帝は傾国の元帥を寵愛する

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2章

53話 命が尽きるまで

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 リュクスは、これまでのいつよりも深く眠っていた。
 夜明け前の静けさが部屋を満たしている。
 その目元に、一筋の涙の跡。
 激しい情事の名残として、身体が無意識に零したものだろう。

 ルーカスはそっと指を伸ばし、その痕を拭った。
 触れれば消えてしまうほど脆く、儚い。愛おしさが胸を締め付け、自然と呼吸が浅くなる。

(……ようやく、出会えた)

 角度を変えて眺めても、文句のつけようがないほど美しい顔だった。
 静かな寝息。穏やかな体温。
 それなのに、その身体には深い傷跡がいくつも刻まれている。  

 苺や菓子を差し出せば、まるで子犬のように目を輝かせて喜ぶくせに。
 こんなにも無垢で、こんなにも残酷な過去を抱えている。

 ルーカスは、リュクスの額にそっと唇を落とした。
 確信していた。
 自分は、この瞬間のために生きてきたのだと。

 ――リュクスに出会うために。

 これまでの人生で起きた、どんなに些細な出来事も、辛さも、悲しみも、恥辱にまみれた記憶も。
 今のルーカスは、それらすべてを許すことができた。

 なぜなら、そのどれか一つが欠けていたなら、この幸福には辿り着けなかったはずだから。

 リュクスと過ごし始めてから、何度も機会があったことは分かっていた。
 彼はいつも無防備で、隙だらけだった。力も弱く、本気で押し切れば、拒む術などなかっただろう。

 それでも、手を伸ばさなかった。
 理由は単純だった。

 ――怖かったのだ。

 軍での任務の記憶が、今もなお彼を縛っていた。
 任務が長期にわたると、前線の天幕には形式的な労いとして誰かがあてがわれる。
 時には、自分より遥かに年上の相手さえあった。

 二十歳そこそこで少将の地位を得た代償として、ルーカスはその理不尽を黙って飲み込んできた。  

 熟練の兵を相手に断れば角が立つ。
 仕方なく淡々と事を済ませるうちに、行為そのものへの興味は削ぎ落とされていった。

 終わった後に残るのは、虚脱感だけ。
 義務。空虚な手順。

 それだけではない。
 貴族社会のしきたりも、彼を疲弊させていた。

 令嬢たちは瞳を潤ませ、言葉巧みに誘ってくる。
 だが、いざとなれば「まだ……」と、貞淑を装う芝居を始める。
 欲を隠した、見え透いた演技。  

 そのたびに、またこの茶番か、と心の中で息を吐いた。
 ルーカスから言い寄ったわけでもないのに、その身体へと許しを請う立場を演じなければならない。

 不毛な行為の上には、何一つ心に残るものはなかった。

 だからこそ――
 リュクスに対して一線を越えることが、何よりも恐ろしかった。

 これほど愛しているのに、もしも彼との行為さえ「面倒だ」と感じてしまったら。
 義務の延長のように思ってしまったら。
 温もりを味わえず、空虚な繰り返しの果てに、冷えた自分を見つけてしまったら。

 想像するだけで、足がすくんだ。

 だが、いざその時が訪れると、懸念は影も形もなかった。
 義務感も、倦怠も、微塵もない。

 服を脱がせる指は熱を帯び、肌を重ねた瞬間、魂が震えた。
 切ないほど愛おしい反応。
 懸命に受け入れてくれる、その全て。

 長年抑え込んできた欲求が、堤を決壊させるように溢れ出した。
 自分の中の「雄」が、生きていると叫んでいた。

 リュクスの傷に触れ、その過去を引き受けた瞬間。
 凍りついていたルーカス自身の過去も、同時に救われていた。

 好きな人の前でなら、これほどまでに熱くなれる。
 夢中になれる。
 欲がある。

 ――生きている。  

 その確かな手応えを、初めて掴んだ。

 ルーカスはリュクスの髪に指を絡め、静かに息を吐く。

「……おやすみ、リュクス」

 この言葉を、何度でも。
 命が尽きるその日まで――
 この顔を見守り続ける。


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