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1章
13 東翼晩餐の間
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現在、東翼晩餐の間に出入りを許される侍女は限られている。
皇城特有の煌びやかさはまるでなく、机の上には資料が所狭しと積み重なっていた。
どれに手をつけてよいのかも侍女にはわからず、張り詰めた空気の中では、落ちた書面一枚拾うことさえ憚られた。
東翼晩餐の間は本来、舞踏会や式典にも用いられる広大な一室である。
いまは緊急的な政務会議のために転用され、空間の半分ほどを執務区画と定め、
反対側には軽食や茶器を揃えた小さな休憩区が設けられていた。
午後十五時。
ユリウスはその休憩区の端、テラス近くで、三段トレーの最下段から乾いたサンドイッチをつまみあげ、胃に押し込んでいた。
味わう暇もなく、ぬるい紅茶で流し込む。
食べやすいように小さくカットされたキューカンバー・サンド。
それはヴァルターの好物の一つだった。
食事をまともに摂らぬあの男は、よくこういったもので済ませていた。
ほかにはキッシュやパイも好んでいたが、肉は滅多に口にしない。
(まだ若く健康なのだから、肉が必要だろうに……。ちゃんと食べていると良いが。)
思考の先に常に現れる存在は、ユリウスの判断を鈍らせる。
今はそれを考えるべきではない、と自らに言い聞かせて、手元の書類へ視線を戻した。
そうでなければ、帝位に就くその日まで本当に休むこともできない――
あの男が痩せてしまうではないか。
重い書類の束を机に置いたその時、
絹擦れのような衣の音が静寂を破った。
老いてなお、その歩には帝都を動かしてきた年月の重みがある。
この国の老宰相が、まるで己の庭を歩くように、ゆったりと近づいてきた。
「……あの尻の小さいのは、ここには呼ばないのか。」
「プルヴ宰相。名誉元帥をそのように呼ぶのは、そろそろ遠慮願いたい。」
「ふ、あの男も喜んでおるわ。」
は、とユリウスは小さくため息をつく。
「彼をわざわざこんな場に呼ぶこともないでしょう。」
プルヴはうなずき、顎鬚を撫でて笑った。
「確かに。この場では異質、かっこうの標的だ。諸侯どもにちくちくやられてはかなわん。
帝都の中でも、とりわけ面の皮の厚い者どもが揃っておるからな。くくく……。」
「……プルヴ宰相、聞こえますよ?」
「聞こえたところで、やつらの耳には届かんさ。都合の悪い言葉は遮られると見える。」
「ふ、違いない。」
ユリウスは乾いた笑みをこぼす。
遠くで鐘の音が響き、窓外の光が淡く揺れた。
「しかし、まさかこの時期に――」
ユリウスは小さく息を吐く。
「陛下がご自身の御子二人を差し置いて、私を指名なさるとは。」
プルヴはにやりと唇を歪めた。
「やつは豪胆でわがままだが、国を思う心と、人を見る目は確かだ。
息子といっても、長男は出家した変わり者、
次男はお前に怯えて何年も部屋から出ぬ。あれでは話にならん。」
ユリウスは苦笑した。
長男は確かに異端だった。
物心ついてから男だけを愛し、老いから若きまで次々と相手を替え、
最後には怪しげな聖職者を崇拝して追いかけ、全てを捨てた。
次男はユリウスと同い年で、常に比較され続け、やがて心を病んだ。
思い返すほどに、彼らにとって“皇位”とは呪いそのものだった。
それに比べて、自分は――。
「まぁ、時期が来たら奴を兼任で近衛にでもすると良いさ。」
「……そのつもりです。」
「しかし、奴は大人しく“待て”ができるのか?」
プルヴの低い声が、書類の山の向こうから響いた。
ユリウスは手を止めず、短く息を吐く。
「それは……」
――“待て”を課しているのは、あの男にではない。己の心だ。
だがそれは口には出さない。
「問題ないでしょう。」
「そうかの。」
プルヴは顎鬚に手を添え、意味深な笑みを浮かべた。
同意とも否定ともつかぬ声音に、
東翼を流れる冬の光がわずかに揺れた。
「しかし……老体に長丁場はきつい。夕方には退席する予定だが――ユリウス、一人で大丈夫か?」
プルヴは眼鏡越しに書面を見やりながら、疲れを隠さずに呟いた。
ユリウスは手を止め、穏やかに笑う。
「プルヴ宰相の御身が第一です。問題ありません。
むしろ――その程度務まらぬようでは、帝など務まるはずもない。」
言葉は静かだった。だが、その響きには揺るぎなき覇気があった。
プルヴはしばし無言で彼を見つめ、それから深く頷いた。
「……ここには、味方と呼べる者はおらぬからな。」
ユリウスは答えず、窓の外に沈みゆく冬陽を見つめた。
その横顔には、誰にも見せぬ孤独の影が淡く落ちていた。
書類を閉じたプルヴは、静かに椅子の背にもたれた。
老いた眼差しの奥に、わずかな憂いが宿る。
「時には、期待をしないでくれる者こそが、
お前にとって“光”となる時もあろう。
だが――そのぬる湯に溺れれば、また足元を掬われる。
……忘れぬようにな。」
ユリウスは黙って頷いた。
その瞳の奥では、遠い誰かの微笑が静かに揺れていた。
「では――どうすれば良いのです。」
ユリウスの問いに、プルヴは笑みを含んだ目を向けた。
「至極簡単。
あらゆる全てを掌の上で踊らせてみせることだ。」
その声音には、軽やかでいて恐ろしく現実的な響きがあった。
ユリウスは苦笑を浮かべ、ゆるく首を振る。
「一番難しいことを易々と仰る。
……プルヴ宰相の持論は、今度酒の場でゆっくり聞きましょう。」
「ほう? 本当か? お前、そう言っていつも酒に付き合わんだろうが。
まったく……老人を舐めおって。」
プルヴは鼻で笑い、書類を無造作に机へ放った。
ユリウスは肩をすくめ、わずかに苦笑する。
老宰相の笑い声が、東翼の静寂に溶けていった。
それは、ユリウスにとって一抹の救いでもあった。
皇城特有の煌びやかさはまるでなく、机の上には資料が所狭しと積み重なっていた。
どれに手をつけてよいのかも侍女にはわからず、張り詰めた空気の中では、落ちた書面一枚拾うことさえ憚られた。
東翼晩餐の間は本来、舞踏会や式典にも用いられる広大な一室である。
いまは緊急的な政務会議のために転用され、空間の半分ほどを執務区画と定め、
反対側には軽食や茶器を揃えた小さな休憩区が設けられていた。
午後十五時。
ユリウスはその休憩区の端、テラス近くで、三段トレーの最下段から乾いたサンドイッチをつまみあげ、胃に押し込んでいた。
味わう暇もなく、ぬるい紅茶で流し込む。
食べやすいように小さくカットされたキューカンバー・サンド。
それはヴァルターの好物の一つだった。
食事をまともに摂らぬあの男は、よくこういったもので済ませていた。
ほかにはキッシュやパイも好んでいたが、肉は滅多に口にしない。
(まだ若く健康なのだから、肉が必要だろうに……。ちゃんと食べていると良いが。)
思考の先に常に現れる存在は、ユリウスの判断を鈍らせる。
今はそれを考えるべきではない、と自らに言い聞かせて、手元の書類へ視線を戻した。
そうでなければ、帝位に就くその日まで本当に休むこともできない――
あの男が痩せてしまうではないか。
重い書類の束を机に置いたその時、
絹擦れのような衣の音が静寂を破った。
老いてなお、その歩には帝都を動かしてきた年月の重みがある。
この国の老宰相が、まるで己の庭を歩くように、ゆったりと近づいてきた。
「……あの尻の小さいのは、ここには呼ばないのか。」
「プルヴ宰相。名誉元帥をそのように呼ぶのは、そろそろ遠慮願いたい。」
「ふ、あの男も喜んでおるわ。」
は、とユリウスは小さくため息をつく。
「彼をわざわざこんな場に呼ぶこともないでしょう。」
プルヴはうなずき、顎鬚を撫でて笑った。
「確かに。この場では異質、かっこうの標的だ。諸侯どもにちくちくやられてはかなわん。
帝都の中でも、とりわけ面の皮の厚い者どもが揃っておるからな。くくく……。」
「……プルヴ宰相、聞こえますよ?」
「聞こえたところで、やつらの耳には届かんさ。都合の悪い言葉は遮られると見える。」
「ふ、違いない。」
ユリウスは乾いた笑みをこぼす。
遠くで鐘の音が響き、窓外の光が淡く揺れた。
「しかし、まさかこの時期に――」
ユリウスは小さく息を吐く。
「陛下がご自身の御子二人を差し置いて、私を指名なさるとは。」
プルヴはにやりと唇を歪めた。
「やつは豪胆でわがままだが、国を思う心と、人を見る目は確かだ。
息子といっても、長男は出家した変わり者、
次男はお前に怯えて何年も部屋から出ぬ。あれでは話にならん。」
ユリウスは苦笑した。
長男は確かに異端だった。
物心ついてから男だけを愛し、老いから若きまで次々と相手を替え、
最後には怪しげな聖職者を崇拝して追いかけ、全てを捨てた。
次男はユリウスと同い年で、常に比較され続け、やがて心を病んだ。
思い返すほどに、彼らにとって“皇位”とは呪いそのものだった。
それに比べて、自分は――。
「まぁ、時期が来たら奴を兼任で近衛にでもすると良いさ。」
「……そのつもりです。」
「しかし、奴は大人しく“待て”ができるのか?」
プルヴの低い声が、書類の山の向こうから響いた。
ユリウスは手を止めず、短く息を吐く。
「それは……」
――“待て”を課しているのは、あの男にではない。己の心だ。
だがそれは口には出さない。
「問題ないでしょう。」
「そうかの。」
プルヴは顎鬚に手を添え、意味深な笑みを浮かべた。
同意とも否定ともつかぬ声音に、
東翼を流れる冬の光がわずかに揺れた。
「しかし……老体に長丁場はきつい。夕方には退席する予定だが――ユリウス、一人で大丈夫か?」
プルヴは眼鏡越しに書面を見やりながら、疲れを隠さずに呟いた。
ユリウスは手を止め、穏やかに笑う。
「プルヴ宰相の御身が第一です。問題ありません。
むしろ――その程度務まらぬようでは、帝など務まるはずもない。」
言葉は静かだった。だが、その響きには揺るぎなき覇気があった。
プルヴはしばし無言で彼を見つめ、それから深く頷いた。
「……ここには、味方と呼べる者はおらぬからな。」
ユリウスは答えず、窓の外に沈みゆく冬陽を見つめた。
その横顔には、誰にも見せぬ孤独の影が淡く落ちていた。
書類を閉じたプルヴは、静かに椅子の背にもたれた。
老いた眼差しの奥に、わずかな憂いが宿る。
「時には、期待をしないでくれる者こそが、
お前にとって“光”となる時もあろう。
だが――そのぬる湯に溺れれば、また足元を掬われる。
……忘れぬようにな。」
ユリウスは黙って頷いた。
その瞳の奥では、遠い誰かの微笑が静かに揺れていた。
「では――どうすれば良いのです。」
ユリウスの問いに、プルヴは笑みを含んだ目を向けた。
「至極簡単。
あらゆる全てを掌の上で踊らせてみせることだ。」
その声音には、軽やかでいて恐ろしく現実的な響きがあった。
ユリウスは苦笑を浮かべ、ゆるく首を振る。
「一番難しいことを易々と仰る。
……プルヴ宰相の持論は、今度酒の場でゆっくり聞きましょう。」
「ほう? 本当か? お前、そう言っていつも酒に付き合わんだろうが。
まったく……老人を舐めおって。」
プルヴは鼻で笑い、書類を無造作に机へ放った。
ユリウスは肩をすくめ、わずかに苦笑する。
老宰相の笑い声が、東翼の静寂に溶けていった。
それは、ユリウスにとって一抹の救いでもあった。
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