『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第3話 過保護スイッチ、誤作動中

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 仮の婚約契約を交わしてから、数日が経った。

 そのあいだ、私の生活は、目に見えて忙しくなった。

 朝はいつも通り、家政学科の授業。
 昼は調理実習や洗濯、掃除の演習。
 放課後には、奨学生としての資料整理の手伝いに加えて――

「フェンネル嬢、こちらの書類のファイリングもお願いしていいですか」

「はい、アーデン先生……じゃなくて、セドリック様」

 学院長室での“婚約者としてのお手伝い”が、ぽつぽつと増えていた。

 書類を科目ごとに分けたり、棚を整理したり、紅茶を淹れたり。

 そんなに大変な内容ではない。
 むしろ、誰かの役に立てている実感があって、私は嬉しかった。

 ……のだけれど。

(ちょっと、眠いかも)

 ある日の午後、家政学科の調理実習室で、私は立て続けにあくびを噛み殺していた。

 今日の課題は「寄付者向けお茶会を想定したフィンガーフード」。
 来週末のお茶会を見据えて、家政学科の先生が特別に組んでくれた授業だ。

「リラ、マッシュポテトもうできた?」

「うん、あと少しで――」

 鍋をかき混ぜながら答えたとき、視界の端が一瞬だけ揺れた。

(あれ?)

 おかしい、と思った瞬間には、もう身体の力がふっと抜けていた。

 熱々のマッシュポテトを、鍋ごと落としてしまう――そんな最悪の未来図が頭をよぎった、そのとき。

「リラ!」

 鋭い声が飛んできた。

 次の瞬間、鍋がすっと私の手から離れていく。

 代わりに、誰かの腕が、私の肩と腰をしっかりと支えた。

「熱いものを持っているときに、倒れるのは危険です」

「セ、セドリック様……?」

 驚いて顔を上げると、そこには見慣れた黒髪と銀縁眼鏡。

 実習室の入口に立っていたはずの学院長代理は、信じられない速さで駆け寄ってきていたらしい。

 鍋は、先生が受け取ってくれている。

「アーデン先生? どうされました、こんなところまで」

「家政学科の準備状況を確認しに来たのですが……それよりも」

 先生が、私を覗き込む。

 視界の端がまだ、少しふわふわしていた。

「顔色が良くありませんね、フェン……――リラ」

 名前を言い直すとき、ほんの一瞬だけ躊躇が混じる。

 それでも、その声色は妙に低くて、心配が混ざっていて。
 私の胸のあたりが、きゅっとなる。

「だ、大丈夫です。ちょっと寝不足で……」

「昨夜は何時まで起きていたんです?」

「えっと……お茶会のためのお菓子案を考えていたら、いつのまにか……」

「いつのまにか?」

「……日付が変わってました」

 自分で言っていて、だいぶダメな気がする。

 先生の眉間に、深い皺が刻まれた。

「リラ」

 名前を呼ぶ声が、さっきよりもさらに低くなる。

「契約書、覚えていますか」

「け、契約書?」

「“疲れた顔をしていたら、休憩を促す(※重要)”。――でしたね」

 あ。

「い、いつもよりちょっと眠いくらいで、大丈夫です……!」

「眠いくらい、で済まない状態だから、顔色が悪くなっているんです」

 淡々とした口調なのに、なぜか背筋が伸びる。

 それに、先生の腕の力が思ったよりもしっかりしていて、逃げ場がない。

「すみません、フェンネル嬢をしばらくお借りしてもよろしいですか」

 先生が、家政学科の担当教官に向けてそう言った。

「ええ、もちろん。こちらでも少し気になっていたところです。実習の仕上げは、ほかの生徒に任せましょう」

「ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げるその姿は、いつもの冷静な学院長代理そのもの――のはずなのに。

 次の瞬間、先生は、何の予告もなく私の身体をひょいっと持ち上げた。

「えっ……⁉」

 視界が急に高くなる。

 顔のすぐ横で、先生の肩。
 身体を支える腕は、しっかりと安定していて――

「お、おろしてください! 歩けますから!」

「先ほどまで立っていたのか、どうかも怪しい状態でしたが?」

「よろけてただけです!」

「その“よろけ”が危険なのだと、先ほど言いましたね」

 すべて理屈で返されてしまう。

 調理台の向こう側から、同級生たちのひそひそ声が聞こえた。

「リラ、すご……」「お姫さまだっこ……」「先生の婚約者って、リラだったんだ……?」

(や、やめてください、そういう想像と噂が加速するような視線!)

 心の中で全力でツッコミを入れながらも、現実にはどうすることもできない。
 私はただ、先生の肩にしがみつくような形で、保健室へと連れて行かれるしかなかった。

 ――学院の廊下を、お姫さまだっこで。

(人生でこんな日が来るなんて、思ってなかった……)

 なんだか、いろんな意味で体温が上がる。

 耳まで真っ赤になっている自覚があったが、先生のほうはというと、いつもより歩幅が少しだけ早いこと以外は、ほとんど表情を変えなかった。

 でも、腕の力は、少し強めだ。

 まるで、何かから守るみたいに。

     ◇

「熱は、微熱ですね。無理をしなければ、すぐに落ち着くと思いますよ」

 保健室のベッドの上に寝かされてから、しばらく。

 巡回中だった医務官の先生に診てもらった結果は、「軽い疲れと寝不足」。

 私は恥ずかしさで身を縮めながら、「すみません」と何度も謝った。

「謝ることではありませんよ。よくあることです。――ただし」

 医務官の先生は、ちらりとアーデン先生のほうを見た。

「無理をさせないように。あなたのほうが、責任重大ですね、学院長代理殿」

「肝に銘じます」

 保健室の扉が閉まり、医務官が去っていく。

 静かな空間に、先生と私だけが残された。

「……ごめんなさい」

 なんだかいたたまれなくて、ベッドの上で小さくなる。

「せっかく、お茶会の準備を見に来てくださったのに。私が倒れそうになんて……」

「倒れられるよりは、前に来られてよかったですよ」

 先生は、窓際の椅子をこちらに引き寄せて、私の横に腰を下ろした。

「本来なら、ここまで来る前に気づくべきでしたね。君の顔色が優れないことに」

「そんな、先生は悪くないです。私が勝手に夜ふかししたからで……」

「夜ふかしの理由は、何でしたか」

 問われて、言葉に詰まる。

 嘘をついてもきっと見抜かれる、と思ったので、正直に言うしかない。

「……たのしくて」

「楽しくて?」

「はい。お茶会のメニューを考えているうちに、あれもこれも、って。
 寄付者の方に喜んでもらえるように、見た目とか味のバランスとか、みんなで話し合って……。
 気づいたら、朝になりかけてました」

 思い出すと、ちょっと頬が緩む。

 たしかに眠かったけれど、それ以上に、仲間と一緒に考える時間が楽しかったのだ。

「……楽しいからこそ、休むタイミングを見失う。困ったことですね」

 先生は、軽くため息をついた。

「えへへ、すみません」

「君に謝られてしまうと、私の立場がなくなりますね」

 そう言いながらも、声色はそこまで怒ってはいない。

 私は、ベッドの上で身体を起こしかけ――

「起き上がってはいけません」

 すぐに制止された。

「せめてあと三十分は横になっていなさい。体力の回復には、横になって目を閉じるだけでも効果があります」

「で、でも、授業が……」

「家政学科の先生には私から話してあります。今日は午後の実習は免除です」

「そ、そんな、そこまで……!」

「“借景の婚約者”が、お茶会本番でふらふらしていたら、目も当てられないでしょう」

「うっ」

 たしかに。

 お茶会当日に倒れたら――仮婚約の約束どころか、学院の印象まで悪くなってしまう。

「……じゃあ、三十分だけ」

「一時間です」

「三十分」

「一時間」

 即座に返される。完全に、大人と子どもの押し問答だ。

 結局、先生の目が本気だったので、私は折れざるを得なかった。

「……じゃあ、四十五分でどうですか」

「交渉の余地があるなら、最初からそうしましょう」

 くすっと笑って、先生は懐中時計を取り出す。

「では、四十五分後に起こします。その間、仕事をしますので、安心して休んでください」

 そう言って、ベッドの横の小さな机に、数枚の書類を広げた。

 さらさらとペンが走る音が、静かな保健室に規則正しく響く。

 なんだか、妙に落ち着く音だった。
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