乙女心が呪い扱いされて検査された結果、診断名が「恋」に変更されました

星乃和花

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番外編 抱きしめ規定、例外規定が増えすぎる日(セスが倒れる)

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 研究所の規定は増える。

 増えるのは仕方ない。人が増えれば業務が増える。業務が増えれば規定が増える。
――それは分かる。

 でも。

 掲示板の端に貼られた新しい紙を見て、セスは無言で壁に額を当てた。

『恋(リィナ)の対処手順(改・第二版)
第四条:抱きしめる』

 ここまでは、もう見慣れた。

 問題は、その下だ。

『第四条の例外規定(暫定)
例外①:研究所内での人目が多い場合 → “手首”で代替
例外②:対象者が作業中の場合 → “背後から肩”で代替
例外③:対象者が熱い茶を持っている場合 → “袖”で代替
例外④:対象者が照れて逃げる場合 → “逃がさない(安全管理)”
例外⑤:対象者が泣きそうな場合 → “抱きしめる(強化)”
例外⑥:対象者が笑っている場合 → “抱きしめる(祝い)”
例外⑦:対象者が怒っている場合 → “抱きしめる(鎮静)”
例外⑧:対象者が無事な場合 → “抱きしめる(確認)”』

 セスは、規定の紙から目を離せないまま、かすれた声で言った。

「……先生。これ、例外じゃなくて……全部“抱きしめる”じゃないですか……」

 横でリィナは、顔を真っ赤にしていた。

(祝いって何……確認って何……無事でも抱きしめるって何……)

 そして、紙の端に小さく書き足されている。

『※例外⑨:対象者が「抱きしめなくて大丈夫です」と申告した場合
→ “抱きしめる(否認は症状)”』

 リィナ「……!」

 セス「……」

 セスはゆっくり振り向き、クロードを見た。

 クロードはいつも通り淡々とした顔で、筆を持っている。
つまり――これを書き足したばかりの犯人だ。

「先生。私、ひとつ聞いていいですか」

「いい」

「例外って、何ですか」

「通常と異なる条件」

「……ここに、通常が存在してます?」

 クロードは真面目に頷いた。

「存在する」

 セスの目が細くなる。

「どれですか」

 クロードは迷いなく答えた。

「第四条」

「抱きしめるのが通常!?」

 セスは叫んだ。
胃が鳴いた。たぶん悲鳴だ。

 リィナは小さく咳払いした。

「……先生、あの……」

 クロードが即座にリィナを見る。

「苦しいか」

(それ言われると、もう苦しい……)

 リィナは首を振った。

「……苦しいというか……恥ずかしいです」

 クロードは少し考え、すぐにペン先を紙へ向けた。

「恥ずかしい場合の例外を追加する」

「追加しないでください!!」

 セスが反射で止めた。

 しかしクロードのペンは止まらない。

『例外⑩:対象者が恥ずかしい場合
→ “抱きしめる(顔は見ない)”』

 リィナはその場で消えたくなった。

「顔は見ないって……っ」

 セスは膝をつきそうな声を出した。

「先生……それ、優しさの方向性が……規定向きなんですよ……」

 クロードは真面目に頷いた。

「規定は迷いを減らす」

「迷いは必要なんです……恋に……」

 セスは胃薬の瓶を取り出し、飲んだ。

 そこへ、研究員が一人、掲示板を覗き込んだ。

「あ、対処手順また更新されたんだ」

「いつの間に……」

「例外規定、増えてるね」

 研究員たちが軽いノリで見始める。
リィナの耳が熱くなる。

(やめて……見ないで……!)

 クロードが即座に前へ出た。

「閲覧禁止」

「え、でも掲示板に――」

「危険」

「危険って……抱きしめるのが?」

「恋は危険だ」

 研究員たちが「なるほど」と頷く。
研究所の人間は理屈に弱い。

 セスが呻いた。

「……理屈の使い方が違う……」

 研究員の一人がリィナに小声で言った。

「大丈夫? 先生、毎日抱きしめてくれるの?」

 リィナの顔が真っ赤になる。

「……まい……にち……?」

 クロードが静かに答えた。

「必要なときに」

 研究員が笑う。

「それ毎日じゃん」

 セスが天井を仰いだ。

「……そうなんですよ……」

 そのとき、廊下の奥から小さな物音がした。

 ――コツ、コツ。

 モカが歩いてくる。
なぜか首に小さな札を下げている。

『監査』

 セスは無言で崩れ落ちた。

「猫まで巻き込まれた……」

 モカが掲示板の前に座り、「にゃ」と鳴いた。

 ――例外、多すぎ。

 クロードが眉を寄せる。

「多くない。必要な分だけだ」

 モカが尻尾を振る。

 ――必要の定義が重い。

 クロードが少し考え込んだ。

 そして、真剣な顔で言った。

「では整理する」

 セスが顔を上げた。

「……先生、やっと整理を……!」

 クロードは頷き、ペンを取った。
そして新しい紙を貼った。

『第四条:抱きしめる(原則)
例外:抱きしめない場合は、すべて第四条へ戻す』

 セス「……」

 リィナ「……」

 モカ「にゃ(納得)」

 セスはふらっと立ち上がり、よろよろと掲示板に手をついた。

「先生……それ……例外を消したんじゃなくて……世界を閉じたんですよ……」

 クロードは真面目に頷いた。

「閉じた。迷いが減る」

「減りすぎて、倫理が消えます……」

 セスの声が震えた。

 リィナは胸がぎゅっとして、でも少し笑ってしまった。

(先生、どうしてこう……)

 そのとき、クロードがリィナの頬の赤さを見て言った。

「……反応が出ている」

(出てます……掲示板のせいで……)

 クロードは当然のように一歩近づいた。

 セスが反射で叫ぶ。

「やめてください! 廊下です!」

「例外①だ」

 クロードは落ち着いて言った。

「人目が多い場合、“手首”で代替」

 そう言って、クロードはリィナの手首を取った。

 取って――そのまま、軽く引き寄せた。

 リィナの心臓が跳ねた。

「……先生、手首だけじゃ……」

「例外④」

 クロードが淡々と言う。

「逃げる場合、“逃がさない(安全管理)”」

 セスが頭を抱えた。

「例外の使い方が上手すぎる!!」

 そしてセスは、ついに限界を迎えた。

「……あ、無理」

 そのまま廊下の壁にもたれ、ずるずると座り込む。

「セス!?」

 リィナが慌てて駆け寄ろうとすると、クロードが即座にリィナの肩を押さえた。

「動くな」

「でも、セスが……!」

「セスは安全だ」

「安全じゃないです! 胃が……!」

 セスが弱々しく手を挙げた。

「……胃は……安全じゃない……」

 モカが「にゃ」と鳴き、セスの足元に座った。

 ――監査:胃薬補充。

 セスは泣き笑いみたいな顔になった。

「猫に監査される人生、初めてです……」

 クロードは淡々と結論を出す。

「セス。休め」

「休めるなら、最初から休んでます……」

 セスが呻く。

 リィナは困り顔でクロードを見上げた。

「先生……どうしましょう」

 クロードは真面目に答えた。

「対処する」

(また対処……)

 クロードはセスに近づき、淡々と言った。

「セス。君にも手順が必要だ」

 セスがかすれた声で言う。

「……やめて……私に“抱きしめる”を適用しないで……」

「しない」

 クロードは即答した。

「良かった……」

 セスが安堵した瞬間。

 クロードは続けた。

「胃薬を増やす」

 セスが絶望した。

「増やすのは胃薬じゃなくて、先生の自覚です……!」

 モカが「にゃ」と鳴いた。

 ――自覚:未実装。

 リィナは、つい笑ってしまった。

 セスは倒れたまま、掲示板を指さす。

「……先生……お願いです……恋は……掲示板に……載せないで……」

 クロードは真面目に頷いた。

「分かった。では次からは――」

 セスが期待の目を向ける。

 クロードが続けた。

「個人用の冊子にする」

 セスは床に額を当てた。

「……増える……増えるんだ……媒体が……」

 リィナはクロードの袖をそっと引いた。

「……先生、冊子は……やめましょう」

 クロードは少し考えた。

 そして、珍しく素直に言った。

「……分かった」

 その返事が、やけに優しくて。

 リィナの胸が、また甘くなる。

 ――結局、抱きしめ規定は増えた。
例外規定も増えた。
掲示板は埋まった。
セスは倒れた。

 そしてクロードだけが、真面目な顔でこう言った。

「迷いが減った。良い運用だ」

 リィナは心の中でそっと呟く。

(先生、それ、恋の運用って言わないで……)

 でも、言えない。

 言えないまま、今日も“手順”は更新されていく。

 ――セスの胃薬と一緒に。
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