帝は傾国の元帥を寵愛する

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4章

80話 雨雲

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皇后の邸宅は、静謐な空気に包まれていた。
セレスティア帝国、建国五家がひとつ、ヴァルトハイム家の現当主カーチャ・フォン・ヴァルトハイムは、夫でありヴァルター・フォン・ロゼンクロイツの兄であるアレクを伴い、その重厚な扉を潜った。
出迎えた老執事の足音さえも吸い込むような厚い絨毯の上を歩き、二人は双子の待つ部屋へと案内される。
そこには、皇帝ユリウス・フォン・エーレンベルクが静かに二人を待っていた。

「ユリウス陛下、この度はご子息のご誕生、心よりお慶び申し上げます。御目通りが叶いましたこと、光栄に存じます」
カーチャは完璧な礼をとり、先日届けられた出産祝いへの謝辞を告げた。  
ユリウスはわずかに表情を和らげ、応じる。
「いや、私が帝位に就いたばかりで政務に追われ、そちらの祝宴に足を運べなかった。不義理を許してほしい。折を見て、必ずこちらから顔を見に行こう」
「もったいなきお言葉にございます」  
  
二人の視線の先には、この世の贅を尽くしたベビーベッドが置かれていた。
象牙を削り出して作られた枠組みには、絡み合う薔薇と百合の彫刻が施され、その細部には銀の雫が散りばめられている。
天蓋からは、月の光を織り込んだかのような透き通る白銀のシルクが、霧のように幾重にも垂れ下がっていた。
微かな風に揺れるその布越しに見える幼子たちは、まるで宝石箱に収められた、触れれば壊れてしまいそうな芸術品のようだった。

「……まあ、なんて美しくて可愛いの!天使が舞い降りたようですわ」
カーチャは感嘆の溜息を漏らし、まだ薄い黒髪を持った赤子を覗き込んだ。
その瞼がゆっくりと持ち上がると、そこには吸い込まれるような深い緑の瞳が二つ、静かに輝いていた。
「この深い緑……まるで古き森の奥底を覗いているようです。ねえ、陛下!」
カーチャは一人を慈しむように抱き上げ、アレクもまた、もう一人をその大きな腕で慎重に抱いた。
「本当に……。ですが、お世辞にも陛下には似ておられない。この瞳の色といい……」
アレクがふと漏らした言葉に、カーチャの鋭い視線が突き刺さる。
ユリウスは自嘲気味に口角を上げ、静かに応じた。
「……は、お前だけだ、それを言ったのは。だが、事実だな」
その短い返答には、複雑な色が混じっていた。
「陛下。生まれたばかりの赤子とはそういうものですわ」
カーチャは凛とした眼差しでユリウスに告げる。
ユリウスはその視線の意味をはかり、頷いた。
「……あぁ」
やがて、カーチャは抱いていた子を静かにベッドへ戻すと、表情を当主のそれへと戻し、真剣な眼差しを向けた。
「陛下、こんな時に、ですけれど……。折を見て私の息子をヴァルター様にお見せしたいのです。……陛下は、あのお方の捜索をかけていらっしゃるのですか?」
ユリウスは窓の外、降りしきる雨の向こうを見つめた。
「いや……。あいつの去るという意思を尊重したかった。だから、あえて追手は出していない」
カーチャの瞳に一瞬の陰りが差すのを見逃さず、ユリウスは言葉を継ぐ。
「だが、貴女の願いは聞き届けた。軍には正式に伝えよう。丁度、隣国に遠征している部隊もいる。もしヴァルターを見かけたら、カーチャ様が探していると必ず伝えさせよう」
「ありがとうございます。……軍には、後ほど私共から支援金を送らせていただきます。レオン様にその旨、お伝えください」
「ああ、それはありがたい。配慮に感謝するよ」
カーチャは、政治の天秤を理解していた。
軍を動かすことの重さを金という実利で補う彼女のやり方は、貴族の中でも際立って合理的であり、それゆえにユリウスも彼女を信頼していた。
「でも本当に……食べちゃいたいくらい可愛いわ。次はぜひ、健やかな成長を祝う宴でお会いしましょう」
カーチャとアレクは、もう一度だけ赤ちゃんを優しく抱きしめ、持参した至宝の数々を並べ、産後の皇后を労わる言葉を残すと、二人は嵐の余韻が残る廊下へと静かに歩み出た。
重厚な扉が背後で閉まり、密やかな静寂が二人を包み込んだその時だ。
廊下の向こうから、微かな、しかし規則的な車輪の音が近づいてきた。
二人が足を止めると、豪奢な彫刻が施された移動椅子に身を預けた一人の男が、従者に押されて姿を現した。
「……座ったままで、失礼するよ」
静かに、だが芯の通った声が廊下に響く。
そこにいたのは、皇后の兄であり、建国五家の一翼を担う一族の当主だった。
彼は妹である皇后と同じく、夜の帳をそのまま写し取ったような漆黒の髪をしていた。
そして、ふとした拍子に上げられた長い睫毛の奥には、先ほどの幼子たちと同じ――いや、より深く、研ぎ澄まされた神秘的な緑の瞳が宿っている。
それは深い森の深淵を覗き込むような、静謐で圧倒的な色調だった。

「カーチャ殿。本日は足元の悪い中、ご足労いただき感謝する。……妹のため、そしてあの子たちのために、礼を言わせてほしい」
カーチャは即座に居住まいを正し、当主としての敬意を込めて深々と頭を下げた。
「滅相もございません。閣下、お体のお加減はいかがですか。こうしてお姿を拝見でき、安堵いたしましたわ」
「案ずることはない。ただ、この通り少々足腰が不自由なものでね。祝いの場に同席できず、申し訳なかった。……あの子たちの顔は、見てくれたかな?」
「ええ。吸い込まれるような美しい緑の瞳を持った、素晴らしいお世継ぎ様方でした」
カーチャの言葉に、彼はわずかに目元を和らげた。その深緑の瞳には、血族としての誇りと、どこか遠くを見つめるような静かな憂いが混ざり合っている。
「そうか。……あの瞳が、これからの帝国の光となることを願っているよ」
黒髪の当主は従者に短く合図を送り、再び静かに車椅子を動かさせた。
すれ違いざま、彼の纏う沈香のような落ち着いた香りが廊下をかすめる。
カーチャとアレクは、消え入りそうなほど繊細でありながら、確かな威厳を放つその背中を、見送った。

邸宅の重い扉が開くと、湿り気を帯びた夜の冷気が二人を包み込んだ。 
迎えの馬車が静かに歩を止める。 
カーチャは侍女が差し出した傘の下へ踏み出した。

「……厚い雨雲ね。早く止むといいけれど」

その呟きは、隣に立つ夫に向けられたものか、あるいは邸宅の中に残してきた幼き命への祈りか。
彼女の瞳に映る暗雲は、帝国の行く末を暗示するように低く垂れ込めている。

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