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1章
14話 会えないけれど
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翌日も、いつもと同じようにヴァルターは正午きっかりに執務室へ向かった。
だが扉の前で彼を待っていたのは、侍女だった。大切そうに抱えられた白封筒が、どこか不釣り合いに重たく見える。
「殿下からのお預かりものです」
それだけを告げ、彼女は深く頭を下げて去っていった。
結局その週、ヴァルターとユリウスが顔を合わせることは一度もなかった。
金貨は届く。だが、声を聞くことはない。
まだ――顔を見て、おめでとうすら言えていない。
誰よりもそばにいたはずなのに、その距離が、いまはひどく遠く感じられた。
執務室の椅子に腰かけてはみるものの、たいして用事もない。
机の上には、きっちりと一週間分の金貨が積まれていた。
ヴァルターはそれを一つの袋に丁寧にまとめ、静かに外套を羽織る。
行き先は、先日訪れた料理店だった。
帝都でも屈指の繁華街の一角。昼時の通りには、香ばしい煙が風に乗って漂い、どこか懐かしい肉の匂いが鼻をくすぐる。
木製の重厚な看板には〈帝都牧場直送〉の文字。金の縁取りが陽光を反射し、通りを歩く人々の視線を惹いていた。
扉の向こうからは、炭火のはぜる音と、上等な酒の甘い香気が混ざり合って流れてくる。
――数日前、ひとりでこの店を訪れた。
フードを深く被り、誰にも気づかれぬようにして。
通された奥の個室で口にした「帝国産仔牛のロースト」は、今も鮮明に記憶に残っている。
焦がしの香ばしさ、ほどけるような肉の柔らかさ、そして控えめな塩気。
まるで彼の好みに合わせて仕立てられたような、上品な味だった。
店主は、再び姿を見せた名誉元帥を見て息を呑んだが、ヴァルターの穏やかな声を聞くと、すぐに理解したように深く頭を下げた。
「東翼の会議室へ届けてほしい。殿下、宰相閣下や諸侯たちが、きっとお疲れだろう」
そう言って袋ごと金貨を渡すと、店主の顔が見る間に輝いた。
本当の目的は、もちろん別にある。
――殿下に、吾は大丈夫だと伝えたかった。
それだけの、ささやかな報せだった。
この帝都の喧騒のどこかで、彼もまた忙しく息をしている。
せめてその日々に、少しでも温かな香りを添えられるのなら――
それで十分だと信じていた。
*
その日も東翼では夜まで政務が続いていた。
机の上には積み上がる文書と、冷めきった茶。
何度入れ直しても冷えてしまうので、飲みたい者から指示がなければ入れ直さないことになったのだ。
そこへ突然、侍女たちが香ばしい匂いを運び入れる。
「……誰の指示だ」
「名誉元帥閣下から皆様方への差し入れでございます」
最初は一様に眉がひそめられた。
「会議の最中に肉など、軽率だ」
そう言った老侯爵が、何気なく箸を伸ばしたのはほんの出来心に過ぎなかった。
一口、噛み締めた瞬間、室内の空気が変わる。
「……これは、旨い」
皿が瞬く間に空き、諸侯たちは次々に食べ始めた。
「こういう配下がいると本人の格がわかる。殿下は恵まれている」
やがて誰かがそう呟くと、険しかった空気がふっと緩んだ。
会話は弾み、笑いが生まれ、重かった議場の温度がわずかに上がる。
その評価は、いつの間にかユリウス自身の手柄となっていた。
レオンが「ヴァルター閣下から東翼のへ差し入れが届いているようです」と耳打ちしたとき、ユリウスはペンを止めた。
ヴァルターが肉を――。
皮肉屋のあいつのことだ、“あなたがいなくても肉くらい食べている”と、そんな風に言いたいのだろう。
そう思うと、どうしても口元が緩んだ。
窓の外では陽が傾き、帝都の屋根が黄金に染まり始めている。
遠くの街路を鳥の影が横切り、光と影が静かに揺れた。
机の端に置かれた包み紙からは、まだわずかに香ばしい匂いが残っている。
焦がし肉の香りとともに、懐かしい笑みの面影が胸に浮かんだ。
「……美味しい」
独り言のように呟く。
開け放たれた窓から頬を撫でる風が、少しだけ柔らかい。
その風の向こうに、きっと彼がいる。
まだ会えぬまま、それでも確かに繋がっている。
そう信じて、彼は静かに目を閉じた。
結局ヴァルターとユリウスが顔を合わせられたのは、二週間後のことだった。
この日は以前から予定されていた舞踏会の夜。
昼には時間を取れなかったが、開宴直前、二人はようやく再会を果たしたのだった。
だが扉の前で彼を待っていたのは、侍女だった。大切そうに抱えられた白封筒が、どこか不釣り合いに重たく見える。
「殿下からのお預かりものです」
それだけを告げ、彼女は深く頭を下げて去っていった。
結局その週、ヴァルターとユリウスが顔を合わせることは一度もなかった。
金貨は届く。だが、声を聞くことはない。
まだ――顔を見て、おめでとうすら言えていない。
誰よりもそばにいたはずなのに、その距離が、いまはひどく遠く感じられた。
執務室の椅子に腰かけてはみるものの、たいして用事もない。
机の上には、きっちりと一週間分の金貨が積まれていた。
ヴァルターはそれを一つの袋に丁寧にまとめ、静かに外套を羽織る。
行き先は、先日訪れた料理店だった。
帝都でも屈指の繁華街の一角。昼時の通りには、香ばしい煙が風に乗って漂い、どこか懐かしい肉の匂いが鼻をくすぐる。
木製の重厚な看板には〈帝都牧場直送〉の文字。金の縁取りが陽光を反射し、通りを歩く人々の視線を惹いていた。
扉の向こうからは、炭火のはぜる音と、上等な酒の甘い香気が混ざり合って流れてくる。
――数日前、ひとりでこの店を訪れた。
フードを深く被り、誰にも気づかれぬようにして。
通された奥の個室で口にした「帝国産仔牛のロースト」は、今も鮮明に記憶に残っている。
焦がしの香ばしさ、ほどけるような肉の柔らかさ、そして控えめな塩気。
まるで彼の好みに合わせて仕立てられたような、上品な味だった。
店主は、再び姿を見せた名誉元帥を見て息を呑んだが、ヴァルターの穏やかな声を聞くと、すぐに理解したように深く頭を下げた。
「東翼の会議室へ届けてほしい。殿下、宰相閣下や諸侯たちが、きっとお疲れだろう」
そう言って袋ごと金貨を渡すと、店主の顔が見る間に輝いた。
本当の目的は、もちろん別にある。
――殿下に、吾は大丈夫だと伝えたかった。
それだけの、ささやかな報せだった。
この帝都の喧騒のどこかで、彼もまた忙しく息をしている。
せめてその日々に、少しでも温かな香りを添えられるのなら――
それで十分だと信じていた。
*
その日も東翼では夜まで政務が続いていた。
机の上には積み上がる文書と、冷めきった茶。
何度入れ直しても冷えてしまうので、飲みたい者から指示がなければ入れ直さないことになったのだ。
そこへ突然、侍女たちが香ばしい匂いを運び入れる。
「……誰の指示だ」
「名誉元帥閣下から皆様方への差し入れでございます」
最初は一様に眉がひそめられた。
「会議の最中に肉など、軽率だ」
そう言った老侯爵が、何気なく箸を伸ばしたのはほんの出来心に過ぎなかった。
一口、噛み締めた瞬間、室内の空気が変わる。
「……これは、旨い」
皿が瞬く間に空き、諸侯たちは次々に食べ始めた。
「こういう配下がいると本人の格がわかる。殿下は恵まれている」
やがて誰かがそう呟くと、険しかった空気がふっと緩んだ。
会話は弾み、笑いが生まれ、重かった議場の温度がわずかに上がる。
その評価は、いつの間にかユリウス自身の手柄となっていた。
レオンが「ヴァルター閣下から東翼のへ差し入れが届いているようです」と耳打ちしたとき、ユリウスはペンを止めた。
ヴァルターが肉を――。
皮肉屋のあいつのことだ、“あなたがいなくても肉くらい食べている”と、そんな風に言いたいのだろう。
そう思うと、どうしても口元が緩んだ。
窓の外では陽が傾き、帝都の屋根が黄金に染まり始めている。
遠くの街路を鳥の影が横切り、光と影が静かに揺れた。
机の端に置かれた包み紙からは、まだわずかに香ばしい匂いが残っている。
焦がし肉の香りとともに、懐かしい笑みの面影が胸に浮かんだ。
「……美味しい」
独り言のように呟く。
開け放たれた窓から頬を撫でる風が、少しだけ柔らかい。
その風の向こうに、きっと彼がいる。
まだ会えぬまま、それでも確かに繋がっている。
そう信じて、彼は静かに目を閉じた。
結局ヴァルターとユリウスが顔を合わせられたのは、二週間後のことだった。
この日は以前から予定されていた舞踏会の夜。
昼には時間を取れなかったが、開宴直前、二人はようやく再会を果たしたのだった。
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