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入学④
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「よし!」
保科先生は、私からボールペンとプリントを奪うように取ると、また足音荒く出て行った。
楠先輩は、先生のカップにおかわりのコーヒーを入れると、同じ位置に置いた。
冷めると思うのだが・・・。
楠先輩は私がコーヒーを見ている視線をおかしそうに見て、「猫舌なんだそうですよ」と言った。
「食事は熱くても大丈夫だそうですが、飲み物は熱いのは許せないそうです。」
「じゃあ、始めから冷たい物にすれば・・・。」
「温かいのも飲みたいそうですよ。いや、先生の場合、温いのが飲みたいのか。」
以前に忠告してみたら、そう言われたらしい。
熱い料理が食べられるなら、熱いコーヒーも飲めそうなものだが。
同じ時間に入れた私の手の中にあるコーヒーカップはまだ温かく、コーヒーは湯気が立っている。
さっき保科先生が飲み干していったコーヒーは、決して温くは無いはずだ。
「先生の場合、気持ち温ければOKなんですよ。冷めているのは構わないが、めちゃめちゃ熱いのが許せないらしいので。」
楠先輩は、コーヒーをコクリと一口飲んだ。
誰一人として、砂糖もミルクも使っていない。
「・・・辞めて良いですよ。先生には僕が言っておくので。
古典部は、活動自体が無いような部です。
せっかくの高校生活を、無意味に過ごす事は無いですよ。
幽霊部員でも、もっと意義のある部の方が、大学入試にも有利に働くと思いますし。」
ゆったりとした口調で、楠先輩は入部を辞退するように言った。
それは、「辞めても、辞めなくてもどちらでも良い」と言いながら、「さっさと辞めろ」と言っている様だった。
「・・・辞めません。」
瀬戸さんは、喉が枯れたような声で反論した。
丸められた掌と、噛み締められた唇が痛々しい。
「言い方を変えようか。
俺は、瀬戸と一緒にいるのは御免だ。目障りだから、俺の前から消えろ。」
「・・・⁈」
楠先輩の表情は、氷の刃の様に冴え冴えと変わった。
私はオロオロと、2人を見ているしか出来ない。
「・・・私は、奏くんに償いたいの!」
「結構だ。その呼び方も止めろ。不愉快だ。」
「本当に、本当にごめんなさい!」
「お前が謝る必要は無い。もう俺に構わないでくれ。」
頭を下げる瀬戸さんを視界に入れようとせずに、楠先輩は立ち上がると、自分のカップをシンクに置きに行った。
「もう帰ってくれないか?」
背を向けたまま、そう言った楠先輩の声は、震えていた。
瀬戸さんは、先輩の背中を見ていた視線を私に向け、寂しそうに微笑むと、席を立った。
私も促されるように、立ち上がった。
部屋を出て行く瀬戸さんを追いかけるように、ドアに向かった。
「あ、あの。コーヒー、ごちそうさまでした。」
ドアを出る前に振り返ると、私は楠先輩に声をかけた。
楠先輩は、振り向いて私に微笑みかけた。
「どういたしまして。」
テーブルの上の保科先生のカップは、まだ湯気が上っていた。
廊下に出ると、瀬戸さんは渡り廊下の前で私を待っていた。
まだ、茶華道部と書道部は混雑している。
私は、廊下まではみ出している人を避けながら、瀬戸さんの元に向かった。
「ごめんね。巻き込んじゃって。」
困ったように笑う瀬戸さんは、泣きそうに見えた。
「ううん・・・。」
私は、他に何も言えず、首を横に振った。
教室まで、2人とも、口を開かなかった。
着いた教室には誰も残っていなかった。
帰宅した人や、部活体験・見学に行ったのだろう。
かく言う私達も、鞄を持って行動していたので、教室に戻る必要は無かったのだが。
瀬戸さんは、教室に入ると、窓際の席に座って外を見た。
外ではテニス部が練習している。
私は、瀬戸さんの前の席に座った。
日は西に傾いているが、まだ夕日には程遠い。
「・・・うちのお姉ちゃんね、美人なんだ。」
唐突に瀬戸さんが話し出した。
「・・・そうなんだ。」
「うん。明るくて男女問わずに好かれてて。」
「そう。」
「親の言う事もよく聞くから、親にも大事にされててね。周りの意見に流されやすい処が欠点かなってくらいで。」
「へえ。」
瀬戸さんが、何故いきなりお姉さんの話をし始めたのか分からないが、私はとりあえず聞く事にした。
それが、楠先輩との何かに繋がるのだろう。
「中学生になるとすぐに、お姉ちゃんに彼氏が出来たの。始めは2つ上の先輩、次は一個上。
新しく彼氏が出来るのは2、3ヶ月おきだった。
それでなくても、色々手伝ってくれる女友達も男友達も常にいて。」
「・・・。」
「楠先輩は、その男友達の1人だった。始めは。」
瀬戸さんは、私がちゃんと聞いているか確認するように、私に向き直り私の目をジッと見つめた。
「日下部さんは、それ癖なのかな?」
「は?何?」
「大きな瞳が溢れ落ちそうに、ジッと相手の目を見ながら、話したり聞いたりするの。」
「え?そんな事してる?」
「うん。
お姉ちゃんもね、そうする時があって、似てるなって思ったの。
ただ、日下部さんと違って、お姉ちゃんは態とやってるんだけど。」
私は、必要ない程に多く、瞬きをした。
「お姉ちゃんがそれをやる時はね。相手に自分の意見を通させる時なの。
何でも言う事を聞いてくれるって、綺麗な笑顔で言っていたわ。」
私は、ゾッとした。
催眠術の様ではないか。
私はそんな術は持って無い。
「お姉ちゃんの彼氏になる人は、カッコイイと評判だったり、サッカー部のエースだったり、生徒会長だったり。
そして楠先輩は、引ったくり犯を捕まえて話題になった事で、お姉ちゃんの彼氏の座に加わる事になった。」
「彼氏・・・。」
「楠先輩は、お姉ちゃんの事好きだったから、嬉しそうだった。
たとえ、他にも男がいるのを知っていても。」
「・・・。」
「お姉ちゃんは、彼氏にした人のほとんどと切れてなかった。
楠先輩は、慎重に用心深く、お姉ちゃんを説得してお姉ちゃんの周りの男を減らしていったの。」
いったい何人を股にかけているのだろうか?
よく、その彼氏達は付き合っていられるものだ。
「でもね。減らしても、増えるの。
有名高の推薦が通った人とか、次の生徒会長とか、次期エースとか。
その中に、大学卒1年目の数学教師がいたの。」
「教師・・・。」
「ええ。
楠先輩は、その数学教師とお姉ちゃんがヤってる処を見ちゃったの。」
「ええっ⁈」
「お姉ちゃんが言うには、初めてだったらしいけど。」
いやいやいや。そういう問題じゃ無くて!
「楠先輩は、『不純異性交遊だ』『教師失格だ』と校長に訴えたのだけど、逆に、お姉ちゃんをレイプしようとして数学教師に捕まった事にされたの。」
「は⁈どうして⁈」
「他の教師とも、校長とも、お姉ちゃんは繋がっていたの。
事は、学校内で内々に済ます事になったけれど、大々的に噂として広まった。
だって、教師やお姉ちゃんが広めているんだから。」
「マジ・・・。」
「学校に行けなくなった楠先輩は、家で更に傷つく事があった。
先輩の父親までお姉ちゃんと付き合っていたの。」
「え。」
「楠先輩の家に遊びに行った時に会って、それから付き合っていたらしいわ。
お姉ちゃんを苦しめるような奴は『自分の子供とは思わない』と意味不明な事を言われて、出て行ったらしいわ。
そして、もちろんそんな事があって、両親は離婚。」
「ひどい・・・。」
「お姉ちゃんは、今も好き勝手過ごしているわ。」
「瀬戸さんのご両親は、お姉さんの交遊関係とか、知ってるの?」
「ええ、知ってるわ。
でも、人生は一度きりだから、より良い相手を、より良い条件を求めるのは当たり前だって。」
「そんな・・・だって・・・。」
「お姉ちゃんの瞳に逆らえる人、私、見た事ないから。」
ああ。
家族ですら、催眠術で操っているのか。
「それで、お姉さんの代わりに謝りたかったの?」
「うん。・・・いえ、違うわ。何も出来なかった私を許して欲しかったのかも。」
「・・・もしかして、瀬戸さんは、楠先輩の事が好き?」
「・・・ええ。初恋だった。
お姉ちゃんに取られたけれど、妹の様に可愛がってもらえて、嬉しかった。
もう絶対に無理だけど、あの時の様に微笑んでもらいたかった。」
私から窓の外に顔を向けて、思い出の中に入って行った瀬戸さんの頬を一筋の涙が煌めいていた。
保科先生は、私からボールペンとプリントを奪うように取ると、また足音荒く出て行った。
楠先輩は、先生のカップにおかわりのコーヒーを入れると、同じ位置に置いた。
冷めると思うのだが・・・。
楠先輩は私がコーヒーを見ている視線をおかしそうに見て、「猫舌なんだそうですよ」と言った。
「食事は熱くても大丈夫だそうですが、飲み物は熱いのは許せないそうです。」
「じゃあ、始めから冷たい物にすれば・・・。」
「温かいのも飲みたいそうですよ。いや、先生の場合、温いのが飲みたいのか。」
以前に忠告してみたら、そう言われたらしい。
熱い料理が食べられるなら、熱いコーヒーも飲めそうなものだが。
同じ時間に入れた私の手の中にあるコーヒーカップはまだ温かく、コーヒーは湯気が立っている。
さっき保科先生が飲み干していったコーヒーは、決して温くは無いはずだ。
「先生の場合、気持ち温ければOKなんですよ。冷めているのは構わないが、めちゃめちゃ熱いのが許せないらしいので。」
楠先輩は、コーヒーをコクリと一口飲んだ。
誰一人として、砂糖もミルクも使っていない。
「・・・辞めて良いですよ。先生には僕が言っておくので。
古典部は、活動自体が無いような部です。
せっかくの高校生活を、無意味に過ごす事は無いですよ。
幽霊部員でも、もっと意義のある部の方が、大学入試にも有利に働くと思いますし。」
ゆったりとした口調で、楠先輩は入部を辞退するように言った。
それは、「辞めても、辞めなくてもどちらでも良い」と言いながら、「さっさと辞めろ」と言っている様だった。
「・・・辞めません。」
瀬戸さんは、喉が枯れたような声で反論した。
丸められた掌と、噛み締められた唇が痛々しい。
「言い方を変えようか。
俺は、瀬戸と一緒にいるのは御免だ。目障りだから、俺の前から消えろ。」
「・・・⁈」
楠先輩の表情は、氷の刃の様に冴え冴えと変わった。
私はオロオロと、2人を見ているしか出来ない。
「・・・私は、奏くんに償いたいの!」
「結構だ。その呼び方も止めろ。不愉快だ。」
「本当に、本当にごめんなさい!」
「お前が謝る必要は無い。もう俺に構わないでくれ。」
頭を下げる瀬戸さんを視界に入れようとせずに、楠先輩は立ち上がると、自分のカップをシンクに置きに行った。
「もう帰ってくれないか?」
背を向けたまま、そう言った楠先輩の声は、震えていた。
瀬戸さんは、先輩の背中を見ていた視線を私に向け、寂しそうに微笑むと、席を立った。
私も促されるように、立ち上がった。
部屋を出て行く瀬戸さんを追いかけるように、ドアに向かった。
「あ、あの。コーヒー、ごちそうさまでした。」
ドアを出る前に振り返ると、私は楠先輩に声をかけた。
楠先輩は、振り向いて私に微笑みかけた。
「どういたしまして。」
テーブルの上の保科先生のカップは、まだ湯気が上っていた。
廊下に出ると、瀬戸さんは渡り廊下の前で私を待っていた。
まだ、茶華道部と書道部は混雑している。
私は、廊下まではみ出している人を避けながら、瀬戸さんの元に向かった。
「ごめんね。巻き込んじゃって。」
困ったように笑う瀬戸さんは、泣きそうに見えた。
「ううん・・・。」
私は、他に何も言えず、首を横に振った。
教室まで、2人とも、口を開かなかった。
着いた教室には誰も残っていなかった。
帰宅した人や、部活体験・見学に行ったのだろう。
かく言う私達も、鞄を持って行動していたので、教室に戻る必要は無かったのだが。
瀬戸さんは、教室に入ると、窓際の席に座って外を見た。
外ではテニス部が練習している。
私は、瀬戸さんの前の席に座った。
日は西に傾いているが、まだ夕日には程遠い。
「・・・うちのお姉ちゃんね、美人なんだ。」
唐突に瀬戸さんが話し出した。
「・・・そうなんだ。」
「うん。明るくて男女問わずに好かれてて。」
「そう。」
「親の言う事もよく聞くから、親にも大事にされててね。周りの意見に流されやすい処が欠点かなってくらいで。」
「へえ。」
瀬戸さんが、何故いきなりお姉さんの話をし始めたのか分からないが、私はとりあえず聞く事にした。
それが、楠先輩との何かに繋がるのだろう。
「中学生になるとすぐに、お姉ちゃんに彼氏が出来たの。始めは2つ上の先輩、次は一個上。
新しく彼氏が出来るのは2、3ヶ月おきだった。
それでなくても、色々手伝ってくれる女友達も男友達も常にいて。」
「・・・。」
「楠先輩は、その男友達の1人だった。始めは。」
瀬戸さんは、私がちゃんと聞いているか確認するように、私に向き直り私の目をジッと見つめた。
「日下部さんは、それ癖なのかな?」
「は?何?」
「大きな瞳が溢れ落ちそうに、ジッと相手の目を見ながら、話したり聞いたりするの。」
「え?そんな事してる?」
「うん。
お姉ちゃんもね、そうする時があって、似てるなって思ったの。
ただ、日下部さんと違って、お姉ちゃんは態とやってるんだけど。」
私は、必要ない程に多く、瞬きをした。
「お姉ちゃんがそれをやる時はね。相手に自分の意見を通させる時なの。
何でも言う事を聞いてくれるって、綺麗な笑顔で言っていたわ。」
私は、ゾッとした。
催眠術の様ではないか。
私はそんな術は持って無い。
「お姉ちゃんの彼氏になる人は、カッコイイと評判だったり、サッカー部のエースだったり、生徒会長だったり。
そして楠先輩は、引ったくり犯を捕まえて話題になった事で、お姉ちゃんの彼氏の座に加わる事になった。」
「彼氏・・・。」
「楠先輩は、お姉ちゃんの事好きだったから、嬉しそうだった。
たとえ、他にも男がいるのを知っていても。」
「・・・。」
「お姉ちゃんは、彼氏にした人のほとんどと切れてなかった。
楠先輩は、慎重に用心深く、お姉ちゃんを説得してお姉ちゃんの周りの男を減らしていったの。」
いったい何人を股にかけているのだろうか?
よく、その彼氏達は付き合っていられるものだ。
「でもね。減らしても、増えるの。
有名高の推薦が通った人とか、次の生徒会長とか、次期エースとか。
その中に、大学卒1年目の数学教師がいたの。」
「教師・・・。」
「ええ。
楠先輩は、その数学教師とお姉ちゃんがヤってる処を見ちゃったの。」
「ええっ⁈」
「お姉ちゃんが言うには、初めてだったらしいけど。」
いやいやいや。そういう問題じゃ無くて!
「楠先輩は、『不純異性交遊だ』『教師失格だ』と校長に訴えたのだけど、逆に、お姉ちゃんをレイプしようとして数学教師に捕まった事にされたの。」
「は⁈どうして⁈」
「他の教師とも、校長とも、お姉ちゃんは繋がっていたの。
事は、学校内で内々に済ます事になったけれど、大々的に噂として広まった。
だって、教師やお姉ちゃんが広めているんだから。」
「マジ・・・。」
「学校に行けなくなった楠先輩は、家で更に傷つく事があった。
先輩の父親までお姉ちゃんと付き合っていたの。」
「え。」
「楠先輩の家に遊びに行った時に会って、それから付き合っていたらしいわ。
お姉ちゃんを苦しめるような奴は『自分の子供とは思わない』と意味不明な事を言われて、出て行ったらしいわ。
そして、もちろんそんな事があって、両親は離婚。」
「ひどい・・・。」
「お姉ちゃんは、今も好き勝手過ごしているわ。」
「瀬戸さんのご両親は、お姉さんの交遊関係とか、知ってるの?」
「ええ、知ってるわ。
でも、人生は一度きりだから、より良い相手を、より良い条件を求めるのは当たり前だって。」
「そんな・・・だって・・・。」
「お姉ちゃんの瞳に逆らえる人、私、見た事ないから。」
ああ。
家族ですら、催眠術で操っているのか。
「それで、お姉さんの代わりに謝りたかったの?」
「うん。・・・いえ、違うわ。何も出来なかった私を許して欲しかったのかも。」
「・・・もしかして、瀬戸さんは、楠先輩の事が好き?」
「・・・ええ。初恋だった。
お姉ちゃんに取られたけれど、妹の様に可愛がってもらえて、嬉しかった。
もう絶対に無理だけど、あの時の様に微笑んでもらいたかった。」
私から窓の外に顔を向けて、思い出の中に入って行った瀬戸さんの頬を一筋の涙が煌めいていた。
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