『借景の婚約者 ― 学院長代理の計算違い』

星乃和花

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第7話 雨の日の書庫と、傘代わりの契約書

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 その日は、朝からずっと雨だった。

 細かい雨粒が糸みたいにつながって、空から落ちてくる。
 学院の古い屋根瓦を叩く音が、少しだけ心細い。

「今日は、よく降るなあ……」

 家政学科の教室の窓から中庭を眺めていると、背後から名前を呼ばれた。

「――フェンネル嬢」

「はいっ!」

 条件反射で立ち上がる。

 振り向くと、廊下の入り口に、いつもの三つ揃え姿のセドリック様が立っていた。
 今日は、雨仕様なのか、濃紺のコートを肩にかけている。

「少し、手を借りたいのですが」

「て、手……?」

「旧館の書庫整理です。水漏れがないかの確認も兼ねて。
 家政学科からは、整理整頓に慣れた人材を、とのことで」

「あ……なるほど。わかりました!」

 理由を聞いて、胸が少し誇らしくなる。

 掃除と整頓なら、任せてほしい。

「では、十分後に旧館の前へ。濡れない程度の上着を着てきてください」

「はい!」

     ◇

 旧館は、本館よりもさらに古い石造りの建物で、今は主に書庫として使われている。

 外廊下を通って向かう頃には、雨脚はさらに強くなっていた。

(うわぁ……)

 傘をさしていても、足元に跳ね返る水しぶきが、スカートの裾を少し濡らす。

 旧館の玄関前で、先についていたセドリック様が、私の傘のほうを見て、わずかに眉を寄せた。

「……かなり濡れていますね」

「だ、大丈夫です! 中に入ればすぐ乾きますから」

「“大丈夫”という言葉は便利ですが、信用しすぎるのも考えものですよ」

 そう言いながら、彼はさっと自分の傘をたたみ、私の傘を受け取ってくれた。
 
 私の傘は来る途中で、骨が一本折れて、変な方向へ曲がっている。

「わんぱくな傘ですね」

「ち、違います。さっきの風で」

 少し気恥ずかしくて食い気味になると、彼は穏やかに瞳を細める。 

「ここからは屋根があります。タオルは中に用意しましたので、足元も拭いてください」

「ありがとうございます」

 旧館の中に入ると、石の壁と木の棚が、しんとした空気をまとっていた。

 雨音が屋根を叩く音だけが、遠くから響いてくる。

「……なんだか、秘密基地みたいですね」

 思わず呟くと、セドリック様が小さく笑った。

「秘密基地というには、少々湿度が高いですがね。――こちらです」

     ◇

 案内された書庫の一室には、天井まで届きそうな本棚が、壁一面に並んでいた。

 革張りの帳簿、紐でまとめられた書類束、古い箱。

 どれも、長い時間を経て、黄味がかった色になっている。

「うわぁ……」

 思わず感嘆の声が出た。

「全部、学院の記録、ですか?」

「主に、過去の契約書や規約、寄付の記録ですね。
 古いものは、建学院当初の書類も含まれています」

「そんな大事なもの、私が触ってもいいんですか?」

「大事だからこそ、整える必要があります。
 そして、整えることに関しては、君に全幅の信頼を置いています」

「ぜ、全幅……!」

 大げさな言葉に、思わず背筋が伸びた。

「本日の作業は、三つあります」

 セドリック様は、すっと指を立てる。

「一つ、書類の水濡れチェック。
 一つ、年代ごとの並び替え。
 もう一つ――」

 そこで一度言葉を区切り、棚の上段を見上げた。

「――“無効契約書”の抜き出しです」

「むこう……」

「すでに役目を終えた契約や、古い規約の改定前のものなどですね。
 保管はしますが、“現行”と混じらないよう、棚を分ける必要があります」

「あ、なるほど」

 シンプルな三つの作業。
 やることがはっきりしていると、気持ちも落ち着いてくる。

「脚立はあちらに。上段の確認は、無理のない範囲で」

 そう言われた瞬間、嫌な予感がした。

「“無理のない範囲”ってことは、無理をしそうだと疑われている……?」

「過去の統計から導き出された予測です」

「わ、私、そんなに危なっかしいことしてましたか?」

「君の“届きます、大丈夫です”ほど、信頼できない言葉はありませんからね」

 真顔で言われた。

「ひどい……」

(たしかに、この前も高い棚に手を伸ばして書類を雪崩させたけど……)

「届かないところは、必ず声をかけてください。
 無理をした結果、棚も君も倒れてしまっては、本末転倒です」

「はい……」

 注意事項を胸に刻みつつ、作業を始めた。

     ◇

 書庫の中は、外の雨音とは別世界のように静かだった。

 ぱらり、ぱらりと紙をめくる音と、時折セドリック様が書類に何かを書き込むペンの音だけが響く。

「……これ、ものすごく細かく書いてありますね」

 山と積まれた契約書の一つを手に取って、思わず呟いた。

「“第何条第何項ただし書き……”みたいなのが、ぎっしりで」

「創立時の寄付契約ですね。初代学院長が、細かすぎるほど条文を作るタイプだったらしく」

「たしかに、“余白”が全然ない感じがします」

 紙の端まで文字がびっしりで、注釈もびっしり。
 空白といえば、行間のほんの少しだけ。

「余白がない契約書は、安心感を与えることもあれば、息苦しさを与えることもあります」

「息苦しさ……」

「読み手の性格によるでしょうね」

 セドリック様は、別の束を開きながら言う。

「一方で、こちらの年代の契約は――」

 彼が差し出したのは、少し新しい紙の束だった。

 そこには、条文と条文の間に、すこし広めのスペースがある。

「行間が、さっきより広いですね」

「ええ。“追記欄”や“改定メモ”を挟めるようにした時期のものです。
 条文自体は変わらなくても、時代に合わせて運用を調整できるように」

 ペン先で、余白の部分を軽く示す。

「契約にも、“余白”が必要だと、ようやく気づいたのでしょう」

「余白がないと、だめなんですか?」

「だめ、というより――“変わる余地がなくなる”」

 穏やかな声だった。

「人も、学院も、時代も変わります。
 その変化を受け止めるための余地が、どこかに必要なんですよ」

「……なんだか、難しいような、わかるような」

「フェンネル嬢のノートにも、余白はありますか?」

「あります。あの……隅っこに、メモを書いたりしてます」

「それが、きっと“その日のリラ・フェンネル”を残しているのでしょう」

 突然、フルネームで呼ばれて、なんだか照れる。

「じゃあ、先生の人生の“契約書”にも、余白あるんですか?」

 つい、聞き返してしまった。

 セドリック様は、ふっと目を細めた。

「さあ、どうでしょうね」

「ずるいです。さっき、私のノートの余白の話までしたのに」

「そうですね……」

 少し考える素振りを見せてから、彼はおもむろに近くのカバンから、一冊のノートを取り出した。

 そこには、見覚えのあるタイトルが書かれている。

 ――『婚約契約書(仮)』

「……っ!」

 条件反射で、背筋が伸びた。

 あの日、慌てた気持ちでサインした書類。

 まさか、持ち歩いていたなんて。

「ご安心ください。これは控えの写しです。本物は別の金庫に」

「そ、そういう問題じゃなくて……!」

 顔から火が出そうになる。

「私の人生の契約書の一部、ということで」

 セドリック様は、さらっと言った。

「余白があるかどうか、見てみますか?」

「み、見なくて大丈夫です!」

(絶対、恥ずかしくて直視できない……!)

「では、私が代わりに確認を」

 ぱらり、とページがめくられる。

 私は慌てて、別の書類束に顔を埋めた。

「……うん」

「ど、どうでした?」

「余白、ありますね」

「えっ」

 思わず顔を上げてしまう。

「だって、あの契約書、条文がいっぱいで、埋まってたような……」

「条文は多いですが、“終了条件”や“将来の具体的な形”については、わざとぼかしてあります」

 指先で、ある箇所をとん、と軽く叩く。

「“双方の合意により、内容は随時見直し・更新できるものとする”」

「あ……そんなこと、書いてありましたっけ」

「緊張のあまり、そこまで目が行かなかったのでしょう」

 少しだけ口元を緩める。

「つまり、あの契約書は、“仮”でありながら、“余白を前提とした契約”でもあります」

「余白を……前提」

「君の気持ちが変わることも、私の計画が変わることも、ある程度予測していましたからね」

 さらっと、またとんでもないことを言う。

「予測してたんですか!?」

「人は変わるものです。
 もし変わらないものがあるとすれば――それは“変わる可能性”のほうでしょう」

「……哲学みたいです」

「行政文書の現実です」

 きっぱり言われた。

「なので、君の人生の契約書にも、余白はありますよ。少なくとも、私と関わる部分については」

「私の人生の……」

「“絶対にこうでなければならない”と決めつける条文は、あまり好きではありません。
 君が自分で自分を縛るのは、なおさら」

 淡々とした声に、ほんの少しだけ滲む優しさ。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

「……じゃあ、私が“借りている側だから”って言うたびに、先生の余白がざわざわしてたんですか」

「また妙な表現をしますね」

「でも、この前、言ってました。“ざわめき”って」

「ああ、あれですか」

 彼は、少しだけ目を伏せた。

「報告しておきましょうか。今も、少しざわめいています」

「い、今も?」

「“人生の契約書”などという言い方は、私の専門分野ではありませんからね。
 だいぶ、比喩表現に影響されている気がします」

 そう言って、わずかに肩を竦める。

「――ただ」

 そこで、ふと表情を和らげた。

「君が、自分で自分の余白の話をし始めたことは、悪くない変化だと思います」

「変化……なんでしょうか」

「以前の君なら、“私の契約書に余白なんてないです”と決めつけていたでしょう」

 ずばりと言われて、言葉に詰まる。

「今は、“少ない気がする”と言った。
 “あるかもしれない”余地を、少しだけ認めた」

「……そう言われると、たしかに」

「その差は、小さいようでいて、大きいですよ」

 静かな雨音の中、言葉が胸に落ちていく。
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