『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第2話 家政学徒、借景の婚約者に任命される②

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 そろそろ、と近づいてみる。

 もう一歩。

 あと半歩。

 気づけば、顔を上げたときに、先生の肩が視界のすぐそこにあるくらいの距離になっていた。
 袖口が、触れそうで触れない。

「このくらいでしょうか」

 自分でも声が少し上ずっているのがわかる。

 先生は、じっと私を見下ろしたまま、ほんの一瞬だけ黙り込んだ。

 瞬き一つの間――なのに、やけに長く感じる沈黙。

「……そうですね」

 低く落ち着いた声が、耳元で落ちる。

「このくらいが、ちょうどいい距離かもしれません」

 その言葉と同時に、先生の手がすっと動いた。

 肩に、そっと添えられる。

 軽い重み。温かさ。
 それだけで、心臓の鼓動が一気に加速した。

「こ、これは……?」

「人前では、肩に手を置いたり、軽くエスコートしたりすることもあるでしょう。今のうちに慣れておいたほうがいい」

「な、慣れる……!」

 そんな簡単な言葉で済ませていいのだろうか、この状況。

 私の頭の中は、真っ白と真っ赤を行ったり来たりしていた。

 先生はと言えば、いつも通りに見えるが――よくよく見れば、耳の先がほんの少しだけ赤い気もする。

「もちろん、嫌であれば無理にする必要はありません。
 あくまで、君の安心を最優先にします」

「い、嫌じゃないです!」

 反射的に、強めの声が出た。

 先生の指が、肩の上でぴくりとわずかに動く。

「失礼でした……?」

「いえ、あのっ、そうじゃなくて。嫌じゃなくて……びっくりしただけで……。
 その、ちゃんと婚約者のふりをするなら、このくらいは、頑張らないと、って……」

 自分で何を言っているのか、よくわからなくなってくる。

 だけど、先生はふっと表情を緩めた。

「……そう言ってもらえると、助かります」

 肩に置かれていた手が、そっと離れる。
 その瞬間、身体から一気に何かが抜けて、ふらりとよろめきそうになった。

 あわてて姿勢を立て直しながら、私は息を整える。

「他には、どんなことをすればいいでしょうか」

「そうですね……」

 先生は指先を顎に当て、少しだけ考える仕草をした。

「今後、君には時々、学院長室に出入りしてもらう必要が出てくるかもしれません。
 その際、周囲には“婚約者が手伝いに来ているのだろう”と思わせたい」

「つまり、家政学科で習ったことを活かして、紅茶を淹れたり、お部屋を整えたりしていればいい、ということでしょうか」

「ええ。君は普段通りにしていて構いません。私もそのほうが、仕事が捗るでしょう」

 それを聞いて、胸が少し軽くなる。

 知らないことばかりで不安だったけれど、慣れている仕事なら、私にもできる。

「あと、細かい点では……」

 先生は、机の引き出しから小さなメモ帳を取り出した。

 ぱらぱらとめくると、そこにはすでにいくつか箇条書きがしてある。

『・人前であまり距離を空けすぎない
 ・婚約者としての最低限のスキンシップ(手、腕)
 ・噂に対して否定しすぎない(“そう見えるでしょうか?”などでかわす)
 ・婚約解消の噂は流さない
 ・疲れた顔をしていたら、休憩を促す(※重要)』

「最後のは、完全に先生の希望ですよね?」

「よくわかりましたね」

 あっさり認められて、思わず笑ってしまう。

 そんな私を見て、先生も少しだけ肩の力を抜いたように見えた。

「……君が笑うと、数字の話も少し軽く見えますね」

「え?」

「いえ。こちらの話です」

 さらりと流される。

 でも、“疲れた顔をしていたら休憩を促す”という項目に、先生の人柄がにじんでいる気がして、胸が少しあたたかくなった。

「フェンネル嬢」

「はい」

「これは、互いにとって“借り物”の関係です。
 しかし、借り物だからといって、粗末に扱うつもりはありません」

 真っ直ぐな眼差し。

「君がここを“借りている景色”だと言ったように、私も、君の時間や将来を“預かっている大切なもの”として扱いたい」

 その言葉に、喉の奥がきゅっとなる。

 仮の婚約だ。
 いつかは、きちんとお返ししなければならない関係。

 だけど――

「……じゃあ、私も」

 気づけば、口が勝手に動いていた。

「先生の“借景の婚約者”でいる間は、先生のことをちゃんと綺麗に見えるように、整えられたらいいなって思います」

「私を?」

「はい。数字とかお仕事で大変なんだと思うので……。
 私にできることは限られているかもしれないですけど、ネクタイをまっすぐにしたり、部屋を片付けたり、お茶を淹れたり。
 借景って、よそ様の景色を借りて自分の庭を整えるものですけど。
 先生の隣にいる間だけは、私も“先生の庭”の一部として、恥ずかしくないようにしたいなって」

 言い終えた途端、顔から火が出そうになった。

(なに言ってるの、私……!)

 穴があったら入りたい、とはこのことだ。

 だけど、先生は、すぐには何も言わなかった。
 視線をわずかに伏せ、ほんの一瞬、目を閉じる。

 静かな沈黙。

 やがて――

「……フェンネル嬢」

 私の名前を呼ぶ声が、さっきよりも、少しだけ柔らかかった。

「その言葉は、この契約の“最重要条項”として、私のほうで覚えておきましょう」

「えっ」

「文面には書ききれない、大事な約束ですから」

 眼鏡の奥の瞳が、穏やかに細められる。

 その瞬間、胸のどこかが、ぽうっと灯った。

「それでは――最後に、もう一つ」

「まだあるんですか?」

「とても重要な確認事項です」

 先生は、わざとらしく咳払いをした。

「仮婚約とはいえ、君と私が人前で並び立つことによって、君に向けられる視線が増える可能性があります。
 羨望、好奇心、中には妬みもあるかもしれない」

「う……」

 考えたことのなかった方向からの話に、思わず小さくうめき声が漏れる。

「しかし、それでもなお、“借景の婚約者”でいたいと思いますか」

 まっすぐな問い。

 私は、ぎゅっと両手を握りしめた。

 怖くないと言えば、嘘になる。

 でも――

「……はい」

 はっきりと、答える。

「ここが好きなので。
 この学院に来られたことが、私の宝物なので。
 もし、その宝物を守るために、私が借景として役に立てるなら……やってみたいです」

 怖さよりも、嬉しさのほうが、ほんの少しだけ勝っている。

 先生は、しばらく私を見つめていた。
 やがて、小さく息を吐き、口元に、かすかな笑みを刻む。

「――了解しました」

 その一言が、胸の奥に、そっと落ちる。

「ではこれより、フェンネル嬢を、王立レーヴァンス学院・学院長代理セドリック・アーデンの“借景の婚約者”として任命します」

 儀式のような宣言。

「どうぞ、よろしくお願いしますね。――リラ」

 初めて呼ばれた、下の名前。

 耳の奥までじんわりと熱くなるのを感じながら、私は慌てて頭を下げた。

「よ、よろしくお願いします、セドリック様!」

 ぴたり、と名前が喉に引っかかる。

 言い慣れないその音に、先生がわずかに目を細めた。

「……その呼び方には、当面、慣れが必要そうですね」

「はい……精一杯、練習します……!」

「では、その“練習”も兼ねて。――最初の課題です」

「課題?」

 首をかしげる私に、先生はさらりと言った。

「次の週末に開かれる、寄付者向けの小さなお茶会があります。
 そこで、君には私の婚約者として、初お披露目をしてもらうことになる」

「は、初お披露目……!」

 第一歩にしては、ずいぶんと大股だ。

 でも、もう「はい」と言ってしまったのだ。
 ここで引き返すわけにはいかない。

「大丈夫ですよ」

 私の不安を見透かしたように、先生が言う。

「君は、普段通りに笑っていてくれればいい。
 あとは私が、君をきちんと“見せ方”ごと守ります」

 その言葉は、とても頼もしくて。
 同時に、少しだけ胸がきゅっとなるような、くすぐったさも含んでいた。

 “見せ方ごと守る”。

 それはきっと、策士である先生にとっては、ごく自然な言葉なのだろう。

 だけど――

(……見せ方だけじゃなくて、もし、私のことも守ってくれたらいいな)

 そんな図々しい願いが、胸のどこかにふんわりと浮かんだことは、まだ誰にも言わないでおこうと思った。

 紅茶の香りの中で交わした、仮の約束。

 “借景の婚約者”としての日々が、この日から静かに、でも確かに――動き始めたのだった。
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