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4章
82話 噂話
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天幕を叩く雨音は、未だ止む気配を見せない。
湿った風が吹き込む中、ソル軍の副将が地図台から顔を上げた。
「将軍、セレスティア軍はこの雨で足止めをくらっているようです」
「そうか……」
将軍は短く答えると、手元のマグカップに視線を落とした。
予定の刻限はとうに過ぎている。
ソル国は、軍事はそれほど強くはない。
実戦部隊の損耗は無視できないレベルに達していた。
金で買える武力があるなら安いものだ──上層部の判断で、隣国セレスティアへの派兵要請が決まったのが先月のことだ。
手持ち無沙汰な空気が天幕に漂う中、若い兵士が遠くの空を眺めながら口を開いた。
「しかし、セレスティアって国は……本当に軍人の地位が高いですよね」
到着しない援軍への苛立ちを紛らわすような、他愛ない雑談だった。
「噂じゃ、あっちの『正装』は軍装そのものだとか。高位貴族や要職者の礼装も、すべて軍服を原型とした意匠で統一されてるって聞きましたよ」
「ああ、だからか!」
別の兵士が膝を打つ。
「向こうのユリウス陛下の礼装も、いつも軍服アレンジですよね。それに、以前会談で見たヴァルター閣下も……なんていうか、格別にかっこよかったなぁ」
「セレスティアも、もともと軍人は使い捨てで、決してエリートではなかったんだ」
将軍が静かに語り始めた。
「この数年……特にあの、世にも美しいヴァルター閣下が名誉元帥に就いてからの五年だ。
セレスティア軍は質も、志願者数、兵の待遇も大きく変化した」
「待遇、ですか」
「ああ。兵を動かすには対価が発生する。セレスティアは、高度に訓練された軍事力を他国へ提供することで稼いでいるんだ。傭兵ビジネスの国家規模版と言ってもいい。
だからか、工業製品などはあまり得意ではない。技術開発に関しては、うちの方が進んでいる面もある」
「なるほど……。商品は『武力』そのものというわけですか」
「ああ、しぶとく、賢く、強い。奴らはかなりタフだよ」
「じゃあ、今回その『高価な商品』として派遣されてくるのは、どの隊なんです?」
若い兵士の問いに、副将は報告書の一文を読み上げた。
「ルーカス少将率いる、スローンズ隊だ」
「スローンズ……? 聞かない部隊名ですね」
「馬鹿、部隊名じゃない。彼自身の姓──ルーカス・スローンズのことだ」
「えっ……?」
兵士が目を丸くする。
「個人の姓を冠した部隊って……ルーカス将軍って、若かったはずですよね?百人規模の隊まで動かしてるんですか?!」
驚く兵士に、副将はニヤリと意味深な笑みを向けた。
「おいおい、驚くのはそこだけじゃないぞ。本人を見たことがあるが……長身だが線が細く、涼しげな目元。まるで深窓の令息だぞ」
「へえ、優男ってわけですか。それで隊長が務まるんですかね?」
「──そこが、セレスティアの軍人の恐ろしいところさ」
副将は声を潜め、まるで秘め事でも話すように続けた。
「ああいう手合いに限ってな、脱ぐとすごいんだよ。着痩せするタイプというか……無駄な肉が一切ない、鋼のような筋肉が軍服の下に隠されている……」
「うわ……そういう……!」
「実は以前、遠目だがヴァルター閣下の着替えを見たんだ……それが……」
兵士が生唾を飲む音が聞こえた気がした。
涼やかな美貌の下に、獣のような獰猛さと強靭な肉体を秘めている──そのギャップを想像したのか、天幕の空気が少しだけ熱を帯びる。
その様子に、将軍は口元を緩めて立ち上がった。
「はは、お前も精進しろよ。……さて、そろそろその『名門軍事貴族様』をお迎えする準備をするか」
天幕に緩やかな空気が流れた、その時だった。
「まだ到着していないのかな? 少将に挨拶しようと思ったのだけれど──」
鈴を転がすような、しかし絶対的な響きを持った声が、雨音を裂いて天幕内に響き渡った。
「「「!!?」」」
今の今まで下世話な話で盛り上がっていた兵士たちの顔色が、瞬時にして土気色へと変わる。
入り口に立っていたのは、豪奢な外套を羽織り、凛と佇む一人の女性。
雨に濡れた髪さえも宝石のように輝かせる、圧倒的な美貌。
ソル国の女帝が産んだ第一皇女、ナナ・エレオノーラその人であった。
「ナ、ナナ様ッ……!?」
ガタガタと椅子を蹴倒す音が響く。
将軍も、副将も、そして「脱いだらすごい」などと口にしていた兵士たちも、全員が弾かれたように直立し、次の瞬間には泥だらけの床に額を擦り付けていた。
「殿下! こ、このような前線へ何故!?」
将軍が裏返った声で問う。
天幕内の全員が青ざめ、震え上がっていた。まさか、皇族が──それも第一皇女が、護衛も従えずに兵卒の天幕に顔を出すなど、あり得ない事態だ。
ナナは兵士たちの狼狽ぶりを気にする様子もなく、優雅に小首を傾げた。
「セレスティアからの援軍……ルーカス・スローンズ少将に、一度ご挨拶しておきたくて」
その瞳は、まだ見ぬ異国の将への好奇心に輝いている。
兵士たちは生きた心地がしなかった。さっきまで彼を「脱いだらすごい」などと肴にしていたことが、もしこの高貴な皇女の耳に入ったら──。
「まだなのかな?」
「は、はいっ! 雨の影響で到着が遅れておりまして……!」
ナナはふっと溜息をつくと、天幕の入り口から雨に煙る街道を見つめた。
「ルーカス・スローンズ少将……早く会いたいな」
その口元に浮かんだ微笑みは、無邪気でありながら、どこか高貴なもの特有の残酷な美しさを帯びていた。
湿った風が吹き込む中、ソル軍の副将が地図台から顔を上げた。
「将軍、セレスティア軍はこの雨で足止めをくらっているようです」
「そうか……」
将軍は短く答えると、手元のマグカップに視線を落とした。
予定の刻限はとうに過ぎている。
ソル国は、軍事はそれほど強くはない。
実戦部隊の損耗は無視できないレベルに達していた。
金で買える武力があるなら安いものだ──上層部の判断で、隣国セレスティアへの派兵要請が決まったのが先月のことだ。
手持ち無沙汰な空気が天幕に漂う中、若い兵士が遠くの空を眺めながら口を開いた。
「しかし、セレスティアって国は……本当に軍人の地位が高いですよね」
到着しない援軍への苛立ちを紛らわすような、他愛ない雑談だった。
「噂じゃ、あっちの『正装』は軍装そのものだとか。高位貴族や要職者の礼装も、すべて軍服を原型とした意匠で統一されてるって聞きましたよ」
「ああ、だからか!」
別の兵士が膝を打つ。
「向こうのユリウス陛下の礼装も、いつも軍服アレンジですよね。それに、以前会談で見たヴァルター閣下も……なんていうか、格別にかっこよかったなぁ」
「セレスティアも、もともと軍人は使い捨てで、決してエリートではなかったんだ」
将軍が静かに語り始めた。
「この数年……特にあの、世にも美しいヴァルター閣下が名誉元帥に就いてからの五年だ。
セレスティア軍は質も、志願者数、兵の待遇も大きく変化した」
「待遇、ですか」
「ああ。兵を動かすには対価が発生する。セレスティアは、高度に訓練された軍事力を他国へ提供することで稼いでいるんだ。傭兵ビジネスの国家規模版と言ってもいい。
だからか、工業製品などはあまり得意ではない。技術開発に関しては、うちの方が進んでいる面もある」
「なるほど……。商品は『武力』そのものというわけですか」
「ああ、しぶとく、賢く、強い。奴らはかなりタフだよ」
「じゃあ、今回その『高価な商品』として派遣されてくるのは、どの隊なんです?」
若い兵士の問いに、副将は報告書の一文を読み上げた。
「ルーカス少将率いる、スローンズ隊だ」
「スローンズ……? 聞かない部隊名ですね」
「馬鹿、部隊名じゃない。彼自身の姓──ルーカス・スローンズのことだ」
「えっ……?」
兵士が目を丸くする。
「個人の姓を冠した部隊って……ルーカス将軍って、若かったはずですよね?百人規模の隊まで動かしてるんですか?!」
驚く兵士に、副将はニヤリと意味深な笑みを向けた。
「おいおい、驚くのはそこだけじゃないぞ。本人を見たことがあるが……長身だが線が細く、涼しげな目元。まるで深窓の令息だぞ」
「へえ、優男ってわけですか。それで隊長が務まるんですかね?」
「──そこが、セレスティアの軍人の恐ろしいところさ」
副将は声を潜め、まるで秘め事でも話すように続けた。
「ああいう手合いに限ってな、脱ぐとすごいんだよ。着痩せするタイプというか……無駄な肉が一切ない、鋼のような筋肉が軍服の下に隠されている……」
「うわ……そういう……!」
「実は以前、遠目だがヴァルター閣下の着替えを見たんだ……それが……」
兵士が生唾を飲む音が聞こえた気がした。
涼やかな美貌の下に、獣のような獰猛さと強靭な肉体を秘めている──そのギャップを想像したのか、天幕の空気が少しだけ熱を帯びる。
その様子に、将軍は口元を緩めて立ち上がった。
「はは、お前も精進しろよ。……さて、そろそろその『名門軍事貴族様』をお迎えする準備をするか」
天幕に緩やかな空気が流れた、その時だった。
「まだ到着していないのかな? 少将に挨拶しようと思ったのだけれど──」
鈴を転がすような、しかし絶対的な響きを持った声が、雨音を裂いて天幕内に響き渡った。
「「「!!?」」」
今の今まで下世話な話で盛り上がっていた兵士たちの顔色が、瞬時にして土気色へと変わる。
入り口に立っていたのは、豪奢な外套を羽織り、凛と佇む一人の女性。
雨に濡れた髪さえも宝石のように輝かせる、圧倒的な美貌。
ソル国の女帝が産んだ第一皇女、ナナ・エレオノーラその人であった。
「ナ、ナナ様ッ……!?」
ガタガタと椅子を蹴倒す音が響く。
将軍も、副将も、そして「脱いだらすごい」などと口にしていた兵士たちも、全員が弾かれたように直立し、次の瞬間には泥だらけの床に額を擦り付けていた。
「殿下! こ、このような前線へ何故!?」
将軍が裏返った声で問う。
天幕内の全員が青ざめ、震え上がっていた。まさか、皇族が──それも第一皇女が、護衛も従えずに兵卒の天幕に顔を出すなど、あり得ない事態だ。
ナナは兵士たちの狼狽ぶりを気にする様子もなく、優雅に小首を傾げた。
「セレスティアからの援軍……ルーカス・スローンズ少将に、一度ご挨拶しておきたくて」
その瞳は、まだ見ぬ異国の将への好奇心に輝いている。
兵士たちは生きた心地がしなかった。さっきまで彼を「脱いだらすごい」などと肴にしていたことが、もしこの高貴な皇女の耳に入ったら──。
「まだなのかな?」
「は、はいっ! 雨の影響で到着が遅れておりまして……!」
ナナはふっと溜息をつくと、天幕の入り口から雨に煙る街道を見つめた。
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