帝は傾国の元帥を寵愛する

１章

２２話 代償

レオンは束ねられた書簡を静かに処理していた。
右手を見つめても、殿下はその席にはおられない。
ヴァルター閣下の痕跡すら残らぬ部屋は、静謐そのものだった。
閣下が姿を消されたと知れたその日から、帝都は不気味なほどの沈黙に包まれた。
兵の間からか、あるいは侍従の口伝えか――。
ヴァルター閣下の不在は瞬く間に帝都を駆け抜け、風のように静かでありながら、確かに広がっていった。
やがて民草にまで届いた囁きは、一つの結論に集約する。
――あのお方は、殿下をお慕いしておられたのだ、と。
兵も、校官も、商人も、皆、知っていた。
閣下は殿下のご婚姻に、耐えられなかったのだと。

あの日、殿下は何もおっしゃらなかった。
それ以降、公務はすべて私邸に持ち込まれ、最低限の処理のみに留められた。

＊

ユリウスは、胸の奥に石を詰め込まれたような息苦しさに、吐き気を覚えていた。
寝台に横たわっても、心臓が静まらない。
背に伝う体温が、むしろ不快だった。
ひとつ息を吸うたびに、胸が軋み、喉の奥に錆の味が滲む。
焦燥でも、悲嘆でもない。
理性が形を保てぬまま、ただ「空虚」という名の霧に覆われていた。
何かを為さねばならぬと頭では分かっているのに、手も声も動かない。
書簡は机の上に積まれたままだった。
指先を伸ばせば届く距離にあるというのに、重さだけが増していくようだった。
夜明けと夕暮れの境もわからない。

三日三晩、ユリウスは何も口にしなかった。
空腹という感覚すら、遠い他人のもののようで、かろうじて水瓶の水を一口、二口。
そのたびに喉がひどく乾いていることを思い出す。
それでも身体は動かず、ただ時が過ぎていく。
机の上の羽根ペンが、彼の視界の端で転がった。
白い羽先が光を受けて淡く揺れる。

ふと、ユリウスは目を向ける。
——その扉が開いて、彼が入ってくるのではないか。
そんな幻のような希望が、ほんの一瞬、胸を打つ。
その足音が、もう一度だけ響くのではないか。

だが静寂だけが続いた。
その思いだけが、彼をこの世に繋ぎ止めていた。

周囲はただ「お疲れが出たのだろう」と囁くだけだった。
誰も、その沈黙の底に潜む真実を知らない。
それが彼にとって、唯一の救いであり、唯一の絶望でもあった。


＊


やがて二週間が過ぎ、殿下はようやく執務室に戻られた。
白磁のように肌の色を失い、頬は削げ、眼差しには遠い焦点が宿っていた。
その瞳は、何も見ていないのに、すべてを見透かしているようでもあった。

午後の陽が、重く垂れたカーテンの隙間から差し込んでいる。
殿下は作業がひと段落したようで、書簡を閉じたまま指先で封蝋をなぞっていた。
レオンはいつもどおり静かに作業をしていたが、室内の空気は張りつめ、息を吸うことさえためらわれた。
やがて、殿下の唇が動いた。


「レオン。ヴァルターは……なぜ消えた。」


その声は問いというより、かすかな吐息のようだった。