帝は傾国の元帥を寵愛する

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4章

81話 契約

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ユリウスは、椅子の背に深く身を預けたまま、静かに皇后を眺めていた。
それは罪を咎めるような視線でも、裁きを宣告するような峻烈な眼差しでもない。
ただ、盤上の駒の価値を検めるような、あまりにも事務的で冷徹な、計算の目だった。

「……契約の話をしよう」

穏やかに、しかし抗いがたい重みを持ってその声が響く。
「お前の生家、侯爵家には致命的な欠陥があった。
長男であり当主であるお前の兄は、身体が弱く、自力での歩行もままならない」
ユリウスは淡々と事実を積み上げていく。
そこには憐憫も嘲笑も混じらない。
「政略結婚は不可能。
外聞をどれほど取り繕ったところで、家を継ぐには致命的な瑕疵だ。」
「本来ならお前が婿を取るべきだったが、現実は無情だった。……誰が現れる?
誰が好んで、あのような“重荷”を背負い込もうとする」

皇后の肩が、見に見えて強張る。
ユリウスはそれを楽しむように、軽く吐息をついた。
「だからこそ私は、取引を持ちかけたのだ。
私の子を産む。
その見返りに、お前の家を侯爵家として存続させ、帝国が最高の形で血統を保証してやる、と」

金も、名誉も、そして無能な兄の事業への庇護も、すべては「好きでもない男の子を産む」という苦行への対価。
ユリウスにとっては、それすらも等価交換の端数に過ぎない。
「私は約束をすべて果たした。
家の名誉も、兄の命脈も。」

「……確認しておこう。
私とお前の間に、およそ夫婦らしい情愛の交歓などは存在しなかった。
それは契約の前提だ。
お前は、懐妊のための導管による注入処置に同意した。……そうだな?」

ユリウスは、まるで実験の工程を読み上げる学者のように言葉を継ぐ。

「私の精髄を専用の硝子導管に採取し、肉体の接触を介さず直接、お前の母胎へと精着させる処置。
それにより、間違いなくお前は懐妊に至った……。
ゆえに契約が成立し、婚姻に至った。
あの子らは私と、お前の契約の結晶であるはずだ」

「間違い……ありません」

皇后は、唇が青ざめ、身体中を震わせている。

ユリウスはそこで初めて、興味深そうに身を起こした。

「……だというのに、あの子らは、一切、私に似ていないな」

声は驚くほど穏やかだったが、その響きに皇后の呼吸が目に見えて乱れた。
「金の髪でもない。
瞳の色も、私の血を感じさせるところがどこにもない。
不思議だとは思わないか」
ユリウスはあえて気づかないふりをして、事実を並べる口調を崩さない。

「……まるでお前の兄を、そのまま写し取ったかのようだ」

その瞬間、聖域の空気は完全に凍りついた。
ユリウスは口元をわずかに歪ませ、椅子に深く腰掛け直して指を組む。
「血とは思いもよらぬ場所に顔を出すものだ。
偶然ということもあるだろう。
お前たちのの事情には本来関心はない。……ただ、少しばかり気になっただけだ」

柔らかな微笑みを湛えたまま、ユリウスは最後の一刺しを放つ。
「もし仮にだ。
もし仮に、私が今抱いている疑念が揺るぎない事実だったとして……お前は、自分たちがどうなると思う?」

問いかけは答えを求めていない。
否定すれば嘘、肯定すれば死。
その逃げ道のない沈黙の後、世にも恐ろしい笑みを浮かべた。

「……念のため、血統の確認を進める」



帝都の政務が止まることはない。
たとえ主君がどの深淵に身を沈めていようとも、筆頭書記官であるレオンの手元には、一刻を争う軍資運用の承認書類があった。

レオンは、幾重もの結界のような扉を抜け、帝専用の執務室である、主権室へと続く静謐な廊下を急いでいた。
この先を自らの意思で進めるのは、今この城中で自分ただ一人。
ユリウスから「何時であろうと緊急の際は入室せよ」と、全幅の信頼を込めて鍵(権限)を預けられている。

(陛下、失礼いたします。
この承認が遅れれば……)

そう心の中で唱え、最後の一枚、重厚な木彫りの扉に手をかけた時だった。
完全に閉まっているはずの扉が、わずかに、数ミリだけ浮いている。

そこから漏れ出してきたのは、冬の湖底のように冷たく、すべてを凍てつかせるユリウスの声だった。

『私は約束をすべて果たした。家の名誉も、兄の命脈も』

レオンの手が、ノブを掴んだまま硬直した。
本来なら、ノックをして入室すべきだ。
だが、その一歩を踏み出せば、自分は「皇帝の血統への疑念」という、国家を揺るがす特大の爆弾を共有することになる。

(……聴いてしまった)

背中を嫌な汗が伝う。
手の中にある書類には、数万の兵の命運がかかっている。
だが、扉の向こうで繰り広げられているのは、それ以上に重く、おぞましい「契約の精算」だ。

『偶然、ということもあるだろう……血とは、そういうものだ』

ユリウスの淡々とした、しかし逃げ場を塞ぐような声。
レオンは、自分が手に持っている「急ぎの書類」が、あまりにも卑小なものに感じられた。
同時に、この書類を口実に扉を開ける勇気など、今の自分には一欠片もないことを悟る。

もし今、入室してユリウスと目が合えば。
あの目が自分に向けられ、「お前はどう思う、レオン?」と問われたら。

(私は、立ち去らなければならない。
だが、この書類はどうする。……いや、今はそれどころではない)

レオンは呼吸を極限まで浅くし、扉の影に身を潜めた。
彼はただ、帝国の最も暗い秘密が、扉の隙間から自分の神経に注ぎ込まれるのを祈るような心地で耐え忍ぶしかなかった。

レオンは、主権室の前――許された者しか踏み入れぬ禁域から、静かに回廊へと身を引いた。



そうか。――そうだったのか。

来た道を戻りながら、胸の奥でいくつもの断片が静かに、そして残酷なほど完璧に噛み合った。
帝位に就く前、陛下が医務室に通っていたこと。
殺人的な会議の合間を縫って、何度も郊外へ足を運んでいたこと。
かつてはバラバラに見えていたそれらの記憶が、いま、一本の鮮烈な線となって結ばれていく。
それは、国のためでも、ましてやご自身のためですらなかった。

ただ、ある一人の方に、操を立てるため。
陛下はあの方に誇れる自分であるために、その身を削り、現皇后との契約を取り付けるために全力を尽くされたのだ。
だが、その血を吐くような想いの欠片すら、あの方にはついぞ届かなかった。
なぜだ。
なぜ、あのお二人はここまで深くすれ違ってしまったのか。

分厚い眼鏡の奥で、熱いものが溢れ出した。
主君のための涙と言えば、書記官としては聞こえがいい。
だがこれは、真実を理解してしまった者だけに許された、どうしようもない痛みだった。

静かに執務室に戻ると、扉を閉めた。
重厚な木扉が音もなく嵌まり、外界の気配が断ち切られる。
わずかな隙間風すら許さぬ、密やかな空間。
そこでようやく、背筋に張りつめていた理性が、ひと筋だけ緩む。

陛下。
私には、貴方様の両肩にのしかかる重責のすべてを測ることはできません。
その胸底に横たわる、凍てついた深淵を覗き込む資格もないのでしょう。
それでも――今、この瞬間だけは。
どうかお許しください。
貴方様のために、涙を落とすことを。
誰にも見せぬ、ただ一度の弱さとして。

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