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4章
84話 ベルカ公国
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ソル国の副将は地図上の国境線をなぞる指に力を込め、吐き捨てるように言った。
「ベルカについて説明しましょう。……国土のほとんどが山岳地帯。一言で言えば、文明から取り残された小国です」
その横顔には、隠しようのない侮蔑が張り付いている。
「野蛮な軍、そして思慮に欠け、本能だけで動く王。現代において、対話よりも先に棍棒が飛んでくるような連中です」
「発展途上の国、と聞き及んでいますが」
ルーカスの傍らに立つ眼鏡の副官――ゼフェルが、冷静に問いを挟む。
「ええ。ですが、地続きの隣国として言わせてもらえば、あれはもっと質の悪いものです。……皮肉なことに、妙な特産品がありましてね。羊の放牧が盛んなあちらでは、そこから取れる糸を使った『刺繍』の技術は、目を疑うほどに美しい」
副将はそこで一度言葉を切り、声を潜めて付け加えた。
「……さらに、その刺繍の裏で密売されている『香』の原料。山の一部でしか採れない植物の根ですが、これがいけない。精神を弛緩させ、都合のいい夢を見せる薬物として、裏社会では高値で取引されている。奴らはそうした泥の中の小銭で、軍もどきを維持しているのですよ」
「刺繍、そして香、ですか」
復唱したゼフェルの声には、事務的な響きの裏に微かな毒が含まれていた。
「ええ」
副将はさらに地図の一点を、穴が開くほど強く叩いた。
「ですが、我々が頭を抱えているのは、それらではなく、山に眠る『鉱石』です。奴らはあの地形で、採掘技術を異常なほど発展させている。問題は、この曖昧な国境線上にある鉱山です。月ごとに採掘権を交代するという取り決めがあるのですが……」
「……守られていないと?」
ルーカスの静かな問いに、副将は深く頷いた。
「奴らは我々の採掘期間中であっても、『準備』と称して最新鋭の重機で乗り込んでくる。そして日付が変わる直前、こちらの撤退道を塞いでは、残った鉱石を根こそぎ掘り尽くしていくのです。もはや嫌がらせの域を超え、労働者たちは疲弊しきっている。さらに、高額な希少鉱石の報告義務も無視し、裏で売りさばいている疑いも濃厚です」
「看過できませんね」
ゼフェルが、眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細めて同意を示す。
「それだけではありません。注意喚起を行えば逆ギレして小競り合いを仕掛け、最近ではその辺のゴロツキに軍服を着せて『正規軍』を名乗らせる始末。奴らは、我々の労働者を直接脅し始めているのです」
「……穏やかじゃないな」
ルーカスが短く、だが重みのある言葉を零す。
「はい。我々ソルの正規軍が牽制に出れば、向こうも躍起になって噛みついてくる。……現代にあるまじき、知性の欠片もないやり取りですよ」
副将は天を仰ぎ、重い溜息をついた。国際法も、常識も、ベルカという牙城の前では無力だった。
「純粋な武力衝突なら、我が軍が圧倒できます。ですが、あちらは素人を数で集めた人海戦術。本気で仕掛ければ、それは戦争ではなく『虐殺』になる。奴らの狙いは、その混乱に乗じて一粒でも多くの鉱石を盗み出すこと……。戦勝の栄誉などより、目先の小銭を優先する卑しさに反吐が出ます」
説明を聞き終えたルーカスは、静かに地図を見下ろした。
その瞳には、呆れとも、冷徹な計算とも取れる光が静かに宿っていた。
「……承知した。では、まず『軍服を着ただけの連中』から捕らえよう」
傍らのゼフェルが、指先で眼鏡のブリッジを静かに押し上げ、優雅な微笑みを湛えて一言添えた。
「お任せ下さい。血を流さずに制圧する。それは、我が軍――いえ、我が少将の最も得意とする分野ですので」
ルーカスは剣技に秀でていた。だが、彼の本質はそこにはない。
盤上を俯瞰し、誰よりも高い視座で戦況を掌握する――かつて憧れたヴァルターのように。
若い頃は、剣を振るい敵をなぎ倒せば称賛された。
しかし、軍歴を重ねるほどに痛感する。個人の小手先の技だけでは、何も変えられないということを。
雨が小降りになったのを見計らい、ルーカスは馬を走らせた。
明日の進軍指示を出す前に、自らの目で地形を焼き付けておく必要がある。
高台から見下ろす鉱山の入り口は、夜半を過ぎても動きを止めていなかった。
投光器に照らされた土埃の中、副将の言葉通り、軍服をだらしなく着崩した男たちが火を囲い、たむろしているのが見える。
佇むルーカスの背後に、湿った草を踏みしめる足音が近づいた。
少し遅れて合流した副官ゼフェルが、馬を並べてその視線を追う。
「……まともな労働環境とは言えませんね。あんな怖い連中に囲まれては」
副官は探るように主の横顔を覗き込んだ。
「それで、少将閣下。何かいい案は浮かびましたか?」
「……三日もあれば、片が付く」
淡々としたルーカスの言葉に、ゼフェルは苦笑混じりの溜息をついた。
「おやおや、それは困ります。あんまり短期間で片付けてしまうと、契約期間のことで上から小言を言われますからね。まったく、最近の軍人は金の計算までしなければならない。世知辛いなぁ……」
副官ゼフェルは肩をすくめ、わざとらしくのんびりとした口調で続ける。
だが、彼もまたこの高台から、鉱山の地形と敵の配置を完璧に把握し終えているのだろう。
「まあ、二週間くらいかけて、じっくりとお仕置きしてあげましょう。……その方が、あちらの『王』とやらにも教育が行き届くというものです」
「……あぁ」
気のない返事をするルーカスに、ゼフェルはふと表情を和らげ、今度は逃げ場のない問いを投げかけた。
「……で、皇女殿下との約束はよろしいのですか?」
満面の笑み。だが、その瞳の奥には幼馴染としての鋭い観察眼が光っている。
「少しぐらいお愛想して、せめてこの地の極上の酒ぐらいは手土産に持ち帰ってくださいよ? もし無礼な真似をしてご機嫌を損ねでもしたら……」
延々と続く、人間関係の道理と処世術。
聞き飽きたはずの小言を背中で受け流しながら、ルーカスは静かに視線を帝都の方角へと向けた。
(土産、か)
どんよりとした雲の切れ間、遠く離れた場所にある離宮。
(……リュクス、待ってて)
今はただ、目の前の職務を完璧に、そして粛々と遂行するだけだ。
着実に手柄を積み上げ、誰にも文句を言わせぬ形で皇帝から彼を奪い返す。
その冷徹な決意だけが、ルーカスの胸の内で静かに、だが熱く燃えていた。
「ベルカについて説明しましょう。……国土のほとんどが山岳地帯。一言で言えば、文明から取り残された小国です」
その横顔には、隠しようのない侮蔑が張り付いている。
「野蛮な軍、そして思慮に欠け、本能だけで動く王。現代において、対話よりも先に棍棒が飛んでくるような連中です」
「発展途上の国、と聞き及んでいますが」
ルーカスの傍らに立つ眼鏡の副官――ゼフェルが、冷静に問いを挟む。
「ええ。ですが、地続きの隣国として言わせてもらえば、あれはもっと質の悪いものです。……皮肉なことに、妙な特産品がありましてね。羊の放牧が盛んなあちらでは、そこから取れる糸を使った『刺繍』の技術は、目を疑うほどに美しい」
副将はそこで一度言葉を切り、声を潜めて付け加えた。
「……さらに、その刺繍の裏で密売されている『香』の原料。山の一部でしか採れない植物の根ですが、これがいけない。精神を弛緩させ、都合のいい夢を見せる薬物として、裏社会では高値で取引されている。奴らはそうした泥の中の小銭で、軍もどきを維持しているのですよ」
「刺繍、そして香、ですか」
復唱したゼフェルの声には、事務的な響きの裏に微かな毒が含まれていた。
「ええ」
副将はさらに地図の一点を、穴が開くほど強く叩いた。
「ですが、我々が頭を抱えているのは、それらではなく、山に眠る『鉱石』です。奴らはあの地形で、採掘技術を異常なほど発展させている。問題は、この曖昧な国境線上にある鉱山です。月ごとに採掘権を交代するという取り決めがあるのですが……」
「……守られていないと?」
ルーカスの静かな問いに、副将は深く頷いた。
「奴らは我々の採掘期間中であっても、『準備』と称して最新鋭の重機で乗り込んでくる。そして日付が変わる直前、こちらの撤退道を塞いでは、残った鉱石を根こそぎ掘り尽くしていくのです。もはや嫌がらせの域を超え、労働者たちは疲弊しきっている。さらに、高額な希少鉱石の報告義務も無視し、裏で売りさばいている疑いも濃厚です」
「看過できませんね」
ゼフェルが、眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細めて同意を示す。
「それだけではありません。注意喚起を行えば逆ギレして小競り合いを仕掛け、最近ではその辺のゴロツキに軍服を着せて『正規軍』を名乗らせる始末。奴らは、我々の労働者を直接脅し始めているのです」
「……穏やかじゃないな」
ルーカスが短く、だが重みのある言葉を零す。
「はい。我々ソルの正規軍が牽制に出れば、向こうも躍起になって噛みついてくる。……現代にあるまじき、知性の欠片もないやり取りですよ」
副将は天を仰ぎ、重い溜息をついた。国際法も、常識も、ベルカという牙城の前では無力だった。
「純粋な武力衝突なら、我が軍が圧倒できます。ですが、あちらは素人を数で集めた人海戦術。本気で仕掛ければ、それは戦争ではなく『虐殺』になる。奴らの狙いは、その混乱に乗じて一粒でも多くの鉱石を盗み出すこと……。戦勝の栄誉などより、目先の小銭を優先する卑しさに反吐が出ます」
説明を聞き終えたルーカスは、静かに地図を見下ろした。
その瞳には、呆れとも、冷徹な計算とも取れる光が静かに宿っていた。
「……承知した。では、まず『軍服を着ただけの連中』から捕らえよう」
傍らのゼフェルが、指先で眼鏡のブリッジを静かに押し上げ、優雅な微笑みを湛えて一言添えた。
「お任せ下さい。血を流さずに制圧する。それは、我が軍――いえ、我が少将の最も得意とする分野ですので」
ルーカスは剣技に秀でていた。だが、彼の本質はそこにはない。
盤上を俯瞰し、誰よりも高い視座で戦況を掌握する――かつて憧れたヴァルターのように。
若い頃は、剣を振るい敵をなぎ倒せば称賛された。
しかし、軍歴を重ねるほどに痛感する。個人の小手先の技だけでは、何も変えられないということを。
雨が小降りになったのを見計らい、ルーカスは馬を走らせた。
明日の進軍指示を出す前に、自らの目で地形を焼き付けておく必要がある。
高台から見下ろす鉱山の入り口は、夜半を過ぎても動きを止めていなかった。
投光器に照らされた土埃の中、副将の言葉通り、軍服をだらしなく着崩した男たちが火を囲い、たむろしているのが見える。
佇むルーカスの背後に、湿った草を踏みしめる足音が近づいた。
少し遅れて合流した副官ゼフェルが、馬を並べてその視線を追う。
「……まともな労働環境とは言えませんね。あんな怖い連中に囲まれては」
副官は探るように主の横顔を覗き込んだ。
「それで、少将閣下。何かいい案は浮かびましたか?」
「……三日もあれば、片が付く」
淡々としたルーカスの言葉に、ゼフェルは苦笑混じりの溜息をついた。
「おやおや、それは困ります。あんまり短期間で片付けてしまうと、契約期間のことで上から小言を言われますからね。まったく、最近の軍人は金の計算までしなければならない。世知辛いなぁ……」
副官ゼフェルは肩をすくめ、わざとらしくのんびりとした口調で続ける。
だが、彼もまたこの高台から、鉱山の地形と敵の配置を完璧に把握し終えているのだろう。
「まあ、二週間くらいかけて、じっくりとお仕置きしてあげましょう。……その方が、あちらの『王』とやらにも教育が行き届くというものです」
「……あぁ」
気のない返事をするルーカスに、ゼフェルはふと表情を和らげ、今度は逃げ場のない問いを投げかけた。
「……で、皇女殿下との約束はよろしいのですか?」
満面の笑み。だが、その瞳の奥には幼馴染としての鋭い観察眼が光っている。
「少しぐらいお愛想して、せめてこの地の極上の酒ぐらいは手土産に持ち帰ってくださいよ? もし無礼な真似をしてご機嫌を損ねでもしたら……」
延々と続く、人間関係の道理と処世術。
聞き飽きたはずの小言を背中で受け流しながら、ルーカスは静かに視線を帝都の方角へと向けた。
(土産、か)
どんよりとした雲の切れ間、遠く離れた場所にある離宮。
(……リュクス、待ってて)
今はただ、目の前の職務を完璧に、そして粛々と遂行するだけだ。
着実に手柄を積み上げ、誰にも文句を言わせぬ形で皇帝から彼を奪い返す。
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