乙女心が呪い扱いされて検査された結果、診断名が「恋」に変更されました

星乃和花

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番外編 モカが“監査”として常駐する日(=人間より仕事ができる猫)

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 朝、研究所に入った瞬間から、違和感があった。

 廊下が――静かすぎる。

 いつもなら誰かが備品の愚痴を言い、誰かが結界の数字に叫び、誰かがセスの胃薬を心配する。
それが今日は、妙に整っている。

(……嵐の前?)

 リィナが隔離室(小部屋)へ向かう途中、掲示板の前で足が止まった。

 そこには、新しい札が掛けられている。

『監査員:モカ
権限:無言で圧をかける/机に乗る/書類を押さえる
備考:噛む可能性あり(必要な場合)』

 リィナは目を丸くした。

(……猫に権限……?)

 背後からセスのかすれ声がした。

「……おはよう、リィナ。見た? ついに来たよ」

「……来たって……何が……」

 セスは虚無の目で掲示板を指した。

「猫が、常駐する日」

 その瞬間。

「にゃ」

 足元から声がした。

 モカがそこにいた。
しかも首に札を下げている。

『監査』

 堂々としている。
威厳がある。
猫のくせに、人間より“役職顔”だ。

 リィナがしゃがむと、モカは一度だけ「にゃ」と鳴いて、掲示板の前を通り過ぎた。

 向かう先は――執務室。

 セスが肩を落とす。

「……先生が、モカに“監査”を頼んだんだ」

「頼んだ……?」

「先生曰く、“第三者の視点が必要”」

「第三者……猫……」

「猫でもいいから止めてほしいんだよ、私は……」

 セスの声が切実すぎた。

 執務室の扉が開いている。
中からクロードの声がする。

「モカ。ここだ」

 リィナがそっと覗くと、クロードは机に向かっていた。
目の前にはいつものノート、そして――例の“恋の対処手順”の束。

 机の上には、モカ。

 当然のように、ど真ん中に座っている。

 クロードが淡々と説明していた。

「今日から君は監査員だ。目的は運用の安定化」

「にゃ」

 モカは短く鳴いた。
――了解。

 セスが入ってきて、胃薬瓶を机に置いた。

「先生……猫に仕事を頼む前に、自分で調整してください……」

「調整している」

 クロードは真顔で言った。

「モカで」

 セスが膝から崩れ落ちそうになった。

「……人間としての負けを感じる……」

 そのとき、クロードがリィナに気づいた。

「リィナ。入れ」

 リィナが恐る恐る入室すると、クロードはいつも通り隣の椅子を引いた。

(隣、固定……)

 リィナが座ると、モカがすぐにこちらを見た。

 じ――。

 圧。

(見られてる……監査されてる……)

 クロードは淡々と告げた。

「今日は手順の見直しをする」

 セスが即座に言う。

「見直しじゃなくて、減らしてください」

「減らす」

 セスが顔を上げた。

「……やっと……!」

 クロードは続けた。

「重複を削る」

「重複……?」

 セスの嫌な予感。

 クロードは紙を広げた。

『第四条:抱きしめる
例外⑤:泣きそう→抱きしめる(強化)
例外⑥:笑う→抱きしめる(祝い)
例外⑧:無事→抱きしめる(確認)』

 クロードがペンを取り、真剣に言った。

「全部、第四条に統合できる」

 セスが叫んだ。

「統合しても“抱きしめる”が残るだけ!!」

 モカが「にゃ」と鳴いた。

 ――その通り。

 クロードが猫を見る。

「反対か」

「にゃ」

 ――反対。

 セスが思わず息を吸った。

「え、猫、反対してる……!」

 リィナも驚いてモカを見た。

 モカは尻尾を一度だけ振り、紙を前足で“トン”と押した。

 押した先は――

『例外④:対象者が照れて逃げる場合 → “逃がさない(安全管理)”』

 モカが「にゃ」と鳴く。

 ――それ、ダメ。

 セスが感動して震えた。

「モカ……!! 君、天才……!!」

 クロードが首を傾げた。

「なぜだ」

 モカがじっとクロードを見る。

 ――それは追いかけるな。

 もちろん人間には伝わらない。
しかしセスには伝わったらしい(胃の痛みで)。

「先生! それは“安全管理”じゃなくて“捕獲”です!」

「捕獲ではない」

「捕獲です!!」

 モカが「にゃ」と鳴き、前足でクロードのペンを押さえた。

 ペン先が止まる。

 クロードが珍しく黙った。

 セスが胸を押さえた。

「……止めた……猫が止めた……」

 リィナは思わずモカに囁いた。

「……モカさん、ありがとうございます」

 モカが「にゃ」と鳴いた。

 ――当然。

 クロードが猫を見て、真面目に言った。

「監査員として、指摘を言語化してほしい」

 セスが呻いた。

「先生、猫です」

「なら翻訳が必要だ」

 クロードはリィナを見た。

「リィナ。モカの指摘を翻訳できるか」

 リィナは固まった。

「……えっ、私が……?」

 セスが即座に言った。

「無理です! リィナを巻き込まないでください!」

 モカが「にゃ」と鳴いた。

 ――巻き込むな。

 セスが涙目になった。

「ほら! 猫が味方してる!」

 クロードは少し考え、結論を出した。

「分かった。モカの指摘は、行動から読み取る」

「読み取るのに一番向いてないの、先生です」

 セスの突っ込みに、クロードは動じない。

「訓練する」

 セスが頭を抱えた。

「……訓練の方向が……」

 そのとき、クロードがリィナの頬の赤みを見て言った。

「反応が出ている」

(監査のせいで恥ずかしいんです……!)

 クロードが手を伸ばしかけた瞬間――

 モカが、机から“スッ”と降りた。

 そして、クロードの手の甲に前足を置いた。

 ちょん。

 クロードの動きが止まる。

 モカが「にゃ」と鳴いた。

 ――ここは人目。

 セスが大きく頷いた。

「そう! そうです! 廊下側の窓、開いてますから!」

 クロードが眉を寄せた。

「例外①」

「例外①で手首にしても、雰囲気がもうアウトなんです!」

 モカが「にゃ」と鳴く。

 ――アウト。

 クロードは、しばし沈黙した。

 そして珍しく、言った。

「……分かった。控える」

 セスが崩れ落ちた。

「猫が勝った……! 歴史が動いた……!」

 リィナは胸を押さえた。

(モカさん……本当に監査員だ……)

 モカは何事もなかったかのように、執務室の隅に置かれた小さなクッションに乗り、丸くなった。

 首の札が揺れる。

『監査』

 その日から、研究所は少しだけ平和になった。

 ――少しだけ。

 なぜならクロードが、真面目に言い出したからだ。

「モカの監査結果を基に、第三版を作る」

 セスが叫んだ。

「版を増やさないでください!!」

 モカが「にゃ」と鳴いた。

 ――増やすな。

 クロードが静かに頷く。

「分かった。では“第三版”はやめる」

 セスが安堵する。

「……よかった……」

 クロードが続けた。

「“第二版・改”にする」

 セスが床に伏せた。

「増えてる……名前が増えてる……」

 モカが尻尾を一度だけ振った。

 ――人間は学ばない。

 リィナは笑いそうになって、でも胸が温かくなって、そっとモカの背中を撫でた。

 モカは「にゃ」と小さく鳴いた。

 ――常駐。

 今日も監査は続く。
猫が止める。
セスが倒れない程度に。
そしてクロードは、恋を“運用”しながら、少しずつ学んでいく。

 ……たぶん。
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