も死んでしまうから。
 とても、とても悲しい思いをしてしまうから。
 守るって約束したのに……また、嘘になってしまうから。

 私は嘘つきだった。
 みんなを守るって嘘をついて。
 私が探しに行くって嘘をついて。
 大丈夫……そう、嘘をついて。

 みんな、いなくなっちゃった。

「………………」

 ごめんね。
 死んじゃったら、ごめんなさい。
 謝りたかったのだけど、もう唇は動かなくて。

 やるせない気持ちに満たされて……私の意識は、闇に沈んだ。



 ◆



「……おはよう、エイミー」

 ルシルの声が、私の生を知らせてくれた。
 喉には肉を抉った爪の痛みが。
 心には、殺されかけた恐怖が。
 それぞれ強く蝕むけれど、私は心から喜んだ。

 私が死ななかったことで、ルシルの命を守れたから。
 誓いが、嘘にならないで済んだから。

「ぉあ、よ」

 おはよう。そう言いたかっただけなのに、潰れた喉は言葉を紡いでくれなかった。
 意思とは関係なく流れる涙が、空いた口に入り込む。
 たぶん、これは生理現象というやつなのだろう。

 ……今日はいつ治るかな。
 のどから不気味な声を漏らしながら。
 毎朝繰り返している思考を頭に広げていると、小さな手が伸びてきた。

「……大丈夫だよ。エイミーは怖がりさんだね」

 ルシルは言葉を噛んで、口移すように優しく言う。
 大丈夫。まぶたを開いているルシルは、私の首を絞めたり殴ったりしてこない。
 そうわかっているはずなのに、残った本能が体を震わせる。
 “危険だ”“逃げろ”“殺される”……そんな警鐘をねじ伏せて。
 私は体を丸めて、底から湧く震えをごまかした。

 ……いつからだったかな。
 眠っていると、ルシルが私を痛めつけるようになったのは。
 それとなく訊ねたことがあるけれど、彼女はそのことを覚えていないらしい。

 だから、これはきっと予兆なんだ。
 ルシルの心が砕け散ってしまう予兆。
 意識と無意識が離れていって、引き合う力が殺意になってしまうのかもしれない。
 彼女に根差す心的外傷がそうさせているのかもしれない。
 おじいちゃんやラピスと違って、おバカな私にはよくわからない。

 ――それでも、

 最後の一人になってしまった家族を守るために。
 どんなに痛くても、苦しくても。
 味も、匂いも削がれてゆくけれど。

「あぃあお……ごえんえ……?」

 私は今日も嘘をつく。
 彼女の殺意が自分に向かないように、痛みを殺して嘘をつく。
 それだけが私の生きる価値。
 何の役にも立たなくなった私に残された、最後の意味なのだから。

「……もう、赤ちゃんみたい」

 ルシルは、私が起きると髪を撫でてくれる。
 いつかのラピスのように、一本一本の髪を梳くように。

 殺されたかけたあとにそうされると、どうしていいのかわからなくなってしまう。
 絞めつけられた喉は、呼吸をするだけで痛くって。
 殴りつけられたおなかは、もう、アザがない場所なんか無くなっていて。
 痛いのと、怖いのと、哀しいのと……元のルシルに戻ってくれて、嬉しいのと。
 ぜんぶがぐちゃぐちゃに入り乱れて、よくわからない気持ちになるんだ。

「……大丈夫。私が、エイミーを守るよ」 

 湿り気を帯びた優しい言葉が、毛布のなかで反響した。
 ルシルに悪気がないことはわかってる。でも、その言葉を言われるのはあまりにも辛くって。
 私は心が落ち着くまで、唇を噛んで耐えていた。



 ◆



 太陽が昇らなくなったこの世界で、日にちの感覚はあいまいだ。
 けれど、私のからだがもう限界だということはわかる。
 時が経つにつれて痛みが増してゆくのと、

「ありがとう、ルシル。……ごめんね」

 壊れてゆく体が時間の経過を物語る。私は今日から、一人で歩けなくなっていた。
 下半身が、まるで正座したあとのように痺れたまま治らないのだ。
 かける言葉は、小さな肩を貸してくれる少女に向けて。私を壊す友達に向けて。

 上手く空気を吸えなかったから。
 たくさんからだを殴られたから。
 ……なんて、理由なんかどうでもいいんだ。

 大切なのは、ルシルが傷つかないようにすること。
 私が、代わりに痛みを引き受けることなのだから。

「……大丈夫だよ。もっと、頼って?」

 白い髪のカーテンからのぞくは赤。
 心なしかくすんだ赤い瞳に私を映して、彼女は鼻を鳴らして告げた。
 ふんす、と吐きだした可愛らしい鼻息が、冷たい空気に噛み殺される。

 そんな様子を見てたら……なんで、かなぁ。
 楽しかった日々が蘇って、私の心をいじめだした。
 
 ――ほら、剣の貝殻はここにあるよ!
 ――エイミー、大丈夫

 ――でも……こんなのコロッケじゃないの
 ――かまわない。いつかまた、作ってくれるよね?

 ――ダメだったら言ってくれればよかったのに
 ――慣れたの。人の好みは、変わるもの

 ――はい、おまたせ。ルシル
 ――エイミーと、おそろい?


 ――あの日、私を好きって言ってくれてありがとう


 暗色くらいろを通り越して、闇が淀んでしまった廊下を歩きながら。
 地へとこぼれ落ちる雫から。
 過去と重ならない現在いまから。
 消えてしまった温もりから。
 哀しいこと全てから目を背けて。私は、窓の外へと視線を逃がした。

「……ゆ、き」

 でも、外の世界は白く染め上げられていて。
 もう何も残っていなくって。

「ゆきが……降ってるの。おじいちゃんが帰れなくなっちゃう」

 こぼれる言葉は、淡い雪のよう。
 力なく舞って地に落ちる。
 
「積もっているからみんな、帰れないんだよね……しかたないんだよね」

 昨日もおとといも、私の傷が治る前からずっと。
 ずっとずっと繰り返してきた言葉を、今日もまた、繰り返す。
 意味なんてないよ。
 理由なんてないよ。
 ただ、からだがそれを求めるから。
 私は泣きながら、淀んだ床に雪をそそぐ。

 白い息が溶けて死んで。
 あとを追う雫も、落ちて死んだ。
 
 ……次は私かもしれない。
 明日はもう、目を覚ますことができないかもしれない。

 おじいちゃんの本を手にしたときの、おぞましい死のイメージが脳をむ。
 本能からくる恐怖が背筋をはしるけど、あえて無視をして。
 私は、私を殺そうとする家族に支えられて、冷たい廊下を歩いた。


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