『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第3話 過保護スイッチ、誤作動中②

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(……こんなに近くで、仕事してるところ見るの、初めてかも)

 学院長室では、少し離れたソファから見ることが多かったので、横顔の輪郭や、ペンの動かし方まではよく見えていなかった。

 今は、手の甲の筋、指の動き、眉の動きまでが、はっきりと見える。

(なんか、かっこいいな……)

 そんなことを思った瞬間、自分で自分にダメ出しした。

(いやいや、なに見惚れてるの、私!)

 慌てて視線を天井に逃す。

 だけど、耳には、カサカサと紙の音と、時々鳴るペン先の小さな音。

 まるで、子守歌みたいだ。

「目を閉じたほうが、休まりますよ」

 ふいに声をかけられ、びくりと肩が揺れた。

「え、あ、はい。そうします」

 言われた通り、目を閉じる。

 瞼の裏に、さっきの実習室の光景が浮かんだ。

 鍋が傾きかけた瞬間に伸びてきた手。
 迷いなく、私ごと受け止めてくれた腕。

(……助けてもらっちゃったな)

 少し悔しい。
 でも、それ以上に、安心した。

 こんなふうに、誰かに支えられることに。

「……先生」

 半分眠気に包まれながら、つい口を開く。

「なんでしょう」

「さっき……その、抱きかかえてくれたの。人に見られてたと思うんですけど……」

「ええ。実習室の生徒たちが、なかなかに熱心な視線を向けていましたね」

「やっぱり……」

 こめかみがじん、と熱くなる。

「ご迷惑じゃなかったですか? 変な噂が立ったら、先生の評価に……」

「噂が立ったほうが、むしろ好都合です」

 あまりにも即答で、目を開けそうになる。

「噂は、印象を定着させる最も手っ取り早い手段ですから。
 “学院長代理には婚約者がいるらしい”という情報が、自然に広まっていくでしょう」

「……つまり」

「契約の第二条、“印象を定着させること”。非常に効率的に達成できました」

 淡々と言われて、なんだか悔しいような、安心するような、複雑な気持ちになる。

「でも、それならなおさら……私じゃなくてもよかったんじゃないかなって、たまに思います」

 胸の中にあった小さなとげが、ついこぼれ落ちる。

「もっと、綺麗で、社交も上手で、貴族の方のほうが……」

「リラ」

 名前を呼ぶ声が、すっと重なった。

「その話は、また今度、君が起きているときに、落ち着いてしましょう」

「い、今はだめですか……」

「今は、“休憩時間”です。契約の履行中ですから」

 さらりと返されてしまう。

 でも、どうしてだろう。

(“また今度、落ち着いてしましょう”って……嫌じゃない感じがする)

 ちゃんと向き合ってくれる予告みたいで、少しだけ心が軽くなった。

「それに」

 続く言葉は、思いのほか、短かった。

「私が君を選んだのは、理由があってのことです」

「……理由」

「ええ。……それも、“今度”ですね」

 そこで話を切られてしまう。

 ずるい。

 でも、その「ずるさ」が、なぜか少しだけくすぐったかった。

     ◇

 どのくらい時間が経ったのか、よくわからない。

 気づけば、保健室の空気が、さっきよりも少しだけ夕方の匂いになっていた。

「……おはようございます」

 微睡みの中で、そんな間の抜けた挨拶をしてしまう。

「おはようございます、ではないですね。――“おかえりなさい”のほうが近いかもしれません」

 耳元で、くすりと笑う声がした。

 目を開けると、懐中時計を片手にした先生が、椅子に座ったままこちらを見ていた。

「四十五分、きっちり眠っていましたよ」

「ほんとですか」

「ええ。途中で書類が一枚、君の顔の上に落ちましたが、それでも起きませんでした」

「な、なんてことを……!」

「すみません、私も多少は疲れているのです」

 冗談めかした声に、思わず笑ってしまう。

 身体を起こそうとして、ふと気づいた。

 先生が、私の頭の上に、たたまれたジャケットを敷いてくれていたことに。

(……枕代わり?)

 驚いてジャケットを持ち上げると、先生が視線をそらした。

「保健室の枕の高さが合わないようだったので。……少しでも寝やすいように」

「うれしいですけど……セドリック様、寒くなかったですか?」

「仕事をしていると、むしろ少し暑いくらいなので、問題ありません」

 さらりと言いながらも、シャツの袖を軽くまくっている腕には、うっすらと鳥肌が立っている気がする。

 やっぱり、ちょっとだけ寒かったんだと思う。

(……やさしいな)

 胸の奥がじん、と温かくなる。

「ありがとうございます」

 素直に頭を下げると、先生は軽く咳払いをした。

「気にしないでください。私にとっても、君が元気でいてくれたほうが、計算が立てやすいので」

「計算……」

「ええ。“借景の婚約者”が倒れるリスクを減らせば、学院全体への悪影響も減らせますからね」

 相変わらず、全部を理屈で説明しようとする。

 けれど、その言葉の裏側に、さっきのジャケット枕があるのだと思うと、なんだかんだで嬉しい。

「セドリック様」

「なんでしょう」

「あの……」

 言いかけて、少し迷う。

 でも、さっきからずっと気になっていたことを、やっぱり確かめておきたくなった。

「これって、やっぱり……」

「?」

「婚約者だから、なんですか?」

 私が倒れかけたとき、すぐに抱きとめてくれたこと。
 廊下をお姫さまだっこで運んでくれたこと。
 ジャケットを枕にしてくれたこと。

 それって全部、「婚約者のふり」の範囲内なのか、それとも――。

 先生は、一瞬だけ、言葉をなくしたように見えた。

 視線をほんの少しだけ泳がせてから、眼鏡の位置を整える。

「……そうですね」

 ゆっくりと、言葉を選ぶように。

「婚約者“だから”というのも、一つの理由です」

「一つの?」

「もう一つは」

 そこで、ほんの少しだけ口調がぶっきらぼうになる。

「君が、私の契約相手だからです」

「契約相手……?」

「そうです。私が提案し、君が頷いた。
 だから私は、君に対して責任を持つ義務がある。
 その義務を果たすうえで、あのくらいの過保護は、誤差の範囲です」

「ご、誤差……」

 どうやら、先生の中ではお姫さまだっこは“誤差”らしい。

「……もしかして、過保護になってきた自覚は、ちょっとありますか?」

 恐る恐る尋ねると、先生は少しだけ目を細めた。

「さあ、どうでしょうね」

 言葉とは裏腹に、耳の先がほんのり赤い。

 それを見て、なんだかおかしくなってしまう。

 策士で、冷静で、全部計算で動く人が。
 私ひとりのことで、ちょっとだけ“誤作動”を起こしているみたいで。

「じゃあ、その……」

 胸の奥が、くすぐったくて、温かくて。
 私は、そっと笑った。

「これからも、誤差の範囲で、よろしくお願いします」

「誤差の範囲で、とは妙なお願いですね」

 先生も、少しだけ笑った。

「ですが――そうですね。
 君が、無理をしすぎない範囲であれば。誤差を、少しだけ広げておきましょう」

「ひろげ……」

 過保護の許容量を、勝手に増やそうとしていないだろうか、この人は。

 そんなツッコミを心の中でしつつも、私はうなずいた。

「はい。じゃあ、その代わり……」

「代わり?」

「セドリック様も、あまり無理しないでくださいね」

 それは、さっきからずっと言いたかったことだった。

「私ばかり休んでいたら、なんだか申し訳ないので。
 疲れたときは、ちゃんと休憩してください。“疲れた顔をしていたら、休憩を促す”条文、先生にも適用したいです」

 言うと、先生はほんの一瞬だけ言葉を失ったように見えた。

「……契約書に、そんなことは書いていませんでしたが」

「さっき、追加したいって思いました」

 にっこり笑うと、先生は深くため息をつく。

「君は契約書を、すぐに感情で改訂しようとしますね」

「ダメですか?」

「いいえ」

 小さく首を振る。

「――むしろ、助かります」

 その一言に、胸がぽっと熱くなった。

 過保護スイッチは、きっと、先生の中で少しずつ誤作動を起こし始めている。

 でもきっと、私のほうも――

(……先生のこと、ちょっとだけ“守りたい”って思うくらいには、誤作動してきてるかも)

 そんなことをぼんやり考えながら、私はベッドの上で静かに伸びをした。

 窓の外の光は、柔らかな夕方色。

 借景の婚約者としての毎日は、少しずつ、でも着実に――予定外の方向へと、色を変えはじめていた。
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