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1章
23話 完璧な帝
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紙の擦れる音さえ遠く、ただ時間だけが沈黙を延ばしていく。
殿下の指先がわずかに震えた。
机上に散らばる書簡の端を掴み、形ばかりの秩序を保とうとされている。
「それは…」
レオンは、胸の奥に焼けつくような痛みを覚えながら、ただ頭を垂れた。
殿下は窓の外に目をやられる。
帝都の庭園は、晩春の風に揺れていた。
「レオン。お前は私がなぜ、婚姻したのだと思う?」
その声は、書架の影に沈む灯のように低く、掠れていた。
室内の空気がわずかに動き、窓辺のカーテンがはらりと揺れた。
レオンは息を詰め、静かに答えを探す。
それは、帝国の誰も触れてはならぬ問いだった。
「……お世継ぎを残されるため、でしょうか。」
かろうじて搾り出した声は、己の耳にもかすかに震えて聞こえた。
殿下はゆるやかに目を伏せられ、封書の縁を指でなぞる。
指先は白く、爪先が紙を掠める音がわずかに響いた。
「帝となるなら、それは責務のうち。
ならば、早く済ませる手立てを取るのが理。
――それだけのことだろう?」
淡々とした口調でありながら、その声の底には微かな痛みが混じっていた。
それは理を口にしながら、なお情を抑え切れぬ人間の声だった。
レオンは、その言葉の綻びに、確かな悲しみを見た。
書架の影で、沈黙が軋んだ。
「なぜ奴はそれがわからない?」
その声には、帝の威厳ではなく、一人の男の苦悩が滲んでいた。
レオンは正視できず、視線を落とす。
それでも、沈黙は許されぬ。
言葉を選ぶ間にも、空気は凍てついていく。
「……それは、何も説明されておられなかったからではないでしょうか。」
殿下の眉がわずかに動いた。
その仕草は、氷の面に小石を落としたかのような微かな波紋を生んだ。
レオンは息を詰め、続ける。
「この私も、あの突然のご婚姻を知ったとき、驚きました。
閣下にはせめて一言、話があったのだろうと。
――そう思っておりました。
ですが、何も……なかったのですね。」
殿下の沈黙が、部屋の空気を凍らせる。
香炉の煙がひと筋、まっすぐ天へ昇った。
その静けさの中で、時間だけが確かに進んでいく。
レオンは恐れを押し殺し、一歩前へ出た。
「普段の殿下であれば――
そもそもあれほど政治的価値の高いお方を、国の柱として容易に手放されることなど、決してなさいません。」
言葉が落ちるたび、沈黙が深まっていく。
殿下は静かに顔を上げられた。
その瞳には、かすかな光が宿っていた――それは怒りにも、哀しみにも似た光。
「それをなさらなかったのは――」
レオンが息を呑み、殿下の瞳を正面から見据えたその刹那。
彼の目に、冷たい光が走った。
「――そうだったな。私という者は、そうあるべきだった」
その声は、静かに、しかし確実に、レオンの胸を貫く。
一瞬、呼吸が止まる。
いつもは、陽光を映すように澄み渡る青い瞳。
理性と威厳の奥に、ひそやかな温を宿すその色が――今は、まるで凍りついた湖のようだった。
輝きは消え、光を拒むように沈んでいる。
それを見た瞬間、レオンの胸に、焼けつくような痛みが走った。
声を絞るように、頭を垂れた。
「……差し出がましい真似を、申し訳ございません。」
返答はなかった。
ただ、沈黙の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
香炉の火がわずかに揺れ、燃え尽きた灰が静かに崩れた。
殿下は、机上の紙片を整えられる。
その指先の動作は機械のように静謐だった。
レオンは、その美しさに、祈るような絶望を覚えた。
やがて殿下は立ち上がり、窓辺に歩み寄られた。
重いカーテンをわずかに押し分けると、遠く帝都の塔の尖端が陽を受けて白く光った。
人々の営みの音が、遠い世界のことのように聞こえる。
その中に、もう“彼”の足音はない。
殿下はただ一度、目を閉じられた。
その長い睫毛がわずかに震え、息が落ちる。
まるで胸の奥に残る炎の名残を、静かに押し包むように。
その沈黙は、帝としての威厳を生み、同時に人としての温度を奪う。
そしてその姿こそ、帝に“ふさわしい”ものとなっていった。
*
季節は巡り、建国三百年の記念式典の日が訪れる。
帝都セレスティアの鐘が長く鳴り響き、
黄金の旗が風を受けて、荘厳に翻った。
陽光の中に立つ帝の姿は、神々しくも冷ややかであった。
その微笑の奥に、かつて燃え上がった痛みの名残を知る者は、
もうこの都には、ひとりとして残ってはいなかった。
殿下の指先がわずかに震えた。
机上に散らばる書簡の端を掴み、形ばかりの秩序を保とうとされている。
「それは…」
レオンは、胸の奥に焼けつくような痛みを覚えながら、ただ頭を垂れた。
殿下は窓の外に目をやられる。
帝都の庭園は、晩春の風に揺れていた。
「レオン。お前は私がなぜ、婚姻したのだと思う?」
その声は、書架の影に沈む灯のように低く、掠れていた。
室内の空気がわずかに動き、窓辺のカーテンがはらりと揺れた。
レオンは息を詰め、静かに答えを探す。
それは、帝国の誰も触れてはならぬ問いだった。
「……お世継ぎを残されるため、でしょうか。」
かろうじて搾り出した声は、己の耳にもかすかに震えて聞こえた。
殿下はゆるやかに目を伏せられ、封書の縁を指でなぞる。
指先は白く、爪先が紙を掠める音がわずかに響いた。
「帝となるなら、それは責務のうち。
ならば、早く済ませる手立てを取るのが理。
――それだけのことだろう?」
淡々とした口調でありながら、その声の底には微かな痛みが混じっていた。
それは理を口にしながら、なお情を抑え切れぬ人間の声だった。
レオンは、その言葉の綻びに、確かな悲しみを見た。
書架の影で、沈黙が軋んだ。
「なぜ奴はそれがわからない?」
その声には、帝の威厳ではなく、一人の男の苦悩が滲んでいた。
レオンは正視できず、視線を落とす。
それでも、沈黙は許されぬ。
言葉を選ぶ間にも、空気は凍てついていく。
「……それは、何も説明されておられなかったからではないでしょうか。」
殿下の眉がわずかに動いた。
その仕草は、氷の面に小石を落としたかのような微かな波紋を生んだ。
レオンは息を詰め、続ける。
「この私も、あの突然のご婚姻を知ったとき、驚きました。
閣下にはせめて一言、話があったのだろうと。
――そう思っておりました。
ですが、何も……なかったのですね。」
殿下の沈黙が、部屋の空気を凍らせる。
香炉の煙がひと筋、まっすぐ天へ昇った。
その静けさの中で、時間だけが確かに進んでいく。
レオンは恐れを押し殺し、一歩前へ出た。
「普段の殿下であれば――
そもそもあれほど政治的価値の高いお方を、国の柱として容易に手放されることなど、決してなさいません。」
言葉が落ちるたび、沈黙が深まっていく。
殿下は静かに顔を上げられた。
その瞳には、かすかな光が宿っていた――それは怒りにも、哀しみにも似た光。
「それをなさらなかったのは――」
レオンが息を呑み、殿下の瞳を正面から見据えたその刹那。
彼の目に、冷たい光が走った。
「――そうだったな。私という者は、そうあるべきだった」
その声は、静かに、しかし確実に、レオンの胸を貫く。
一瞬、呼吸が止まる。
いつもは、陽光を映すように澄み渡る青い瞳。
理性と威厳の奥に、ひそやかな温を宿すその色が――今は、まるで凍りついた湖のようだった。
輝きは消え、光を拒むように沈んでいる。
それを見た瞬間、レオンの胸に、焼けつくような痛みが走った。
声を絞るように、頭を垂れた。
「……差し出がましい真似を、申し訳ございません。」
返答はなかった。
ただ、沈黙の奥で、何かが音を立てて崩れていく。
香炉の火がわずかに揺れ、燃え尽きた灰が静かに崩れた。
殿下は、机上の紙片を整えられる。
その指先の動作は機械のように静謐だった。
レオンは、その美しさに、祈るような絶望を覚えた。
やがて殿下は立ち上がり、窓辺に歩み寄られた。
重いカーテンをわずかに押し分けると、遠く帝都の塔の尖端が陽を受けて白く光った。
人々の営みの音が、遠い世界のことのように聞こえる。
その中に、もう“彼”の足音はない。
殿下はただ一度、目を閉じられた。
その長い睫毛がわずかに震え、息が落ちる。
まるで胸の奥に残る炎の名残を、静かに押し包むように。
その沈黙は、帝としての威厳を生み、同時に人としての温度を奪う。
そしてその姿こそ、帝に“ふさわしい”ものとなっていった。
*
季節は巡り、建国三百年の記念式典の日が訪れる。
帝都セレスティアの鐘が長く鳴り響き、
黄金の旗が風を受けて、荘厳に翻った。
陽光の中に立つ帝の姿は、神々しくも冷ややかであった。
その微笑の奥に、かつて燃え上がった痛みの名残を知る者は、
もうこの都には、ひとりとして残ってはいなかった。
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