帝は傾国の元帥を寵愛する

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1章

12 一人の昼食

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ヴァルターは外套のフードをさらに深める。
賑わう街中でふと、牛を模した看板が目に入った。
木製の重厚な看板には、金の縁取りで〈帝都牧場直送〉の文字。
扉の向こうからは、香ばしい肉の匂いと、上等な酒の甘い香気が混ざって漂っていた。

少し迷ったが、このまま歩き回っても良い店が見つかるかもわからない。
ヴァルターはその暖簾をくぐる。
店員は、深くフードを被った客を訝しげに見た。
だが、ヴァルターがわずかに顔を上げると――一瞬で表情が変わる。
息を呑み、深々と頭を下げた。

「……こちらへ、どうぞ」

通されたのは、奥まった個室。
厚い扉が閉まると、外の喧騒はすっかり消え、
代わりに炭火のぱちぱちと爆ぜる音だけが静かに響いた。

「気遣いは不要だが……」
小さく呟いて椅子に腰を下ろす。
――今、自分の顔を見られるのは、少々厄介だ。
新帝の側近として知らぬ者はいない。
余計な噂が立てば、殿下の耳にも届くだろう。
この慎ましい配慮は、ありがたく受け取ることにした。

メニューを開く。
黒革の表紙に金の箔押し。
帝都でも指折りの高級店と見える。
桁違いの値が並んでいたが、ヴァルターは迷わなかった。
殿下から預かった金貨――使い果たすつもりで、一番上等な料理を指す。

「帝国産仔牛のローストと冬野菜の炙りを」

短く告げると、店員は深く頭を下げて退室した。
やがて静けさが戻る。

ヴァルターは外套の袖口を直しながら、胸元の内ポケットに触れた。
そこには、殿下が気遣ってくれた封筒。

やがて運ばれてきたのは、銀の蓋に覆われた皿だった。
店員が静かにそれを開けると、炭火で焼き上げられた仔牛のローストが、
淡い湯気をまとって姿を現した。

表面は薄く焦げ目を帯び、刃を入れれば柔らかく肉汁が滲み出る。
香ばしい脂の香りと、清涼な香気が鼻をくすぐった。
皿の端には、冬野菜――蕪と芽キャベツの炙り。
焦げ目のついた皮の下から、ほのかな甘みが立ちのぼる。

ヴァルターはナイフを取り、ひと口分を切り分ける。
噛めば、肉が舌の上でほどけた。
塩も香辛料も控えめで、素材の旨味がそのまま生きている。
――まるで、あの方の好みだ。

ユリウスは濃い味を好まない。
常に簡素を好み、余計な飾りを嫌った。
その声を思い出し、ヴァルターは目を伏せる。
口の中に広がる温もりが、どこか切なかった。
殿下がこの席にいれば、きっと香りだけで火加減を言い当てたことだろう。

ワインを一口含む。
深紅の液体が舌に触れ、かすかな渋みを残して喉を落ちてゆく。
それはまるで――胸の奥の言葉にならぬ想いのように、静かに沁みた。

「……美味いですよ、殿下。」

誰にも聞こえぬ声で呟く。
それは報告でも、感想でもない。

ナイフを進めながら、ふと唇の端がわずかに緩む。
――彼の方は火加減にもうるさい。
肉の中心が少しでも火を通しすぎれば、
「これは肉が泣いている」と平然と評した。
その声を思い出して、思わず小さく笑ってしまう。
ここ数年、昼を共に取っていたせいで、
料理や調理法にやたらと詳しくなってしまっていた。

本来、軍人にとってそんな知識は不要なはずなのに――
気づけば、殿下の好む焼き加減や、匙を入れる順番まで覚えてしまっている。

フォークを置き、軽く息を吐く。

「……食事は、とられたのだろうか。」

ぽつりと落ちた独り言。
そのまま、胸の奥で次の問いが浮かぶ。
――そして次は、いつ会えるものか。

ヴァルターは静かにナプキンを畳み、思考をそこで断ち切った。
暖かな室内の空気の中、ひとり、冷たい風の音だけが耳に残る。

ワインの余韻を喉の奥に残したまま、ヴァルターは席を立った。
外套の裾を整え、個室の扉を静かに開ける。

外の客席はすでに昼の喧騒。
立ち並ぶ卓では、貴族たちが帝都の話題に花を咲かせていた。
――話題の中心は、やはりユリウスの譲位と新帝即位の報。

「殿下はまさしく帝にふさわしいお方だ」
「いや、若すぎる。プルヴ宰相がついているとはいえ……」

耳に届く断片に、ヴァルターは思わず胸を撫でおろす。
どうやら自分の名までは出ていないようだ。
それだけで少し、ほっとした。

――しまった。

ふと気づけば、まだフードを上げたままだった。
軽く下ろそうとした、その瞬間。
陽光が窓辺から差し込み、
そのわずかな隙間から覗いた横顔に、客たちの視線が一斉に集まった。

ざわ、と空気が揺れる。
男たちは息を呑み、女たちは言葉を失う。
彼らの目に映ったのは、帝都で“傾国”と噂される男の、整いすぎた美貌だった。

ヴァルターは気づくと同時にフードを深く被り直す。
まったく、厄介な顔だ――と小さく息を吐き、勘定台へ向かった。

会計の皿に金貨を1枚置く。
店員が慌ててお釣りを差し出そうとするより早く、ヴァルターは静かに手を上げた。

「――要らん。殿下の祝いだ。取っておいてくれ」

店員は驚いたように目を見開き、それから深く頭を下げた。

「ありがとうございます、閣下。……また、今度は――」
言葉を選びながら微笑む。
「――ユリウス殿下……いえ、新帝陛下とご一緒に、お越しくださいませ。」

店員が深く頭を下げる気配を背に、扉を押し開けると、冬の風がふわりとフードを揺らした。

背後では、「ヴァルター閣下! おめでとうございます!」と貴族の声。
彼は振り向かず、ただ微笑だけ返した。

街の喧騒が遠のく中、ヴァルターは懐の金貨をそっと確かめ、
その冷たさに宿るぬくもりを――確かに感じた。

――また来よう。落ち着いたら、あの方と共に。

白い息の中に、その呟きが消えていった。


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