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窓と傘
しおりを挟むかつてデンテルと呼ばれていた少年がいた。
神によって創られた夢を渡る窓、怠惰の瞳。
何も持たなかった少年は、持たざるがこそ閉じた世界の内へと入り込めた。
彼はそこで、たくさんの贈り物を受け取った。
感性を、経験を、思い出を、愛を。
やがて消えさる無為なものだと解りながら。それでも少年は贈り物を磨き、仮初の心に飾り、大切に愛でてきた。
少年は願ったはずだ。続かない幸せの先、家族が笑って過ごせる未来を。
しかし、それは他ならぬ彼自身の手によって崩された。
全ての結末は神によって定められている。ならば、せめて幕引きは自らの手で。
彼は、愛したものの結末を自らに刻みつけることで、それを永遠としたかったのかもしれない。
仮初の生に意味を持たせたかったのかもしれない。
それらを以て、贈り物に対する恩返しとしたかったのかもしれない。
実際のところはわからない。その答えは、彼の内ですら出されていないのだから。
ただ、自分に裏切りの罪を刻むこと。
それだけが確固たる意志であり、存在する意義であると信ずる少年にとって、答えなど不要なものなのだ。
――だが、たった一つの想いすら
――世界は認めようとしなかった
黒と赤が斑に散りばめられた外套を羽織り、闇の軍靴を踏みならす。
かつての温和な空気は掻き消され、引き絞った弦のような緊迫感を醸す少年がひとり。
孤児院の屋根上に立つ彼は、細い瞳に殺気を宿して舌打ちを放つ。
ほとばしる殺意の向かう先は、礼拝堂の切り立った屋根に爪先を乗せる、幼い容姿の女。
「――まさかあなたが来てしまうなんて、ね」
「ふふっ、そぉ邪見にしないでいいじゃない。ただほんの少し、あの子で遊びたいだけなの」
殺意を食んで少女は嗤う。世界に満ちる全てを嘲るように。
たわんだ、紫苑色が引かれた唇の内にのぞくは赤い舌。
透明な蜜が口端を伝い、露出した肌をたどり、身を包むドレスの漆黒に吸い込まれてゆく。
「管理人……アルダメルダはどうなりましたか?」
現実離れした白い肌を睨みながら、少年は問いかける。
対して少女は、視線を脇へと滑らせた。孤児院の前庭、白が埋め尽くした世界を見つめて言う。
「私様がココにいるということは、そういうコト。よ」
嘆息。少女は甘臭い吐息を、空の闇へと送り出す。
腐れ果てた花の香りが空間に満ち、生者に不快感と目まいを口移す。
目の奥がすぼまるのを実感しながら、少年は歯の根を噛んだ。
だが、その音は空を震わせない。
硬質の音を掻き消したのは、少女が細腕で薙いだ風切り音だった。
黒が凝り、練り上げられた傘が宙に現れる。
塗りつぶされたオペラグローブが触れると同時、それは開かれて頭上に固定された。
傘に対し少年が意識を向けた刹那、
「《飛来せよ》《紫毒の槍》《我が敵の臓腑へと》」
紫苑色の唇が蠢いた。
それは声紋で《しるし》を刻む魔術――上位魔術。
唱え損なえば、集めたマナが術者を喰らう膨大なリスクを孕むそれを、少女は何の躊躇も無く刻み続ける。
「巨人殺しの槍――!?」
「《毒せや毒せ》《貫き腐らし》《死で満たせ――》《巨人殺しの毒槍》」
膨大なマナが少女の指先、オペラグローブの先端へと集束する。傘は警戒を逸らすための囮だった。
少年も驚愕の後、眦を裂いて脱する方策を練るが、良案が浮かぶことはない。
回避しようにも少女の視線は腹部を捉えて離さず、詠唱を妨めるには遅きに失した。
妨害、回避……どちらもが無意味だと察した彼は、片腕を挙げ――
「う……ぐ、ぶッ……ェ……!」
重い一撃を受け入れた。
衝撃や反動すらも置き去りにして、腹部に大きな風穴が開かれる。
少女の片腕ほどの毒槍は、顕現と同時、可視域ギリギリの速度で飛来し、少年の臓腑を喰らって彼方へと消え去った。
残されたのは、遠い死が愛おしく思えるほどの痛みだけ。
少年の細い瞼は限界まで見開かれ、口は泡立つ血液を外へと排す。
人の身であれば死に至る損壊であるが、作られた肢体に死は在らず、傷口から染み渡る毒が気絶すらも許さない。
しかし、脳が削がれるような激痛に苛まれながらも、彼の心はそこにはなかった。
「がァ……よ……った……」
毒槍から逃がした自身の片腕。その手首に結えられた、深緑と茶で彩られたミサンガの無事を喜んでいたから。
それは彼にとって何よりも大切な、幸せの残滓だった。
血色の泡とともに安堵の呟きを送り出すと、見開かれていた瞼も元の細さを思い出す。
だが、それも一瞬のこと。
屋根上に積もった雪をかき分け近づいてくる足音に、少年は膝立ちの姿勢で相対する。
「ぐぶっ……なかなか、風情がないですね」
「ふふっ。私様はね、無駄なことがキライなの。どうせアナタ……譲る気はなかったのでしょぉ?」
邪悪で、それでいて無垢で、楽しげな笑い声が闇に轟いた。
少年との会話を“無駄”と、掃いて捨てる少女の顔には笑み。
長く待ち焦がれた楽しみを目前にした童女のような、曇りのない笑みが浮かんでいる。
「さぁさ。まだ踊れるかしら?」
そんな喜色の感情は少年に向けられたものではないようだ。
歩み寄り、問いかける少女。しかし、その視線は彼ではなく、雪に埋もれる黒髪の少女へと注がれていた。
もはや脅威とすら認めていないのだろう。
少年は浅く呼吸を繰り返し、口内に溜まった血を排してから、
「……やめておきましょう。鍵孔が起きてしまうかもしれないから」
「そう」
整然と答えてみせた。腹の傷はそのままだが、口元の血は外套により拭われている。
対する少女は完全に興味がない様子で、一瞥もくれることはない。
痛みを押し、せっかく整えた体裁も、これでは意味を成していなかった。
しかし、少年はむしろそれを良しとしていた。
面従腹背。彼は少女の足元で反撃の機会を窺っていたのだ。
エイミーを……鍵孔を奪われてしまうわけにはいかない。
愛した全てに終止符を打つこと。それこそが、それだけが彼の存在する価値なのだから。
諦観の相を貼りつけて、背後で刻むは必殺の《しるし》。
《風》《集中》《切断》……選ばれた魔術は奇しくも、かつてアルダメルダが使い、腐らされた魔術だった。
「――無駄」
だが、それがマナを呼び寄せることはない。
少女が気だるげに呟いたとおり。刻まれた《しるし》は魔術になることなく、ただ闇のなかに消えた。
彼女は、言葉を失い呆然とする少年に対してため息ひとつ。
そしてようやく視線を雪中から引き剥がし、打ちひしがれる彼に対した。
「閉ざした心に、元素は集わない」
一転してゆったりと、出来の悪い子弟に諭すように彼女は言う。
少女が語るは真理であり、魔術における基本だ。
マナは強い感情に呼応する。《しるし》はそれを繋ぐ媒介。想いの籠らない《しるし》に元素は集わず、何も生み出すことはない。
愛する者を絶望へ突き落とした直後である彼の心には、もう、魔術を発動させるだけの力が残されていなかったのだ。
「あなた……どうしようもなく、怠惰ねぇ」
語りかけながら少女は歩み寄り、膝立ちの少年を蹴り倒す。
緩慢な動作で、穴空きの体は仰向きに伏した。
彼女は頷き、身に纏うドレスの裾――そのひだ飾りを一瞬だけ摘まみあげると、彼の顔を覆うようにかぶせた。
二本の脚が顔を跨ぐ。
漆黒のドレスは内も黒。完全な闇のなかで少年は、対した存在に賛辞をおくる。
「驚いた。あなたにも、そんな冗談を言う知性があったんですね」
それは精一杯の強がりであり、侮蔑だった。
少女はそんな言葉を意に介すこともなく、腰を落とし、スカートの内の存在を消し去ってしまう。
遠い彼方……閉じた世界の外側へと。
もう、あとを追う言葉が紡がれることはなかった。
◆
無音で降り続ける雪をかき分けながら、先を目指す者がいた。
精緻な陶磁器人形に似た、完成された美貌を持つ娘である。
肩にかかる黒髪は片側だけがリボンでまとめられ、歪な双眸の脇で揺らめく。
幼い体躯を包むは闇のドレス。その腰部分は酷く細く、朝溶けの氷柱を思わせるほど異様だった。
手先を覆うオペラグローブも黒。頭上に浮かぶ傘も黒。
反転した白黒と、金色の虹彩以外のほとんどを漆黒であつらえた少女は、やがて足を止める。
弾んだ吐息を闇に浮かべ、次いで、雪の下から凍える躰を抱き起こした。
それは同じ髪色をした少女だった。
涙が凍りついた目縁。
何かを握りしめた拳。
色を失った小さな唇――そこに彼女は、自身の指先を滑り込ませる。
「終わりにはまだ早いわ。甘い夢を手放し現実を選んだあなたを、私様が愛してアゲル」
白い指は、愛するように、ねぶるようにねっとりと先をまさぐり、死を排し、途切れかけていた命の綱を結えなおす。
ザラついた舌が、黒布に包まれた指先と擦れて音を生む。
後頭部を支える左腕は、折れてしまいそうな首の質感を楽しむように打ち震えていた。
そうして短くない時間が経ち、魂が肉の器へと寄り戻されたころ、
「んっ……ん……」
引き抜かれた指先に代わり、紫苑が少女の唇を貪った。
肉蜜が口端をたどり、敷き詰められた雪へとこぼれ落ちる。
舌が這う。歯を、内顎を、純潔の舌を蹂躙する。
歯は、一本一本をていねいに。仕上げに歯茎をなぞりあげる。
内顎は、舌で弧を描きながら、つるつるとした舌裏を味わった。
堪能。
満ち足りた少女は自身の腸から、くぐもった音とともに何かをせり上げた。
ある種の両生類が、異物を取りだすために胃袋を吐く様に似ているかもしれない。
透明な汁とともに、それは口唇から伝って移され、少女の身体に溶け落ちた――
「……いったぁい。ふふ、素敵」
凌辱は、唇を食い千切られることで終わりを迎えた。
水気を孕んだ咀嚼音とともに、紫苑は鮮血に彩られる。
貪られるばかりだった少女は噛み切った肉片を吐き出すと、閉ざされていた瞼を開く。
瞳に宿すは絶望。
死の、その先を見つめた瞳がいま、歪な双眸と結ばれる。
「はじめまして。そしてお久しぶりねぇ、鍵孔ちゃん」
「……あなたが、私から全てを奪ったんだね」
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