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4章
85話 緊張
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夜も深まりかけた王宮。
厚い絨毯は軍靴の音を無慈悲に吸い込み、壁画の金細工が燭台の炎を反射して鈍く光る。
逃げ場のない格式という名の圧力が、薄暗い廊下にまで満ちていた。
ルーカス達はその一室に通された。
奥の長椅子に、第一皇女であるナナ、その隣にはおそらく第二皇女・モモと思われる女性が座っている。
そしてルーカスの背後には、ルーカスの肩幅二倍ほどある部下が控えている。
面倒くさそうな場が嫌いなのは、副官ゼフェルも同じ。
口八丁で役目を押しつけられたのはその男だった。
扉が閉まった瞬間、その男――戦場では熊のように猛る巨漢の兵が、彫像のように固まった。
目は泳ぎ、不自然なほど直立不動。
至近距離に向けられた皇女たちの、戦場とは無縁の整った美しさに、彼の処理能力は限界を迎えていた。
「安心してください。公の場ではありません」
第一皇女、ナナが鈴を転がすように笑った。
部下はびくりと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして「は、はい!!」と声を裏返した。
促されてソファに腰を下ろす。
「スローンズ少将」
落ち着いたナナの声が室内に響く。
「今宵お呼びしたのは、このたびの遠征の礼と――少し、確認させていただきたいことがありまして」
「はい」
彼女はわずかに身を乗り出し、まっすぐにルーカスを見つめた。
「……貴方が独り身であるとお聞きしたのですが。その、お付き合いしているお相手などは……いらっしゃるのでしょうか」
ルーカスと部下、二人の軍人が予想外の質問に凍りついた。
少しの沈黙のあと、ルーカスは答える。
「――います」
背後で、部下が短く息を呑む音がした。
「まあ……左様でしたか。では、婚約などは?」
「……個人的に」
ナナの瞳が、わずかに細められた。
言葉の裏を読み取ろうとする、鋭い沈黙。彼女は聡い。
公にできない相手――すなわち、身分か立場に埋めがたい隔たりがあるのだと、即座に察したのだろう。
「そうですか。それなら良かった」
穏やかな声音。だが、次に続いた言葉は、重い鉛のように場に落ちた。
「実は、この妹のモモの相手に貴方が良いのではないかと……”母”が言い出しまして」
ルーカスの眉が、微かに動く。
先日、災害支援の折に女帝へ挨拶は済ませていた。
だが、あの時の冷徹な視線は、視察ではなく「選定」のものだったのか。
奥歯に力がこもる。これはもはや、個人の色恋で済む話ではない。
部屋の空気が、重く、鋭くなる。
「……光栄に存じます」
ルーカスはわずかに視線を伏せ、だがその声は一切揺らがない。
「ですが、相手がおりますので――お受けできません」
完全な拒絶に、背後で部下が(言った――!)という顔で硬直する。
モモは困惑したように瞬き、姉の顔を見た。
ナナは、微笑を崩さない。
「『出来ない』ではなく、『しない』のですね?」
「はい」
ナナはさらりと、残酷なまでの正論を重ねた。
「ですが、別れなくても良いではありませんか。貴族であれば、婚姻が感情のみで成り立たぬことはご存知でしょう。妹もそのぐらいはわきまえています。お妾として、その方の人生を保証して差し上げるというのはーー」
ルーカスは一切動かない。
ただ、底冷えのする視線だけがナナに向けられた。
ナナは楽しげに肩を揺らした。
「あはは、聞いた通りの堅物なのですね」
クスクスという笑い声を収め、彼女は目を細める。
「――ですが、ユリウス陛下は、何と仰るでしょうね?」
室内の温度が、目に見えぬまま氷点下まで落ちる。
この話題が単なる軽口ではないことを、部下も本能で理解した。
ルーカスは沈黙した。数秒の空白。それは言葉を選んでいるのではない。
踏み越えてはならない「一線」を測る時間。
その静寂を、部下の不用意な一言が切り裂いた。
「で、でも、ルー将軍。リュクスたんが目を覚ますかは分からないじゃないですか……」
ルーカスの視線が、音もなく部下へ落ちる。
戦場で敵に向けるものよりも、遥かに冷徹な殺気に近い視線。
「……っ、失言でした」
部下は即座に訂正したが、遅すぎた。
ナナはその一瞬の綻びを見逃さなかった。
「そのお相手は、リュクスさんと仰るのね。少将ほどの方をそこまで夢中にさせるのは、どれほどのお方なのかしら?」
追い詰められた部下は、今度は別の意味で固まった。逃げ場はない。
「ぁ……あー……」
観念したように頭を掻き、彼は絞り出すように口を開いた。
「それはもう、黙ってたら美形すぎるのに笑ったら愛嬌があって可愛くて、目に入れても痛くないような……、
……男です」
「……お、男!?」
モモが思わず高い声を上げ、ナナの目も見開かれた。
しかし、ルーカスは否定もしなければ、訂正もしなかった。
ただ、静かに問いを返す。
「……問題ありますか」
それが何か?とでも言いたげな、あまりに平坦な声が、逆に反論を許さなかった。
沈黙の後、ナナが再び声を上げて笑った。
「ルーカス・スローンズ少将、わかりました。今日は貴方に直接お話が聞けて良かったです」
彼女は立ち上がり、柔らかな表情に戻る。
「ですが、この任務中だけでも、少し考えてみてはいただけないかしら。本当に難しければ、私の方から母を止めますから」
「……!」
「ええ。私、本当は無理な政略結婚なんて、妹にさせたくないのです」
「姉さま……」
モモが姉の片腕にしがみつく。ナナはその頭を優しく撫でた。
「では、本日はご足労ありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね。宮殿の一室をセレスティアの兵士の方々のために開放しております。もう他の方に案内が済んでおります。休憩にお使い下さい」
*
夜風に吹かれ、天幕へと戻る道中。
長く降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
隣で肩幅の広い男が、ようやく肺の空気をすべて吐き出すように大きなため息をついた。
「緊張したぁーーー! 将軍、帰ったら酒飲みましょう! ほら、差し入れでこんな高級酒ももらったし!」
「……ん。……だな」
「ルー将軍? よかったじゃないですか、無理に話を進められないで。ナナ殿下って話が分かりそうじゃないですか?モモ様もとっても愛嬌があって、頬がぷにぷにしていて……」
「……」
「ま、今は明日からの任務のことを考えましょう!」
空元気のような、それでいて彼なりの気遣いを含んだ声を上げ、部下は仲間たちの待つ開放された一室へとルーカスを促した。
濡れた石畳に、月明かりが静かに落ちていた。
厚い絨毯は軍靴の音を無慈悲に吸い込み、壁画の金細工が燭台の炎を反射して鈍く光る。
逃げ場のない格式という名の圧力が、薄暗い廊下にまで満ちていた。
ルーカス達はその一室に通された。
奥の長椅子に、第一皇女であるナナ、その隣にはおそらく第二皇女・モモと思われる女性が座っている。
そしてルーカスの背後には、ルーカスの肩幅二倍ほどある部下が控えている。
面倒くさそうな場が嫌いなのは、副官ゼフェルも同じ。
口八丁で役目を押しつけられたのはその男だった。
扉が閉まった瞬間、その男――戦場では熊のように猛る巨漢の兵が、彫像のように固まった。
目は泳ぎ、不自然なほど直立不動。
至近距離に向けられた皇女たちの、戦場とは無縁の整った美しさに、彼の処理能力は限界を迎えていた。
「安心してください。公の場ではありません」
第一皇女、ナナが鈴を転がすように笑った。
部下はびくりと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして「は、はい!!」と声を裏返した。
促されてソファに腰を下ろす。
「スローンズ少将」
落ち着いたナナの声が室内に響く。
「今宵お呼びしたのは、このたびの遠征の礼と――少し、確認させていただきたいことがありまして」
「はい」
彼女はわずかに身を乗り出し、まっすぐにルーカスを見つめた。
「……貴方が独り身であるとお聞きしたのですが。その、お付き合いしているお相手などは……いらっしゃるのでしょうか」
ルーカスと部下、二人の軍人が予想外の質問に凍りついた。
少しの沈黙のあと、ルーカスは答える。
「――います」
背後で、部下が短く息を呑む音がした。
「まあ……左様でしたか。では、婚約などは?」
「……個人的に」
ナナの瞳が、わずかに細められた。
言葉の裏を読み取ろうとする、鋭い沈黙。彼女は聡い。
公にできない相手――すなわち、身分か立場に埋めがたい隔たりがあるのだと、即座に察したのだろう。
「そうですか。それなら良かった」
穏やかな声音。だが、次に続いた言葉は、重い鉛のように場に落ちた。
「実は、この妹のモモの相手に貴方が良いのではないかと……”母”が言い出しまして」
ルーカスの眉が、微かに動く。
先日、災害支援の折に女帝へ挨拶は済ませていた。
だが、あの時の冷徹な視線は、視察ではなく「選定」のものだったのか。
奥歯に力がこもる。これはもはや、個人の色恋で済む話ではない。
部屋の空気が、重く、鋭くなる。
「……光栄に存じます」
ルーカスはわずかに視線を伏せ、だがその声は一切揺らがない。
「ですが、相手がおりますので――お受けできません」
完全な拒絶に、背後で部下が(言った――!)という顔で硬直する。
モモは困惑したように瞬き、姉の顔を見た。
ナナは、微笑を崩さない。
「『出来ない』ではなく、『しない』のですね?」
「はい」
ナナはさらりと、残酷なまでの正論を重ねた。
「ですが、別れなくても良いではありませんか。貴族であれば、婚姻が感情のみで成り立たぬことはご存知でしょう。妹もそのぐらいはわきまえています。お妾として、その方の人生を保証して差し上げるというのはーー」
ルーカスは一切動かない。
ただ、底冷えのする視線だけがナナに向けられた。
ナナは楽しげに肩を揺らした。
「あはは、聞いた通りの堅物なのですね」
クスクスという笑い声を収め、彼女は目を細める。
「――ですが、ユリウス陛下は、何と仰るでしょうね?」
室内の温度が、目に見えぬまま氷点下まで落ちる。
この話題が単なる軽口ではないことを、部下も本能で理解した。
ルーカスは沈黙した。数秒の空白。それは言葉を選んでいるのではない。
踏み越えてはならない「一線」を測る時間。
その静寂を、部下の不用意な一言が切り裂いた。
「で、でも、ルー将軍。リュクスたんが目を覚ますかは分からないじゃないですか……」
ルーカスの視線が、音もなく部下へ落ちる。
戦場で敵に向けるものよりも、遥かに冷徹な殺気に近い視線。
「……っ、失言でした」
部下は即座に訂正したが、遅すぎた。
ナナはその一瞬の綻びを見逃さなかった。
「そのお相手は、リュクスさんと仰るのね。少将ほどの方をそこまで夢中にさせるのは、どれほどのお方なのかしら?」
追い詰められた部下は、今度は別の意味で固まった。逃げ場はない。
「ぁ……あー……」
観念したように頭を掻き、彼は絞り出すように口を開いた。
「それはもう、黙ってたら美形すぎるのに笑ったら愛嬌があって可愛くて、目に入れても痛くないような……、
……男です」
「……お、男!?」
モモが思わず高い声を上げ、ナナの目も見開かれた。
しかし、ルーカスは否定もしなければ、訂正もしなかった。
ただ、静かに問いを返す。
「……問題ありますか」
それが何か?とでも言いたげな、あまりに平坦な声が、逆に反論を許さなかった。
沈黙の後、ナナが再び声を上げて笑った。
「ルーカス・スローンズ少将、わかりました。今日は貴方に直接お話が聞けて良かったです」
彼女は立ち上がり、柔らかな表情に戻る。
「ですが、この任務中だけでも、少し考えてみてはいただけないかしら。本当に難しければ、私の方から母を止めますから」
「……!」
「ええ。私、本当は無理な政略結婚なんて、妹にさせたくないのです」
「姉さま……」
モモが姉の片腕にしがみつく。ナナはその頭を優しく撫でた。
「では、本日はご足労ありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね。宮殿の一室をセレスティアの兵士の方々のために開放しております。もう他の方に案内が済んでおります。休憩にお使い下さい」
*
夜風に吹かれ、天幕へと戻る道中。
長く降り続いていた雨は、いつの間にか止んでいた。
隣で肩幅の広い男が、ようやく肺の空気をすべて吐き出すように大きなため息をついた。
「緊張したぁーーー! 将軍、帰ったら酒飲みましょう! ほら、差し入れでこんな高級酒ももらったし!」
「……ん。……だな」
「ルー将軍? よかったじゃないですか、無理に話を進められないで。ナナ殿下って話が分かりそうじゃないですか?モモ様もとっても愛嬌があって、頬がぷにぷにしていて……」
「……」
「ま、今は明日からの任務のことを考えましょう!」
空元気のような、それでいて彼なりの気遣いを含んだ声を上げ、部下は仲間たちの待つ開放された一室へとルーカスを促した。
濡れた石畳に、月明かりが静かに落ちていた。
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