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第4話 嫉妬は計画書にない②
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夕方。
私は約束通り、塩をひとつまみ増やしたクッキーを焼き、ティーセットと一緒に学院長室へ運んだ。
「失礼します。お茶と、お菓子をお持ちしました」
ノックして入ると、先生は机の上に書類を広げていた。
見慣れた光景――のはずなのに、さっきの準備室での一幕が頭に残っていて、少しだけ緊張する。
「お疲れさまです。……それが、先ほどの改良版ですか」
「はい。塩を少し増やしました」
私はワゴンを机の端まで押し、ティーカップを置き、ポットから紅茶を注いでいく。
湯気の向こうで、先生の視線が、じっと私の手元を追っていた。
(……いつもより、視線が熱い気が)
気のせいだよね、と自分に言い聞かせつつ、カップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
先生は紅茶を一口含んでから、クッキーをつまんだ。
さく。
表情はほとんど変わらない。
でも、よく見ると目元が少し和らいでいるような気がした。
「……なるほど。塩の加減が、ちょうどよくなりましたね。後味に残るレモンの苦味が、紅茶とよく合います」
「ほんとですか!」
ぱあっと視界が明るくなった感覚がした。
褒められたのが嬉しくて、思わず身を乗り出してしまう。
「ルークの言った通りにしてよかった……」
その名前を口にした瞬間。
先生の指が、かすかに止まった。
「ルークの」
「あ、その……最初に塩のこと言ってくれたの、ルークだったので。
“レモンの苦味が引き立つ”って。やっぱりちゃんと、わかってたんだなあって」
素直な感想を口にすると、先生はしばし黙り込んだ。
机の上のクッキーを見つめたまま、何かを計算するように視線を曇らせる。
「……そうですか」
静かな声。
そのあとで、眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
「では、彼の舌は信用に値すると認めましょう」
「うん。ルークは、いつも正直に言ってくれるから、助かってます」
「――ただし」
先生は視線をこちらに戻す。
「今後、“最終チェック”は私が担当します」
「最終チェック?」
「ええ。“リラの作ったものは、婚約者である私が最後に味を見る”。
そのほうが、周囲にもわかりやすく“関係性”を示せるでしょう」
さらりと、とんでもないことを言う。
「関係性……って、婚約者としての、ですか」
「そうです」
「でも、ルークにも味見してもらうのは、だめですか?」
「彼に頼むこと自体を禁止するつもりはありません。
ただし――」
先生は、紅茶のカップをソーサーに戻し、指を組んだ。
「君が誰かに“助かっている”と言うとき、その相手は、慎重に選んだほうがいい」
「え?」
「君の“助かっている”という言葉は、おそらく、本人が思っている以上に価値があるので」
静かな言葉なのに、妙に胸に響いた。
「わ、私の言葉なんて、そんな……」
「あります」
即答だった。
私が戸惑っていると、先生は少しだけ息を吐く。
「それに、君はどうやら、自分に向けられている好意や興味に鈍感なようですからね」
「へ?」
「さきほどの準備室での様子から見て、そう判断しました」
準備室。
ルークにクッキーを差し出していた場面が、頭に蘇る。
「……見てたんですか?」
「最初から、というわけではありませんが」
先生は軽く咳払いをした。
「君が“ルーク、ありがとう。やっぱり助かるなあ”と言ったときの、彼の顔を見ました」
「ルークの顔?」
「ええ。――君の言葉を、とても大切そうに受け取っていた」
その説明だけで、何となく情景が浮かんでしまって、胸が少しくすぐったくなる。
「……そんなふうに見えました?」
「職業柄、人の表情や反応を観察するのは得意ですので」
淡々と告げられる。
そして、少し間を置いてから、ぽつりと付け足した。
「……見過ごしたくなかったのかもしれません」
「? なにを、ですか?」
尋ねると、先生は目を伏せた。
眼鏡のレンズが光を反射し、一瞬、瞳の色が読み取れなくなる。
「――嫉妬を」
「……えっ」
あまりに予想外の単語に、思考が止まった。
「今、なんて……」
「いや。忘れてください」
先生は即座にかぶせた。
でも、もう聞いてしまった。
嫉妬。
その言葉を、セドリック様の口から聞く日が来るなんて、思ってもみなかった。
「し、嫉妬って……セドリック様が?」
「聞き返さないでください」
「だって……」
「私の計画書には、“嫉妬”という項目は存在しないので」
苦々しげな表情で、先生は眉間を押さえた。
「“婚約者を立てることで、寄付者の不安を軽減する”――そこまでは、想定通りでした」
「はい」
「“学院内に自然な噂が流れることで、印象が定着する”――これも、想定の範囲内です」
「うん」
「しかし、“味見をしている男子学生に対して、講義中に質問を多めに投げてしまいたくなる”――これは、想定外です」
「えっ」
今、大事なことをさらっと言わなかっただろうか。
「講義中に、って……」
「本日の理学科の合同講義で、つい、彼を多めに指名してしまいました」
先生は、ほとんど自嘲気味に笑った。
「自分でも不可解な行動でしたが……今にして思えば、あれは嫉妬だったのでしょうね」
「し、嫉妬……」
口の中で、そっと繰り返す。
先生のイメージと、あまりにもかけ離れた単語だ。
「私の婚約者が作ったものを、当然のように受け取っている相手を見ると――少し、胸のあたりがざわつくようです」
「……」
「理屈ではないので、非常に扱いに困ります。計画書に書き足すわけにもいかない」
眉間の皺を押さえる仕草が、いつになく人間らしくて。
私は、どきどきしながらも、ふと笑ってしまった。
「……変でしょうか」
「いえ。全然」
首を振る。
「でも、なんだかちょっとだけ、嬉しいです」
「……嬉しい?」
「はい」
自分の言葉に、自分で驚きながらも、正直な気持ちがこぼれた。
「だって、セドリック様、いつもなんでも計画通りって感じだから。
少しだけ、“計画書にないこと”で困っている姿を見られたの、なんか……うまく言えないですけど、安心しました」
「安心」
「はい。人間らしい、っていうか……」
言いながら、慌てて両手をぶんぶん振る。
「あっ、いえ、その、今まで人間らしくなかったって言いたいわけじゃなくて! えっと、その、うーんと――」
「落ち着いてください」
先生が苦笑する。
「君らしい、感想ですね」
その声が、さっきまでよりも少し柔らかくなっているのに気づいて、胸があたたかくなる。
「……そういうわけで」
先生は、わざとらしく咳払いをした。
「今後、君が誰かに試作品を渡すときは、事前に私にも一言知らせてください」
「え?」
「“誰に何を渡したか”を把握していれば、私のほうの感情の制御もしやすくなるでしょう」
「感情の、制御……」
「ええ。計画書には書けませんが、自分なりに方法を考えてみます」
真面目な顔でそんなことを言われてしまうと、笑っていいのか、真剣に受け止めるべきなのか、わからなくなる。
でも――
「じゃあ、これから試作品を渡すときは、ちゃんと報告しますね」
「お願いします」
先生は頷いたあと、ふと表情を和らげた。
「……ただし」
「まだ条件が?」
「“誰に渡したか”だけでなく、“どう言って渡したか”も気になりますので」
「ど、どう言って……?」
「例えば、“助かるなあ”と微笑みながら渡した相手と、“よろしくお願いします”と礼儀正しく渡した相手では、意味合いが違いますからね」
言われて、顔が一気に熱くなる。
「そ、そこまで細かく……!」
「細かくなってしまうのが、嫉妬という現象の厄介なところのようです」
先生は、自分でも持て余しているような顔で言った。
でも、その目の奥には、どこか諦めにも似た静かな色がある。
「……本当は、嫉妬などという感情に振り回されるのは、避けたいのですが」
「はい」
「君が関わることとなると、どうもそうもいかないようで」
さらりと告げられた一言に、胸の奥が、きゅっと鳴った。
言葉の意味をすぐにはうまく飲み込めなくて、ただ、鼓動が早くなる。
「あ、あの……」
何か返したくて口を開くけれど、適切な言葉が見つからない。
そんな私を見て、先生はふっと微笑んだ。
「安心してください。感情に振り回されるとはいえ、君の負担になるようなことはしません」
「負担……?」
「私の嫉妬によって、君の行動を不当に縛るつもりはない、という意味です」
淡々とした宣言。
「君が誰にお菓子を渡そうと、誰に笑いかけようと――君の自由です」
「……本当に?」
「ええ」
少し間を置いてから、静かに付け足す。
「ただし、そのどれにも、“君には婚約者がいる”という前提が、きちんと伝わるようにしておきたいだけです」
その言い方が、なんだかずるい。
自由を尊重しているようでいて、しっかりと自分の場所を確保しているみたいで。
胸の奥で、何かがとくりと跳ねた。
「……じゃあ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「その、“婚約者がいる”っていうのをちゃんと伝えるために……何をしたらいいですか?」
「何を、ですか」
「はい。私、さっきルークにクッキー渡したとき、普通に“ありがとう、助かる”って言っちゃったから。
もし、それが誤解を招く言い方だったなら……婚約者として、ちゃんとした“見せ方”を覚えたほうがいいのかなって」
私なりに真面目に考えての質問だった。
先生は少しだけ目を見開き、それから、ゆっくりと視線を伏せた。
机の上のクッキー皿を見つめながら、指先でそっと縁をなぞる。
「……そうですね」
少し考えるような間。
「一つ、簡単な方法があります」
「なんでしょう」
「――君が、同じくらいの笑顔で、私にも“助かる”と言ってくれればいい」
「え?」
あまりにも予想外の提案に、声が裏返る。
「君が誰かに“助かるなあ”と言うとき、その言葉が特別なのだと、私は思っている。
ならば、その特別さを、私にも分けてほしいというだけの話です」
「わ、私の……?」
「ええ。今後、君が誰かにそう言った日は、その日の終わりに、私にも一度、言ってくれませんか」
さらっと、とんでもないお願いをされている気がする。
「でも、それって……ずるくないですか?」
「ずるいですね」
あっさり認められた。
「しかし、嫉妬というのは、そもそもずるい感情でしょう。
どうせなら、できるだけ穏やかな形で扱いたいのです」
先生の言い分は、理屈としてはよくわからないようでいて、どこか頷きたくなる妙な説得力がある。
私はしばらく考え込んだあとで、そっと笑った。
「……じゃあ、今日のぶんから」
「今日のぶん?」
「はい。今日、ルークに“助かる”って言っちゃったので。
その、ちゃんと伝えておかないと、不公平かなって」
そう言って、先生のほうへ一歩近づく。
机を挟んで向かい合う形で、目を合わせる。
先生の瞳が、すっと私を捉えた。
胸の鼓動が、ひとつ跳ねる。
「セドリック様」
名前を呼ぶ。
「……なんでしょう」
わずかに緊張を含んだ声。
私は、できるだけ素直な気持ちを込めて、言った。
「いつも、ありがとうございます。
助かってます。――とても、助かってます」
一瞬、時間が止まったような気がした。
先生の瞳が、ふっと揺れる。
眼鏡の奥の視線が、少しだけ泳いで、それから私へと戻ってくる。
「……そうですか」
低い声が、胸の奥に落ちた。
「それは……光栄ですね」
いつもより少しだけ掠れたような声。
先生は眼鏡を外し、指先で目頭を押さえた。
「……やはり、強力な言葉です、“助かる”というのは」
「え?」
「嫉妬の熱も、少し冷ましてくれるようです」
そう言って、静かに笑う。
その笑顔は、とても人間らしくて、やわらかくて――どこか、少しだけ、子どものようにも見えた。
「ありがとうございます、リラ」
改めて名前を呼ばれて、今度は私のほうが胸をどきんと鳴らす番だった。
嫉妬は、計画書にない。
でも、その“計画外”の感情が、少しずつ、私たちの距離を変えていっているのだと――なんとなく、そんな予感がした。
私は約束通り、塩をひとつまみ増やしたクッキーを焼き、ティーセットと一緒に学院長室へ運んだ。
「失礼します。お茶と、お菓子をお持ちしました」
ノックして入ると、先生は机の上に書類を広げていた。
見慣れた光景――のはずなのに、さっきの準備室での一幕が頭に残っていて、少しだけ緊張する。
「お疲れさまです。……それが、先ほどの改良版ですか」
「はい。塩を少し増やしました」
私はワゴンを机の端まで押し、ティーカップを置き、ポットから紅茶を注いでいく。
湯気の向こうで、先生の視線が、じっと私の手元を追っていた。
(……いつもより、視線が熱い気が)
気のせいだよね、と自分に言い聞かせつつ、カップを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
先生は紅茶を一口含んでから、クッキーをつまんだ。
さく。
表情はほとんど変わらない。
でも、よく見ると目元が少し和らいでいるような気がした。
「……なるほど。塩の加減が、ちょうどよくなりましたね。後味に残るレモンの苦味が、紅茶とよく合います」
「ほんとですか!」
ぱあっと視界が明るくなった感覚がした。
褒められたのが嬉しくて、思わず身を乗り出してしまう。
「ルークの言った通りにしてよかった……」
その名前を口にした瞬間。
先生の指が、かすかに止まった。
「ルークの」
「あ、その……最初に塩のこと言ってくれたの、ルークだったので。
“レモンの苦味が引き立つ”って。やっぱりちゃんと、わかってたんだなあって」
素直な感想を口にすると、先生はしばし黙り込んだ。
机の上のクッキーを見つめたまま、何かを計算するように視線を曇らせる。
「……そうですか」
静かな声。
そのあとで、眼鏡のブリッジを指で押し上げる。
「では、彼の舌は信用に値すると認めましょう」
「うん。ルークは、いつも正直に言ってくれるから、助かってます」
「――ただし」
先生は視線をこちらに戻す。
「今後、“最終チェック”は私が担当します」
「最終チェック?」
「ええ。“リラの作ったものは、婚約者である私が最後に味を見る”。
そのほうが、周囲にもわかりやすく“関係性”を示せるでしょう」
さらりと、とんでもないことを言う。
「関係性……って、婚約者としての、ですか」
「そうです」
「でも、ルークにも味見してもらうのは、だめですか?」
「彼に頼むこと自体を禁止するつもりはありません。
ただし――」
先生は、紅茶のカップをソーサーに戻し、指を組んだ。
「君が誰かに“助かっている”と言うとき、その相手は、慎重に選んだほうがいい」
「え?」
「君の“助かっている”という言葉は、おそらく、本人が思っている以上に価値があるので」
静かな言葉なのに、妙に胸に響いた。
「わ、私の言葉なんて、そんな……」
「あります」
即答だった。
私が戸惑っていると、先生は少しだけ息を吐く。
「それに、君はどうやら、自分に向けられている好意や興味に鈍感なようですからね」
「へ?」
「さきほどの準備室での様子から見て、そう判断しました」
準備室。
ルークにクッキーを差し出していた場面が、頭に蘇る。
「……見てたんですか?」
「最初から、というわけではありませんが」
先生は軽く咳払いをした。
「君が“ルーク、ありがとう。やっぱり助かるなあ”と言ったときの、彼の顔を見ました」
「ルークの顔?」
「ええ。――君の言葉を、とても大切そうに受け取っていた」
その説明だけで、何となく情景が浮かんでしまって、胸が少しくすぐったくなる。
「……そんなふうに見えました?」
「職業柄、人の表情や反応を観察するのは得意ですので」
淡々と告げられる。
そして、少し間を置いてから、ぽつりと付け足した。
「……見過ごしたくなかったのかもしれません」
「? なにを、ですか?」
尋ねると、先生は目を伏せた。
眼鏡のレンズが光を反射し、一瞬、瞳の色が読み取れなくなる。
「――嫉妬を」
「……えっ」
あまりに予想外の単語に、思考が止まった。
「今、なんて……」
「いや。忘れてください」
先生は即座にかぶせた。
でも、もう聞いてしまった。
嫉妬。
その言葉を、セドリック様の口から聞く日が来るなんて、思ってもみなかった。
「し、嫉妬って……セドリック様が?」
「聞き返さないでください」
「だって……」
「私の計画書には、“嫉妬”という項目は存在しないので」
苦々しげな表情で、先生は眉間を押さえた。
「“婚約者を立てることで、寄付者の不安を軽減する”――そこまでは、想定通りでした」
「はい」
「“学院内に自然な噂が流れることで、印象が定着する”――これも、想定の範囲内です」
「うん」
「しかし、“味見をしている男子学生に対して、講義中に質問を多めに投げてしまいたくなる”――これは、想定外です」
「えっ」
今、大事なことをさらっと言わなかっただろうか。
「講義中に、って……」
「本日の理学科の合同講義で、つい、彼を多めに指名してしまいました」
先生は、ほとんど自嘲気味に笑った。
「自分でも不可解な行動でしたが……今にして思えば、あれは嫉妬だったのでしょうね」
「し、嫉妬……」
口の中で、そっと繰り返す。
先生のイメージと、あまりにもかけ離れた単語だ。
「私の婚約者が作ったものを、当然のように受け取っている相手を見ると――少し、胸のあたりがざわつくようです」
「……」
「理屈ではないので、非常に扱いに困ります。計画書に書き足すわけにもいかない」
眉間の皺を押さえる仕草が、いつになく人間らしくて。
私は、どきどきしながらも、ふと笑ってしまった。
「……変でしょうか」
「いえ。全然」
首を振る。
「でも、なんだかちょっとだけ、嬉しいです」
「……嬉しい?」
「はい」
自分の言葉に、自分で驚きながらも、正直な気持ちがこぼれた。
「だって、セドリック様、いつもなんでも計画通りって感じだから。
少しだけ、“計画書にないこと”で困っている姿を見られたの、なんか……うまく言えないですけど、安心しました」
「安心」
「はい。人間らしい、っていうか……」
言いながら、慌てて両手をぶんぶん振る。
「あっ、いえ、その、今まで人間らしくなかったって言いたいわけじゃなくて! えっと、その、うーんと――」
「落ち着いてください」
先生が苦笑する。
「君らしい、感想ですね」
その声が、さっきまでよりも少し柔らかくなっているのに気づいて、胸があたたかくなる。
「……そういうわけで」
先生は、わざとらしく咳払いをした。
「今後、君が誰かに試作品を渡すときは、事前に私にも一言知らせてください」
「え?」
「“誰に何を渡したか”を把握していれば、私のほうの感情の制御もしやすくなるでしょう」
「感情の、制御……」
「ええ。計画書には書けませんが、自分なりに方法を考えてみます」
真面目な顔でそんなことを言われてしまうと、笑っていいのか、真剣に受け止めるべきなのか、わからなくなる。
でも――
「じゃあ、これから試作品を渡すときは、ちゃんと報告しますね」
「お願いします」
先生は頷いたあと、ふと表情を和らげた。
「……ただし」
「まだ条件が?」
「“誰に渡したか”だけでなく、“どう言って渡したか”も気になりますので」
「ど、どう言って……?」
「例えば、“助かるなあ”と微笑みながら渡した相手と、“よろしくお願いします”と礼儀正しく渡した相手では、意味合いが違いますからね」
言われて、顔が一気に熱くなる。
「そ、そこまで細かく……!」
「細かくなってしまうのが、嫉妬という現象の厄介なところのようです」
先生は、自分でも持て余しているような顔で言った。
でも、その目の奥には、どこか諦めにも似た静かな色がある。
「……本当は、嫉妬などという感情に振り回されるのは、避けたいのですが」
「はい」
「君が関わることとなると、どうもそうもいかないようで」
さらりと告げられた一言に、胸の奥が、きゅっと鳴った。
言葉の意味をすぐにはうまく飲み込めなくて、ただ、鼓動が早くなる。
「あ、あの……」
何か返したくて口を開くけれど、適切な言葉が見つからない。
そんな私を見て、先生はふっと微笑んだ。
「安心してください。感情に振り回されるとはいえ、君の負担になるようなことはしません」
「負担……?」
「私の嫉妬によって、君の行動を不当に縛るつもりはない、という意味です」
淡々とした宣言。
「君が誰にお菓子を渡そうと、誰に笑いかけようと――君の自由です」
「……本当に?」
「ええ」
少し間を置いてから、静かに付け足す。
「ただし、そのどれにも、“君には婚約者がいる”という前提が、きちんと伝わるようにしておきたいだけです」
その言い方が、なんだかずるい。
自由を尊重しているようでいて、しっかりと自分の場所を確保しているみたいで。
胸の奥で、何かがとくりと跳ねた。
「……じゃあ」
気づけば、口が勝手に動いていた。
「その、“婚約者がいる”っていうのをちゃんと伝えるために……何をしたらいいですか?」
「何を、ですか」
「はい。私、さっきルークにクッキー渡したとき、普通に“ありがとう、助かる”って言っちゃったから。
もし、それが誤解を招く言い方だったなら……婚約者として、ちゃんとした“見せ方”を覚えたほうがいいのかなって」
私なりに真面目に考えての質問だった。
先生は少しだけ目を見開き、それから、ゆっくりと視線を伏せた。
机の上のクッキー皿を見つめながら、指先でそっと縁をなぞる。
「……そうですね」
少し考えるような間。
「一つ、簡単な方法があります」
「なんでしょう」
「――君が、同じくらいの笑顔で、私にも“助かる”と言ってくれればいい」
「え?」
あまりにも予想外の提案に、声が裏返る。
「君が誰かに“助かるなあ”と言うとき、その言葉が特別なのだと、私は思っている。
ならば、その特別さを、私にも分けてほしいというだけの話です」
「わ、私の……?」
「ええ。今後、君が誰かにそう言った日は、その日の終わりに、私にも一度、言ってくれませんか」
さらっと、とんでもないお願いをされている気がする。
「でも、それって……ずるくないですか?」
「ずるいですね」
あっさり認められた。
「しかし、嫉妬というのは、そもそもずるい感情でしょう。
どうせなら、できるだけ穏やかな形で扱いたいのです」
先生の言い分は、理屈としてはよくわからないようでいて、どこか頷きたくなる妙な説得力がある。
私はしばらく考え込んだあとで、そっと笑った。
「……じゃあ、今日のぶんから」
「今日のぶん?」
「はい。今日、ルークに“助かる”って言っちゃったので。
その、ちゃんと伝えておかないと、不公平かなって」
そう言って、先生のほうへ一歩近づく。
机を挟んで向かい合う形で、目を合わせる。
先生の瞳が、すっと私を捉えた。
胸の鼓動が、ひとつ跳ねる。
「セドリック様」
名前を呼ぶ。
「……なんでしょう」
わずかに緊張を含んだ声。
私は、できるだけ素直な気持ちを込めて、言った。
「いつも、ありがとうございます。
助かってます。――とても、助かってます」
一瞬、時間が止まったような気がした。
先生の瞳が、ふっと揺れる。
眼鏡の奥の視線が、少しだけ泳いで、それから私へと戻ってくる。
「……そうですか」
低い声が、胸の奥に落ちた。
「それは……光栄ですね」
いつもより少しだけ掠れたような声。
先生は眼鏡を外し、指先で目頭を押さえた。
「……やはり、強力な言葉です、“助かる”というのは」
「え?」
「嫉妬の熱も、少し冷ましてくれるようです」
そう言って、静かに笑う。
その笑顔は、とても人間らしくて、やわらかくて――どこか、少しだけ、子どものようにも見えた。
「ありがとうございます、リラ」
改めて名前を呼ばれて、今度は私のほうが胸をどきんと鳴らす番だった。
嫉妬は、計画書にない。
でも、その“計画外”の感情が、少しずつ、私たちの距離を変えていっているのだと――なんとなく、そんな予感がした。
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