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1章
21話 ヴァルターの邸宅
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ユリウスは椅子を離れた。
書簡を閉じ、羽根ペンを置く音が、静寂の中に沈む。
「出てくる。」
それだけを告げ、ユリウスは外套を取った。
執務室に残った者たちは息を詰め、誰ひとりとして言葉を挟まなかった。
黒塗りの馬車が北の居住地へ向かうころ、陽は傾きはじめていた。
帝都の喧騒は遠く、ただ車輪の音だけが石畳にこだまする。
ヴァルターの屋敷は、その静けさの向こうに佇んでいた。
門は開いていた。
白い壁も黒い屋根も、どこも欠けてはいない。
ただ庭の砂利道には、靴跡ひとつ残っていなかった。
扉を押すと、埃ひとつない空気が流れ出た。
整いすぎた室内は、主の不在を告げていた。
「殿下……!」
奥から現れたのは、年老いた侍女だった。
白髪をきちんと結い、深い皺に長年の忠勤の色を刻んだ女。
ヴァルターの邸宅を守る、唯一の侍女である。
「奴は帰っていないのか?」
「……殿下のご婚礼にお出かけになられた後、
それきり、お帰りになっておりません。」
その声には迷いがなかった。
ただ、悲しみを悟られまいとするように、静かであった。
「最初の一日は、きっとお役目が延びたのだろうと。
二日目には、訓練で夜を明かされたのかもしれぬと。
けれど三日目の朝、書斎にこれが置かれているのに気付いたのです。」
老女は革の小袋を差し出した。
中には金貨が詰まっていて、微かな音を立てる。
袋の口には、丁寧な筆跡で“感謝を込めて”と書かれた紙片。
「“これを受け取ってほしい。
仕えてくれてありがとう。
足りなければヴァルトハイムの兄に請求してくれ”と。」
ユリウスは黙ってそれを見つめた。
侍女の声が、ゆっくりと震えを帯びる。
書斎へと足を向ける。
扉を開くと、そこには“秩序”しかなかった。
筆は磨かれ、椅子は机に寄せられ、帳簿の角はきっちりと揃っている。
まるで主が「今にも戻る」とでも言うように、完璧なまま時間が止まっていた。
寝室も覗いた。
風呂も、庭園も。
どこにも姿はない。
本当は、引き出しの中さえも開けてみたい衝動に駆られている。
しかしこれ以上の無意味な詮索は、ユリウス自身が自らを許さない。
……もう、ここへ向かう途中から、すべてわかっていた。
探しに来たのではない。
いないことを——確かめに来たのだ。
書斎を出ると、老女が廊下に控えていた。
深々と頭を下げ、震える声で言う。
「殿下……閣下は、婚礼の日にまるで全てを整えてお出かけになったようでございました。
……まるで、長旅にでも出るように。」
ユリウスは、しばらく返事をしなかった。
視線を落とし、ただ、掌の中に残る微かな温度を見つめるように——。
「殿下……もしお言葉を賜れるなら、閣下は――」
「……何も言うな。」
老女はそれ以上言葉を重ねず、深く礼をした。
庭に出ると、夕陽が白砂を赤く染めていた。
帝都の風が、衣の裾を揺らす。
その風の中に、ほんの一瞬、ヴァルターの声が混じった気がした。
――殿下、少し休まれては。
ーー全ては殿下のために。
幻だ。
振り返っても、そこには誰もいない。
ユリウスは空を見上げた。
陽は沈みかけ、光は緋から藍へと変わってゆく。
夜が来る。
帝都のすべての灯がともるころ、この屋敷だけが闇に沈むだろう。
ーー笑えますか。俺が明日、消えても。
ユリウスはもう一度だけ門を見た。
彼のいない屋敷に、丁寧に閉ざされた扉。
それを見て、彼は静かに呟いた。
「……ヴァルター。」
その名は、風にさらわれるように消えた。
書簡を閉じ、羽根ペンを置く音が、静寂の中に沈む。
「出てくる。」
それだけを告げ、ユリウスは外套を取った。
執務室に残った者たちは息を詰め、誰ひとりとして言葉を挟まなかった。
黒塗りの馬車が北の居住地へ向かうころ、陽は傾きはじめていた。
帝都の喧騒は遠く、ただ車輪の音だけが石畳にこだまする。
ヴァルターの屋敷は、その静けさの向こうに佇んでいた。
門は開いていた。
白い壁も黒い屋根も、どこも欠けてはいない。
ただ庭の砂利道には、靴跡ひとつ残っていなかった。
扉を押すと、埃ひとつない空気が流れ出た。
整いすぎた室内は、主の不在を告げていた。
「殿下……!」
奥から現れたのは、年老いた侍女だった。
白髪をきちんと結い、深い皺に長年の忠勤の色を刻んだ女。
ヴァルターの邸宅を守る、唯一の侍女である。
「奴は帰っていないのか?」
「……殿下のご婚礼にお出かけになられた後、
それきり、お帰りになっておりません。」
その声には迷いがなかった。
ただ、悲しみを悟られまいとするように、静かであった。
「最初の一日は、きっとお役目が延びたのだろうと。
二日目には、訓練で夜を明かされたのかもしれぬと。
けれど三日目の朝、書斎にこれが置かれているのに気付いたのです。」
老女は革の小袋を差し出した。
中には金貨が詰まっていて、微かな音を立てる。
袋の口には、丁寧な筆跡で“感謝を込めて”と書かれた紙片。
「“これを受け取ってほしい。
仕えてくれてありがとう。
足りなければヴァルトハイムの兄に請求してくれ”と。」
ユリウスは黙ってそれを見つめた。
侍女の声が、ゆっくりと震えを帯びる。
書斎へと足を向ける。
扉を開くと、そこには“秩序”しかなかった。
筆は磨かれ、椅子は机に寄せられ、帳簿の角はきっちりと揃っている。
まるで主が「今にも戻る」とでも言うように、完璧なまま時間が止まっていた。
寝室も覗いた。
風呂も、庭園も。
どこにも姿はない。
本当は、引き出しの中さえも開けてみたい衝動に駆られている。
しかしこれ以上の無意味な詮索は、ユリウス自身が自らを許さない。
……もう、ここへ向かう途中から、すべてわかっていた。
探しに来たのではない。
いないことを——確かめに来たのだ。
書斎を出ると、老女が廊下に控えていた。
深々と頭を下げ、震える声で言う。
「殿下……閣下は、婚礼の日にまるで全てを整えてお出かけになったようでございました。
……まるで、長旅にでも出るように。」
ユリウスは、しばらく返事をしなかった。
視線を落とし、ただ、掌の中に残る微かな温度を見つめるように——。
「殿下……もしお言葉を賜れるなら、閣下は――」
「……何も言うな。」
老女はそれ以上言葉を重ねず、深く礼をした。
庭に出ると、夕陽が白砂を赤く染めていた。
帝都の風が、衣の裾を揺らす。
その風の中に、ほんの一瞬、ヴァルターの声が混じった気がした。
――殿下、少し休まれては。
ーー全ては殿下のために。
幻だ。
振り返っても、そこには誰もいない。
ユリウスは空を見上げた。
陽は沈みかけ、光は緋から藍へと変わってゆく。
夜が来る。
帝都のすべての灯がともるころ、この屋敷だけが闇に沈むだろう。
ーー笑えますか。俺が明日、消えても。
ユリウスはもう一度だけ門を見た。
彼のいない屋敷に、丁寧に閉ざされた扉。
それを見て、彼は静かに呟いた。
「……ヴァルター。」
その名は、風にさらわれるように消えた。
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