『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第4話 嫉妬は計画書にない

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 それは、とてもささやかな、午後のひと幕のはずだった。

「はい、これ。よかったら味見、お願いできる?」

 家政学科の準備室で、私は焼き上がったばかりのクッキーを小皿に並べながら、声をかけた。

 相手は、同じ奨学生仲間のひとり、ルーク。

 数少ない男子学生の一人で、理学科所属。
 無口だけれど、甘いものが好きで、家政学科が作ったお菓子の感想を、いつも真面目に伝えてくれる。

「今日のは、レモンピールを入れてみたの。寄付者向けのお茶会用に、すっきりした口当たりのものもほしくて」

「……いいのか? 試作品とはいえ、タダで」

「タダじゃないよ。ちゃんと、感想というお代をいただいてますので」

 そう言って笑うと、ルークは少しだけ目を丸くした。

 そして、照れくさそうに視線をそらしながら、クッキーを一枚つまむ。

 さくり、と小気味よい音。

「……うまい」

「ほんと? よかった!」

「でも……もう少しだけ、塩を増やしてみても、いいかもしれない。レモンのほろ苦さが、もっと引き立つと思う」

「塩か……なるほど!」

 真面目な感想がもらえるのは、いつも本当に助かる。

 私は胸の前で手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。

「ありがとう。やっぱり助かるなあ、ルーク」

「……別に。俺も、うまいもん食えるから、得してる」

 ぶっきらぼうな返事のわりに、耳が少し赤くなっているのを見て、思わず笑ってしまう。

 そんな他愛もないやりとりをしている、そのとき。

「――楽しそうですね」

 背後から、低い声が降ってきた。

 びくり、と肩が跳ねる。

 振り返ると、準備室の扉のところに立っていたのは、黒髪に銀縁眼鏡の、見慣れた人影。

「セ、セドリック様……!」

「アーデン先生」

 私とルークの声が重なった。

 先生は、とても穏やかな微笑みを浮かべていた。
 いつも通りの、礼儀正しく整った学院長代理の顔――なのに。

(……なんか、ちょっと怖い気がするのは、気のせい?)

 笑っているのに笑っていないような、そんな空気を、ほんの少しだけ感じてしまう。

「これは、何の集まりですか」

「あの、えっと。お茶会用のクッキーの試作品を焼いたので、ルークに味見してもらっていたんです」

 私が慌てて説明すると、先生は視線をルークへと移した。

「ルーク・バレン君ですね。理学科二年、奨学生」

「は、はい」

 ルークは背筋を伸ばし、きちんと頭を下げる。

 先生はその様子をじっと観察してから、小さくうなずいた。

「家政学科のお菓子の味見係を務めていると、事務室の記録にありました」

(記録されてたの!?)

 思わず心の中で叫びそうになる。

 どうやら学院長代理の目は、見えないところにも届いているらしい。

「えっと、ルークには、前からちょこちょこ味見をお願いしていて。
 甘いものが好きだし、感想がいつも的確で、助かってるんです」

 フォローを入れると、先生はゆっくりと頷いた。

「なるほど。――“助かっている”」

 その単語だけ、微妙に重ねて繰り返したのは気のせいだろうか。

 準備室の空気が、なんとなくぴんと張り詰めたように感じる。

「君」

 先生が、ルークに視線を向けた。

「味はどうでしたか」

「え……あ、はい。とても、美味しかったです。レモンとバターの香りがよくて。ただ、少し塩を足したら、もっと味が締まると思いました」

「塩」

「はい。レモンの苦味が、より際立つかと」

「そうですか」

 先生は短く返事をし、私のほうをちらりと見る。

「君はどう思いますか、リラ」

「えっ、わ、私は……そう聞いて、なるほどって思いました。
 自分では気づかないバランスってあるので、やっぱり外の舌に頼るの大事だなって……」

「外の舌」

 先生の眼鏡が、きらりと光る。

 なぜだろう。さっきから単語の拾い方がいちいち鋭い。

「お茶会は、寄付者の方々の舌を満足させる必要がありますからね。参考になる意見は、確かにありがたい」

「ですよね」

 ほっとしたのも束の間。

「――ただし」

 先生の声が、ほんの少しだけ低くなる。

「味見を頼む相手は、慎重に選ぶべきです」

「えっ」

 思わずルークを見ると、彼も目を丸くしていた。

「どういう意味ですか」

「君の時間は、学院にとっても貴重な資源ですからね」

 先生は、なぜか私にではなく、ルークのほうを見ながら続けた。

「家政学科の試作品に付き合う分、理学科の勉強の時間が削られているとしたら――本末転倒でしょう」

「い、いえ。俺は、自分の勉強はちゃんと……」

「それなら安心しました」

 言葉とは裏腹に、まったく安心していなさそうな微笑みだった。

 準備室の空気が、さらにぴりっとする。

(え、なにこの空気……?)

 私は慌てて、皿を両手で持ち上げた。

「セドリック様も、よかったら一枚どうぞ! まだ焼きたてなんですけど……」

「私も?」

「はい。婚約者として、お茶会の味にも責任を持っていただきたいので!」

 そう言って差し出すと、先生はほんのわずかに眉を上げた。

「……婚約者として、ですか」

「はい!」

 強めに頷くと、先生は小さく息を吐いた。

「……なるほど。そこまで言われては、断る理由がありませんね」

 指先で一枚、クッキーをつまむ。

 さく、と噛む音が、やけに大きく聞こえた。

 先生はゆっくりと咀嚼し、味を確かめるように瞼を伏せてから――静かに言った。

「悪くありませんね」

「ほ、ほんとですか……!」

「ええ。口当たりも軽く、後味も爽やかです。――塩を、あとひとつまみ増やしましょう」

「先生も、塩派……!」

 思わず、ルークと顔を見合わせてしまう。

 彼も少し驚いたように目を丸くしていた。

「……どうやら、意見が一致したようですね」

 先生は冷静にそうまとめると、私のほうへ視線を戻した。

「では、君は塩を増やして、再度焼いてみてください。
 そのときの味見は、私が受け持ちます」

「え?」

「君の婚約者ですからね。君が作ったものの最終確認は、私がするべきでしょう」

 さらりと言われて、胸のあたりが一瞬ふわっと熱くなる。

「……ルークの舌は、先生の前段階チェック用ということで」

 小声で付け足すと、先生は聞こえなかったふりをした。

 ルークはというと、何とも言えない顔でこちらを見ていたが、やがて小さく肩をすくめた。

「じゃあ、俺は、たまに余りをもらえればいいよ」

「ありがとう、ルーク」

 そう言って、いつものように笑いかけた――その瞬間。

 先生の視線が、すっと私とルークの間を往復したのを、私は見逃さなかった。

 眼鏡越しの瞳が、ほんの一瞬だけ、きらりと危うい色に光った気がした。

(……え、今のなに?)

 首をかしげる私の横で、先生はいつも通りに微笑んでいた。

「では、私は次の授業の準備がありますので。――また、学院長室でお会いしましょう、リラ」

「あ、はい。あとで、お茶をお持ちしますね」

「楽しみにしています」

 扉が閉まる。

 その後ろ姿を見送ったあと、私は思わずルークに尋ねた。

「ねえ、今の、なんか変じゃなかった?」

「変、というか……」

 ルークは、珍しく言葉を選ぶような間を置いた。

「すごく……“俺のだぞ”って顔をしてた」

「え?」

「いや、気のせいかもしれないけど」

 そう言って、彼は肩をすくめた。

 私には、よくわからなかった。

 ただ、セドリック様の「婚約者ですからね」という言葉だけが、耳の奥で少し長く響いていた。
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