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番外編 掲示板が“恋の対処手順”で埋まる日
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研究所の掲示板は、いつもは実に無機質だ。
結界点検表。研究会の日程。備品申請。
誰が見ても「仕事のための板」であり、「人の心」は置いていない。
――置いていなかった。
リィナが廊下を曲がった瞬間、足が止まった。
(……増えてる)
昨日まで一枚だったはずの紙が、今日、三枚に増えている。
『対象:助手 リィナ(監督責任者:クロード)』
その下に、新しく貼られている。
『恋(リィナ)の対処手順(暫定)
監督責任者:クロード』
さらに、その横に。
『恋(リィナ)の対処手順(改)
監督責任者:クロード
監修:セス(※胃薬)』
リィナは静かに掲示板の前に立ち尽くした。
(……監修:セス(※胃薬)って何……)
恥ずかしさが先に来て、次に笑いが来て、最後に心臓が苦しくなる。
(手順……掲示するものじゃない……!)
しかも内容が――
リィナは恐る恐る目を走らせた。
『一、朝の茶は継続(安定化)
二、呼称は統一(リィナ)
三、刺激が強い場合、接触で落ち着かせる(手首・額)
四、落ち着かない場合、抱きしめる
五、抱きしめても落ち着かない場合、追加で抱きしめる』
(追加で抱きしめる……)
五番の文字がやけに太い。
誰かが筆圧を強めたのだ。誰か、というか十中八九――クロードだ。
リィナの頬が熱くなる。
背後から、低い声。
「確認したか」
クロードだった。
いつも通りの顔。落ち着いた声。
掲示板に貼られた内容の異常性だけが、異常に際立つ。
「……先生……これ、貼ったんですか」
「貼った」
即答。
「……なぜ……」
「共有が必要だ」
「何の共有ですか……!」
クロードは首を傾げた。
「君に関わる者が、手順を理解していないと危険」
(危険……恋が危険扱い……)
そこへ、横から乾いた声が挟まった。
「危険なのは先生の“手順文化”です」
セスだ。
目の下にクマを作り、胃薬の瓶を片手に、掲示板を見上げている。
「……先生。昨日、貼らないって約束しましたよね」
「約束していない」
「しました。“貼るのはやめよう”って言いました」
「それは提案だ」
「提案を却下された私の胃が、今、殉職しそうです」
セスは瓶を振った。
「……リィナ、見ました? 五番」
「見ました……」
リィナの声が消え入りそうになった。
クロードは真面目に頷く。
「必要だ」
「必要の定義が先生だけ宇宙なんですよ」
セスが言い切る。
そのとき、掲示板の下から「にゃ」と声がした。
モカが、なぜか掲示板の前に座っている。
尻尾を揺らして、紙を見上げている。
そして、ゆっくりとこちらを見る。
――増えたね。
そんな顔。
リィナは口元を押さえた。笑いそうだ。泣きそうでもある。
「……先生、これ、研究所の皆さんに見られますよ」
「見られる」
「……恥ずかしくないんですか」
「恥ずかしい、とは?」
クロードが真顔で聞き返す。
セスが崩れ落ちそうな声を出した。
「……先生、恋を“掲示物”にするの、恥ずかしいんですよ」
クロードは少し考えた。
そして、いつも通り、結論を出す。
「恥ずかしいなら、対処が必要だ」
(対処……!?)
クロードは掲示板を見て、さらに言った。
「恥ずかしさは症状に影響するかもしれない」
「しません!」
セスが反射で叫んだ。
「しません!!」
リィナは耐えきれず、そっと言った。
「……先生。恥ずかしいです」
クロードがぴたりと動きを止めた。
リィナは視線を落として続ける。
「……皆に、私の……恋が……」
言葉が途中で溶ける。
胸がぎゅっと詰まる。
クロードの表情が、ほんのわずかに変わった。
眉間の皺が寄り、瞳が柔らかくなる。
「困った」ではなく、「分かった」に近い。
「……そうか」
クロードは掲示板に手を伸ばした。
リィナの心臓が跳ねる。
(外す……?)
しかしクロードは、紙を外さなかった。
代わりに、紙の下に新しい紙を貼った。
『追記:当該手順は“監督責任者と対象者のみ閲覧可”
閲覧した者は速やかに忘れること(強制)
違反者はモカに噛まれる可能性あり』
リィナ「……」
セス「……」
モカ「にゃ(肯定)」
リィナは息を止めた。
(忘れること(強制)って何!? 噛まれる可能性って何!?)
セスが震える声で言った。
「先生……余計に目立ってます……」
クロードは真面目に頷いた。
「忘れるようにした。これで安心だ」
「安心じゃない!!」
セスが叫び、胃を押さえた。
そこへ、通りがかった研究員が足を止めた。
「……え、これ何」
「見ない方がいいよ」
「でも“強制”って書いてある」
「余計に気になるよね」
ひそひそ声。
リィナは消えたかった。
クロードはその研究員たちに、淡々と告げた。
「閲覧禁止。危険」
「危険……?」
「恋は危険だ」
研究員たちが、揃って頷いた。
「……確かに危険かも」
「先生、詳しそうだしね」
「いや、詳しいのは……」
セスが呻いた。
「詳しいのは“溺愛の制度化”です……」
研究員たちは「なるほど」と勝手に納得し、去っていった。
去りながら最後に一言、残していく。
「……お幸せに」
リィナの頬が一気に熱くなる。
「ちが……っ」
言いかけたところで、クロードの声が落ちた。
「……幸せにする」
低い声。
淡々としているのに、何かが重い。
リィナは固まった。
セスが胃を押さえたまま、ゆっくり振り返った。
「先生。それ、掲示板の前で言う言葉じゃないです」
クロードは首を傾げる。
「なぜ」
「公開されるからです!」
「公開されている」
クロードは掲示板を指した。
セスが天井を仰いだ。
「……そうでした……」
モカが「にゃ」と鳴いた。
――はいはい、公開済み。
リィナは、胸の奥が苦しくて、でも温かくて、結局、小さく言ってしまった。
「……先生、あの……」
「何だ」
「……ここ、撤去しませんか……」
クロードは少し考えた。
そして、真面目に結論を出す。
「撤去する」
リィナの胸が、ほっとする。
セスが顔を上げた。
「……やっと……」
クロードは続けた。
「掲示板ごと」
「掲示板ごと!?」
セスが叫んだ。
クロードは真顔で頷く。
「掲示板が危険なら、撤去すべきだ」
「危険なのは掲示板じゃなくて先生の運用です!!」
セスが胃を抱え、壁に寄りかかった。
リィナはもう耐えきれなくて、笑ってしまった。
笑いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
(……私の恋、隠すつもりだったのに)
でも――こうして皆が騒ぐほど、クロードが真面目に守ろうとするほど、
リィナは自分の恋が「ここにある」と認められていく。
モカが足元にすり寄って「にゃ」と鳴いた。
――諦めな。
リィナは、小さく息を吐いて、頷いた。
(……はい。諦めます)
諦めた先に待っているのが、さらに甘い“手順”だとしても。
掲示板は今日も埋まっている。
恋の対処手順で。
そして――研究所の胃薬の消費量で。
結界点検表。研究会の日程。備品申請。
誰が見ても「仕事のための板」であり、「人の心」は置いていない。
――置いていなかった。
リィナが廊下を曲がった瞬間、足が止まった。
(……増えてる)
昨日まで一枚だったはずの紙が、今日、三枚に増えている。
『対象:助手 リィナ(監督責任者:クロード)』
その下に、新しく貼られている。
『恋(リィナ)の対処手順(暫定)
監督責任者:クロード』
さらに、その横に。
『恋(リィナ)の対処手順(改)
監督責任者:クロード
監修:セス(※胃薬)』
リィナは静かに掲示板の前に立ち尽くした。
(……監修:セス(※胃薬)って何……)
恥ずかしさが先に来て、次に笑いが来て、最後に心臓が苦しくなる。
(手順……掲示するものじゃない……!)
しかも内容が――
リィナは恐る恐る目を走らせた。
『一、朝の茶は継続(安定化)
二、呼称は統一(リィナ)
三、刺激が強い場合、接触で落ち着かせる(手首・額)
四、落ち着かない場合、抱きしめる
五、抱きしめても落ち着かない場合、追加で抱きしめる』
(追加で抱きしめる……)
五番の文字がやけに太い。
誰かが筆圧を強めたのだ。誰か、というか十中八九――クロードだ。
リィナの頬が熱くなる。
背後から、低い声。
「確認したか」
クロードだった。
いつも通りの顔。落ち着いた声。
掲示板に貼られた内容の異常性だけが、異常に際立つ。
「……先生……これ、貼ったんですか」
「貼った」
即答。
「……なぜ……」
「共有が必要だ」
「何の共有ですか……!」
クロードは首を傾げた。
「君に関わる者が、手順を理解していないと危険」
(危険……恋が危険扱い……)
そこへ、横から乾いた声が挟まった。
「危険なのは先生の“手順文化”です」
セスだ。
目の下にクマを作り、胃薬の瓶を片手に、掲示板を見上げている。
「……先生。昨日、貼らないって約束しましたよね」
「約束していない」
「しました。“貼るのはやめよう”って言いました」
「それは提案だ」
「提案を却下された私の胃が、今、殉職しそうです」
セスは瓶を振った。
「……リィナ、見ました? 五番」
「見ました……」
リィナの声が消え入りそうになった。
クロードは真面目に頷く。
「必要だ」
「必要の定義が先生だけ宇宙なんですよ」
セスが言い切る。
そのとき、掲示板の下から「にゃ」と声がした。
モカが、なぜか掲示板の前に座っている。
尻尾を揺らして、紙を見上げている。
そして、ゆっくりとこちらを見る。
――増えたね。
そんな顔。
リィナは口元を押さえた。笑いそうだ。泣きそうでもある。
「……先生、これ、研究所の皆さんに見られますよ」
「見られる」
「……恥ずかしくないんですか」
「恥ずかしい、とは?」
クロードが真顔で聞き返す。
セスが崩れ落ちそうな声を出した。
「……先生、恋を“掲示物”にするの、恥ずかしいんですよ」
クロードは少し考えた。
そして、いつも通り、結論を出す。
「恥ずかしいなら、対処が必要だ」
(対処……!?)
クロードは掲示板を見て、さらに言った。
「恥ずかしさは症状に影響するかもしれない」
「しません!」
セスが反射で叫んだ。
「しません!!」
リィナは耐えきれず、そっと言った。
「……先生。恥ずかしいです」
クロードがぴたりと動きを止めた。
リィナは視線を落として続ける。
「……皆に、私の……恋が……」
言葉が途中で溶ける。
胸がぎゅっと詰まる。
クロードの表情が、ほんのわずかに変わった。
眉間の皺が寄り、瞳が柔らかくなる。
「困った」ではなく、「分かった」に近い。
「……そうか」
クロードは掲示板に手を伸ばした。
リィナの心臓が跳ねる。
(外す……?)
しかしクロードは、紙を外さなかった。
代わりに、紙の下に新しい紙を貼った。
『追記:当該手順は“監督責任者と対象者のみ閲覧可”
閲覧した者は速やかに忘れること(強制)
違反者はモカに噛まれる可能性あり』
リィナ「……」
セス「……」
モカ「にゃ(肯定)」
リィナは息を止めた。
(忘れること(強制)って何!? 噛まれる可能性って何!?)
セスが震える声で言った。
「先生……余計に目立ってます……」
クロードは真面目に頷いた。
「忘れるようにした。これで安心だ」
「安心じゃない!!」
セスが叫び、胃を押さえた。
そこへ、通りがかった研究員が足を止めた。
「……え、これ何」
「見ない方がいいよ」
「でも“強制”って書いてある」
「余計に気になるよね」
ひそひそ声。
リィナは消えたかった。
クロードはその研究員たちに、淡々と告げた。
「閲覧禁止。危険」
「危険……?」
「恋は危険だ」
研究員たちが、揃って頷いた。
「……確かに危険かも」
「先生、詳しそうだしね」
「いや、詳しいのは……」
セスが呻いた。
「詳しいのは“溺愛の制度化”です……」
研究員たちは「なるほど」と勝手に納得し、去っていった。
去りながら最後に一言、残していく。
「……お幸せに」
リィナの頬が一気に熱くなる。
「ちが……っ」
言いかけたところで、クロードの声が落ちた。
「……幸せにする」
低い声。
淡々としているのに、何かが重い。
リィナは固まった。
セスが胃を押さえたまま、ゆっくり振り返った。
「先生。それ、掲示板の前で言う言葉じゃないです」
クロードは首を傾げる。
「なぜ」
「公開されるからです!」
「公開されている」
クロードは掲示板を指した。
セスが天井を仰いだ。
「……そうでした……」
モカが「にゃ」と鳴いた。
――はいはい、公開済み。
リィナは、胸の奥が苦しくて、でも温かくて、結局、小さく言ってしまった。
「……先生、あの……」
「何だ」
「……ここ、撤去しませんか……」
クロードは少し考えた。
そして、真面目に結論を出す。
「撤去する」
リィナの胸が、ほっとする。
セスが顔を上げた。
「……やっと……」
クロードは続けた。
「掲示板ごと」
「掲示板ごと!?」
セスが叫んだ。
クロードは真顔で頷く。
「掲示板が危険なら、撤去すべきだ」
「危険なのは掲示板じゃなくて先生の運用です!!」
セスが胃を抱え、壁に寄りかかった。
リィナはもう耐えきれなくて、笑ってしまった。
笑いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
(……私の恋、隠すつもりだったのに)
でも――こうして皆が騒ぐほど、クロードが真面目に守ろうとするほど、
リィナは自分の恋が「ここにある」と認められていく。
モカが足元にすり寄って「にゃ」と鳴いた。
――諦めな。
リィナは、小さく息を吐いて、頷いた。
(……はい。諦めます)
諦めた先に待っているのが、さらに甘い“手順”だとしても。
掲示板は今日も埋まっている。
恋の対処手順で。
そして――研究所の胃薬の消費量で。
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