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嘘のなかでもかまわない、何もないならそれでいい

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 いつしか作られた光は消えていた。
 けれど、視界が閉ざされることはない。
 厚い雲は消え、二つの月が世界を照らしてくれたから。
 ……昼も夜もなかった世界に、時間と温度が戻ってきたから。

 邪魔者を追いやった両手を元の位置に戻して、うつむいていた視線を引きあげる。
 月光に照らされる塀の外は、いつもと変わらない風景が広がっていた。
 ずっと続く草原。そして、遠くに連なるは背の高い山々……そんなまぼろし。
 コリーやロプスキュリテを飲み込んで、それでも変化は何もない。

 はぁ、と吐き出した血なまぐさいため息は、吹き抜けた風がどこか遠くへとさらってくれた。
 まるで本当に外があるみたい……なんともいえない思考が浮かんで、消えて。私はゆっくり首を滑らせた。
 傷んだ髪を追いかける虹色のリボンだけが鮮やかで。
 むかしのことを思い出して、鼻の奥がツンとなってしまったけど、

「おかえりなさい……おじいちゃん」

 私は頬をつりあげて、なるべく自然に見えるように笑った。
 だって、おじいちゃんはきっと心配してしまうから。
 一体今までどこに行ってたの? おじいちゃんがいればこんなことにはならなかったのに。帰ってきてくれてありがとう。大好きだよ。大嫌い。
 愛情も憎しみも、怒りも悲しみも。たくさんの感情が胸のなかをうごめいて、身体じゅうをギリギリと締めつける。
 でも、それを伝えたりはしないんだ。

「疲れたでしょ。あったかい紅茶を淹れるから、食堂に行こ?」

 私は嘘をつく。今までと同じように嘘をつく。
 みんなを守る、本当に聞こえるような嘘でみんなの想いを踏みにじった。
 ルシルの嘘に対して嘘を重ね、痛みや苦痛も嘘で塗り固めてごまかした。
 ……そしたら、いつの間にか私の嘘は、神さまを騙せるくらい上手になってたんだ。

 だからきっと、おじいちゃんだって私の心を理解わからない。
 それでいいんだ。
 私がもう死んでいて、ここから出られないことはなんとなくわかってる。
 そんな私がおじいちゃんに辛い思いをさせてまで、真実を訊く必要なんてないのだから。

「そうだ! 私ね、上位魔術を使えるようになったんだ。これって少しすごいんじゃないかな?」

 自慢げに語りながら駆け寄って、治った右手でおじいちゃんの左手をとった。
 骨と皮ばっかりでかたい。けれどあたたかい、大好きな手を。
 その手は震えていた。
 私は、それに気づかないふりをする。

 瞳の海からこぼれる雫も。
 喉奥から聞こえる嗚咽も。
 縮こまってしまった肩も。

 ぜんぶ、私は見ていない。

「……エイミー」

「なあに? おじいちゃん」

 震える湿った声に、努めて明るく返事をする。
 握りしめた右手をぶんぶんと振りまわして、もっと幼い子どものようにはしゃぎながら。
 おこうの香りで肺を満たして、嘘の幸せを噛みしめて。

「すまない……」

 けれども、おじいちゃんは泣きながら謝ってしまう。
 たくさんの涙がお顔のしわを越えて、首筋へと流れてゆく。
 浅い呼吸、早い鼓動。私は、そんな彼の姿を見ていたくなくて。
 気にしないで、そう言って涙を拾ってあげようとするのだけど、

「…………ぁ」

 先んじて私の頬にのばされた、おじいちゃんの右手が気付かせた。
 私も、ずっと泣いていたことに。
 涙の勢いは激しくて、あとからあとからこぼれてしまう。
 指摘されなければ嘘をつき続けられたのに。
 強い自分を騙ることができたのに。

 一度はげてしまった嘘は、すぐに取り繕うことができなくて。
 くしゃくしゃに歪んでしまう顔を隠すことも、繋いだ手が許してくれなくて。
 ひたすら謝り続けるおじいちゃんに抱かれながら、私は声をあげて泣きじゃくった。

 涙の理由なんて、もう、たくさんありすぎてわからない。
 家族が少しずつ消えてゆくのは、どうしようもなく悲しかった。
 コリーが目の前で消えてしまったとき、無力でばかな自分が情けなかった。
 ルシルに首を絞められて……死ぬ瞬間、心すらも守れないことが辛かった。
 ロプスキュリテに対したとき、魔獣を相手取ったとき、本当に怖かった。
 右腕を切り落されたときはもう、わけがわからないくらい痛かった。
 死んでしまう間際におじいちゃんが現れたとき、救われた気がして嬉しかった。

「すまない……本当に、すまなかった……」

 深い後悔のにじむ声は、叫びをすり抜けて心におちる。
 悲しい響きが、添えられた涙が私に知らしめた。
 悪者を倒してハッピーエンド。みんなが帰ってきて、また幸せな日々に戻ることができる。
 ……そんなことは、ありえないって。



 ◆



 手鍋からたちのぼる白い湯気が、冷たい空気に噛み殺される。
 かつて必ず六人が揃っていた食堂で。私は、ぼんやりと紅茶を淹れていた。

 話したいことがある。塀の前でそう切り出されたのは、ほんの少しだけ前のこと。
 私は引きつる喉を押さえながら頷いたのだった。
 食堂につくまえのことはうっすらとしか覚えていない。
 疲れ果てた私は、手を引かれるままに足を動かしたのだと思う。

「…………」

 視線をめぐらせると、数日前と変わらない食堂の風景があった。
 足りないのは四人の人影だけ。
 食堂に放置されていた、倒された食器棚や割れた皿。それらはもうここにはない。
 孤児院の外も内も、おじいちゃんの魔法によって元の姿を取り戻したから。

 死んでしまった私を今日まで生かしてくれたのも。
 この世界に来た日、空の雲を晴らしてくれたのも。
 雨の日、落ち込んだ私を励ましてくれた外の虹も。
 ロプスキュリテの傘を弾いた、檻の魔術の耐性も。
 そして降り止まなかった雪や、空を塗り潰していた雲が消えたのも。

 ぜんぶ魔術ではなく、魔法によるものだったのだろう。
 答えを確信するに至った材料は、皮肉なことに、ロプスキュリテのつぶやきだった。
 魔法……その言葉が、私の持つ浅い知識を動員させ、過去の矛盾をついたのだ。

 考えてみれば当然のことだった。
 魔術は傷を治すことはできても、死んだ人を蘇生させることはできない。
 肉体は癒せても、離れてしまった心を呼び戻すことはできないから。
 ……でも私は、そんなことどうでもいいんだ。

 手段なんかどうでもいい。おじいちゃんやラピスが私たちにしていた隠し事も、同じこと。
 だって、おじいちゃんの嘘はいつも、私たちを助けるためのものだったから。
 嘘をつくことは、とても辛いことだと知っている。
 だから、一番辛い想いをしていたのは私じゃないんだ。

「はい。熱いから気をつけてね」

 お盆に載せた、たった二つになってしまったカップ。
 その片割れを机の上に座らせながら、私は様子をうかがった。
 誰よりも苦しんだ優しい人。
 大好きなおじいちゃんを、想い遣りながら。

「ありがとう……すまん、な」

 答える彼の声は、まだ震えが残っていて。
 これから告げる言葉をためらっているだろうことが、なんとなくわかった。
 真実を告げること。その残酷さは、ルシルとの思い出に記憶されている。

「……ねぇ、おじいちゃん」

 だから私から、明るい声で切り出した。
 私の分の紅茶も、椅子も、おじいちゃんも置き去りに。
 軽くなったお盆を胸に押しつけながら、窓際へと歩み、続きを語る。

「私ね、何にもいらないの」

 視界からおじいちゃんを消して、月明かりで瞳を埋めた。
 赤と青。ずいぶんと久しぶりのそれは、変わらない輝きを届けてくれる。

「本当だよ? あったかいお布団も、おいしいごはんも、お洋服だってなくていいの」

 ただ、みんなが幸せでいてくれればそれでよかった。
 でもね、それがもう叶わないことは知ってるんだ。
 
「だから、ね――」

 だからね。もらった想いも、後悔も自責も呑み下して。
 守る誓い、寄り添う約束。……その一片だけを、守るよ。

 決意は満ちた。
 視界を埋めていた光に背をむけ、しょいこみながら言葉を継げる。
 自分を捨てて誰かのために生きる、そんな覚悟を背負って告げる。

「本当のことなんていらないの。おじいちゃんがいてくれれば、それでいい」

 息を呑むおじいちゃん。
 硬直した彼のもとへと駆け寄って、私はすがるように抱きついた。
 震える肩を演出して。
 瞳から本物の涙をこぼして。
 嘘と本当をないまぜに。弱々しく、守ってあげたくなるような幼子おさなごかたった。

「大好きなおじいちゃん。ずっと私の、そばにいて」

 言葉とともに熱い吐息を首筋に注ぎこむ。
 嘘をつくのは、誰よりも辛い思いをしている彼を助けるため。
 ルシルがそうしてくれたように、依存することで絶望をくいとめる。

 本当は私ね、とっても疲れてるんだ。
 おじいちゃんが帰ってきてくれたから“絶望”ってほどじゃないけど、もう死んで、何も考えたくないとは思ってる。
 あの日……愛情を剥かれて、地面に叩きつけられて死んだとき。助けられなければよかったって思ってる。
 でも、そんなこと言ってしまったら、きっとおじいちゃんは悲しむもの。
 泣いちゃうくらい悲しんで、もしかしたら死んでしまうかもしれないもの。

「好き……好きだよ、だぁい好き」

 体を寄せて熱を伝える。
 本当を混ぜた嘘をつきながら、私は生に縋るふりをした。
 あとは駄目押し。
 あなたが死んだら私も死ぬ……そう、言外げんがいに籠めて問いかける。

「おじいちゃんは私のこと、どう思ってるの?」

 うるんだ瞳で見上げると、おじいちゃんの視線が絡みつく。
 瞳の奥の光は揺らめいていて。その煌めきは、風にさらわれた白煙のように力なかった。
 哀色に染まった瞳のした。白いおひげはもぞもぞとうごめいていて、何かを言い出そうとしているのがわかる。

 苦々しく歪んだ顔が告げている。紡ごうとしている言葉は、真実なんだ。
 ずっと帰ってこれなかった理由。この世界の成り立ち。もう帰らないみんなの行方。……私が知っていること、知らないこと、その全てを語ろうとしているって。

「好きって言って? 私のことを……好きだって、言って?」

 だから私は、言葉を重ねて先を殺した。
 おじいちゃんの優しさに、愛につけこんで心を守る。
 私なんかのために辛い想いをする必要はないのだから。

 彼の喉が鳴った。
 飲み込まれたのは唾液と、そして殺された言葉だろう。
 喉を抜けて、胃のなかに落ちたものが蘇ることはない。
 おじいちゃんは深く息を吐き出して、私の頭を撫でながら、

「…………好き、だよ」

 短い言葉を送り出してくれた。
 哀しい想いがたくさん籠められた言葉を、私は音を立ててかみ砕く。
 ありがとう、そんな咀嚼音そしゃくおんを響かせながら。

 幸せなんて、もう何も残っていなくて。
 けれども死ぬことは許されなくて。
 だからせめて、私は、おじいちゃんの痛みを取り除くために生きるよ。

「生きようよ。ここで、二人だけで」

 手を握り締めて、吐息を噛みながら誘いこむ。
 待っているのはきっと、私にとって辛い日々。
 楽しかった思い出にいじめられて、消え去ったみんなのことを求め続ける毎日だろう。
 うなずいてほしい思いと、断ってほしい思いが同居する。
 一緒に死のう……そう誘ってくれたなら、どれだけ幸せなことだろう。

 甘美な妄想を切って捨て、私は顔を近づけた。
 おじいちゃんの瞳の海が近い。
 ああ……そういえば、前の世界ではよく海に行ったっけ。
 この世界の海にも行ってみたかったなぁ。うきわにしがみついて、みんなと遊んで、笑いあって――

「……エイミーは、生きたいか?」

 ふいにこぼれた涙を拾っていると、おじいちゃんは短い問いを口にした。
 どうしようもなく哀しい瞳。
 きっと私が断ったなら、一緒に死んでくれるのだろう。
 嘘だった。そう告げたなら、甘い終わりが迎えてくれる。

 ――それでも、もう私は決めたから

「生きたい」

 死にたい。
 昏い想いを隠して嘘をつく。
 おじいちゃんはそれに対して、ただ無感動な相槌を返すだけだった。

 声が、月の光に焼かれて死んだあと。
 新たな言葉が生まれることはなかった。



 冷えた紅茶は誰に飲まれることもなく忘れられて。
 翌日、片付けたときに思ったんだ。

 ……これは、私だって。


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