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4章
98話 ゼフェル・レーヴェ
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任務先へ戻ったルーカスを待っていたのは、制圧すべき場所をなくした、もはや通常の労働地帯であった。
ソル国と、ベルカ公国の国境の鉱山を巡る喧騒は、嘘のように引き潮となって消えていた。
「だいぶ遅かったですね? 特秘なんていうから何かと思いましたよ……」
本幕へ足を踏み入れるなり、ゼフェルの冷ややかな厭味が飛ぶ。ルーカスは短く「すまない」とだけ返し、ヴァルターとの邂逅を陛下に報告した旨を伝える。
「そんなのは早馬で良いじゃないですか。まったく、向こう見ずすぎる。馬で駆ける閣下を"走って"追いかけ始めた時は本当に石でも投げてやろうかと……」
長くなりそうな小言の気配を察し、ルーカスが音もなく後退りして帳を上げた、その時だった。
ソル国の伝令が現れ、二人は急遽ソル国の王宮へと召喚された。
◇◇
陽光が白磁の床に跳ね、規則正しい軍靴の音が回廊に響く。
「やれやれ。少将閣下ならまだしも、影に潜む私までお呼び出しとは……一体何の用でしょうね」
「さあ」
ゼフェルのぼやきを、ルーカスは無愛想に切り捨てた。
重厚な扉が開かれた先、日当たりの良い一室で待っていたのは、第一皇女ナナと、その傍らで指を忙しなく動かす第二皇女モモであった。
二人は即座に軍帽を脱ぎ、完璧な角度で最敬礼を捧げる。
「お気遣いなく……」
ナナが柔和な、だが拒絶を許さぬ王族の微笑みで制した。
「任務期間中にもかかわらず、急にお呼び立てして申し訳ありません」
姉の言葉の端々で、モモは頬を林檎のように染め、泳ぐ視線を扇子に固定しようと必死だ。ゼフェルはその様子を、眼鏡の奥の冷徹な瞳で観察していた。
「いいえ、いいえ。お目通り叶い、恐悦至極に存じます。私共でよろしければ、何なりとお申し付けください」
ゼフェルが浮かべたのは、非の打ち所がない貴族の微笑。ルーカスにとっては不吉な前兆でしかない「悪魔の微笑」だが、皇女たちの目には、それはあまりに魅力的な知性の光に映ったようだ。
「それは嬉しいですわ」
ナナは満足げに頷くと、本題を切り出した。
「実は、先日スローンズ少将へ打診いたしました、ご縁談の件なのですけれど」
ルーカスの顔色がわずかに曇る。嫌な予感が背筋を走る。
「……スローンズ少将にはお相手がいらっしゃるそうですし、方針を変えることにいたしましたの」
ナナは言葉を切り、隣で今にも消え入りそうな妹をそっと促した。
「実は、第二皇女であるモモが……ゼフェル・レーヴェ少佐。あなたとお近づきになりたいと言っているのです」
「……っ、あ、お姉様!! そんな直接……っ!」
モモの悲鳴のような叫びも、ナナは動じない。
「こういうことは、直接言った方がいいのよ。お相手がいらっしゃるかもしれないし……恥ずかしいことじゃないの」
ゼフェルの顔には、先ほどまでの「完璧に張り付いた笑み」が残っていた。
しかし、その表情は理解を超えた事態を処理しきれず、ゆっくりと、見たこともないような「間の抜けた驚き」へと変貌していく。
常にルーカスの影として他人の心理を操り、計算し尽くしてきた策士。その彼が、まさか自分が「獲物」として引きずり出されるとは、夢にも思わなかったのだろう。
ルーカスはその横顔を盗み見、喉元まで込み上げてくる笑いを必死で堪えた。
部下達の前で自分を組み伏せ、「見かけによらず重い」と毒を吐くような男が、今は女性の好意という不可解な攻撃を前に、完全に固まっている。
普段の仕返しと言わんばかりの優越感に浸りながら、ルーカスは平静を装った。
「……勝手に調べさせていただいたのですが」
ナナは優雅に、だが逃げ場を塞ぐように微笑みを深めた。
「ゼフェル様も貴族階級でいらっしゃって、まだ婚姻をされていないと聞き及んだのです。まだ公式なものではありませんけれど……うちのモモとの縁談は、悪いお話ではないと思いますが。あなたのお気持ちをお聞きしたいと思いまして」
「……ええと」
あの無敵の男の目が、泳いでいる。
ゼフェルは珍しく額に冷や汗を浮かべ、眼鏡のブリッジを何度も押し直した。指先の微かな震えを、ルーカスは見逃さない。
「ナナ殿下、本当に私で……お間違いありませんか? 私は未だ少佐。ルーカス少将には遠く及ばず、分不相応かと……」
必死に「自分は無価値だ」とアピールするゼフェル。しかし、ナナの調査網は鋭かった。
「あなたは決闘用剣技で名を馳せ、大陸に右に出る者はいないとか。それに、先の作戦……あれはあなたが考案なさったのでしょう? あなたの、その……非常に独自性の強い、怜悧な……戦略的深みがある作戦。私は、あなたのその冷静な目を、とても良いと思いましたの」
ナナは含みのある笑みを浮かべ、さらに畳みかける。
「そして。妹にいたっては、あなたのその……お姿に、一目惚れしてしまったようなのです」
「…………っ」
ゼフェルの思考回路が、音を立てて停止した。
大陸最高の剣技も、敵を窒息させる知略も、「純粋すぎる一目惚れ」という暴力の前では何の役にも立たない。
「姿、に……ですか」
気位の高い女のようにも見える中性的な顔。眼鏡、長身、軍規を無視した長い銀の髪。
本人が軍人らしくないと自嘲気味に評していたその風貌が、まさか皇女を射抜く矢になるとは。皮肉という他ない。
「ゼフェル少佐、沈黙は肯定と受け取ってもよろしいのかしら?」
ナナの容赦ない追い打ちに、ゼフェルは助けを求めるようにルーカスをチラリと見た。
だが、ルーカスは徹頭徹尾、無表情を装いながら、スッと視線を窓の外へ逸らした。
ソル国と、ベルカ公国の国境の鉱山を巡る喧騒は、嘘のように引き潮となって消えていた。
「だいぶ遅かったですね? 特秘なんていうから何かと思いましたよ……」
本幕へ足を踏み入れるなり、ゼフェルの冷ややかな厭味が飛ぶ。ルーカスは短く「すまない」とだけ返し、ヴァルターとの邂逅を陛下に報告した旨を伝える。
「そんなのは早馬で良いじゃないですか。まったく、向こう見ずすぎる。馬で駆ける閣下を"走って"追いかけ始めた時は本当に石でも投げてやろうかと……」
長くなりそうな小言の気配を察し、ルーカスが音もなく後退りして帳を上げた、その時だった。
ソル国の伝令が現れ、二人は急遽ソル国の王宮へと召喚された。
◇◇
陽光が白磁の床に跳ね、規則正しい軍靴の音が回廊に響く。
「やれやれ。少将閣下ならまだしも、影に潜む私までお呼び出しとは……一体何の用でしょうね」
「さあ」
ゼフェルのぼやきを、ルーカスは無愛想に切り捨てた。
重厚な扉が開かれた先、日当たりの良い一室で待っていたのは、第一皇女ナナと、その傍らで指を忙しなく動かす第二皇女モモであった。
二人は即座に軍帽を脱ぎ、完璧な角度で最敬礼を捧げる。
「お気遣いなく……」
ナナが柔和な、だが拒絶を許さぬ王族の微笑みで制した。
「任務期間中にもかかわらず、急にお呼び立てして申し訳ありません」
姉の言葉の端々で、モモは頬を林檎のように染め、泳ぐ視線を扇子に固定しようと必死だ。ゼフェルはその様子を、眼鏡の奥の冷徹な瞳で観察していた。
「いいえ、いいえ。お目通り叶い、恐悦至極に存じます。私共でよろしければ、何なりとお申し付けください」
ゼフェルが浮かべたのは、非の打ち所がない貴族の微笑。ルーカスにとっては不吉な前兆でしかない「悪魔の微笑」だが、皇女たちの目には、それはあまりに魅力的な知性の光に映ったようだ。
「それは嬉しいですわ」
ナナは満足げに頷くと、本題を切り出した。
「実は、先日スローンズ少将へ打診いたしました、ご縁談の件なのですけれど」
ルーカスの顔色がわずかに曇る。嫌な予感が背筋を走る。
「……スローンズ少将にはお相手がいらっしゃるそうですし、方針を変えることにいたしましたの」
ナナは言葉を切り、隣で今にも消え入りそうな妹をそっと促した。
「実は、第二皇女であるモモが……ゼフェル・レーヴェ少佐。あなたとお近づきになりたいと言っているのです」
「……っ、あ、お姉様!! そんな直接……っ!」
モモの悲鳴のような叫びも、ナナは動じない。
「こういうことは、直接言った方がいいのよ。お相手がいらっしゃるかもしれないし……恥ずかしいことじゃないの」
ゼフェルの顔には、先ほどまでの「完璧に張り付いた笑み」が残っていた。
しかし、その表情は理解を超えた事態を処理しきれず、ゆっくりと、見たこともないような「間の抜けた驚き」へと変貌していく。
常にルーカスの影として他人の心理を操り、計算し尽くしてきた策士。その彼が、まさか自分が「獲物」として引きずり出されるとは、夢にも思わなかったのだろう。
ルーカスはその横顔を盗み見、喉元まで込み上げてくる笑いを必死で堪えた。
部下達の前で自分を組み伏せ、「見かけによらず重い」と毒を吐くような男が、今は女性の好意という不可解な攻撃を前に、完全に固まっている。
普段の仕返しと言わんばかりの優越感に浸りながら、ルーカスは平静を装った。
「……勝手に調べさせていただいたのですが」
ナナは優雅に、だが逃げ場を塞ぐように微笑みを深めた。
「ゼフェル様も貴族階級でいらっしゃって、まだ婚姻をされていないと聞き及んだのです。まだ公式なものではありませんけれど……うちのモモとの縁談は、悪いお話ではないと思いますが。あなたのお気持ちをお聞きしたいと思いまして」
「……ええと」
あの無敵の男の目が、泳いでいる。
ゼフェルは珍しく額に冷や汗を浮かべ、眼鏡のブリッジを何度も押し直した。指先の微かな震えを、ルーカスは見逃さない。
「ナナ殿下、本当に私で……お間違いありませんか? 私は未だ少佐。ルーカス少将には遠く及ばず、分不相応かと……」
必死に「自分は無価値だ」とアピールするゼフェル。しかし、ナナの調査網は鋭かった。
「あなたは決闘用剣技で名を馳せ、大陸に右に出る者はいないとか。それに、先の作戦……あれはあなたが考案なさったのでしょう? あなたの、その……非常に独自性の強い、怜悧な……戦略的深みがある作戦。私は、あなたのその冷静な目を、とても良いと思いましたの」
ナナは含みのある笑みを浮かべ、さらに畳みかける。
「そして。妹にいたっては、あなたのその……お姿に、一目惚れしてしまったようなのです」
「…………っ」
ゼフェルの思考回路が、音を立てて停止した。
大陸最高の剣技も、敵を窒息させる知略も、「純粋すぎる一目惚れ」という暴力の前では何の役にも立たない。
「姿、に……ですか」
気位の高い女のようにも見える中性的な顔。眼鏡、長身、軍規を無視した長い銀の髪。
本人が軍人らしくないと自嘲気味に評していたその風貌が、まさか皇女を射抜く矢になるとは。皮肉という他ない。
「ゼフェル少佐、沈黙は肯定と受け取ってもよろしいのかしら?」
ナナの容赦ない追い打ちに、ゼフェルは助けを求めるようにルーカスをチラリと見た。
だが、ルーカスは徹頭徹尾、無表情を装いながら、スッと視線を窓の外へ逸らした。
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