初恋の名前

星乃和花

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第1話:兄のようなひと

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 鏡の中の私は、きちんと“令嬢”をしていた。

 髪は艶を整えられ、首元には母が選んだ淡い宝石がひとつ。呼吸をするたびに、胸の奥が小さく忙しくなる。
 今日から私は、社交界に出る。

 そう思うと、足元のレースまで少しだけ他人のもののように感じた。

「お嬢さま。大丈夫です。転んでも、誰もお嬢さまを責めません」

 侍女のアデルが、いつもの遠慮のない声で言った。
 大丈夫、と言われてしまうと本当に大丈夫な気がしてしまうから不思議だ。

「転ばないように気をつけるわ」

「転ばないように気をつける人ほど転びます」

「それ、言う必要ある?」

「あります。……お嬢さまは、緊張すると視野が狭くなりますから。歩幅を小さくしてくださいね」

 私は頷き、ふっと笑った。
 歩幅を小さく。――それは、私が昔から何度も教わってきたことと似ている。

 誰に?

 答えはすぐに浮かぶ。

 レオンハルトさま。

 幼いころから、私にとっては“兄のようなひと”だ。
 父の友人の家――公爵家に引き取られた養子で、王宮に仕える結界魔術師。長い肩書きのどれよりも、私の中ではただ一つの言葉が先に立つ。

 優しい人。

 私が子どものころ、転びそうになったら、必ず。

「急がなくていい。君は、君の速度で歩けばいい」

 そんなふうに言って、手を差し出してくれた。

 今日もきっと、そうしてくれる。
 ――そう思うだけで、胸の忙しさが少しだけ落ち着くのだから。

 私は、変わらない。

 彼に会うと、子どもの自分に戻ってしまう。



 王都の会場は、星脈に沿って建てられた古い宮殿だった。
 天井の高いホールには、灯りがいくつも浮かび、壁に掛けられた織物の金糸が、ゆっくりと光を返している。

 貴族たちの笑い声は柔らかい。
 けれど、柔らかいだけではないことを、私は知っている。

 言葉の間に、測るような沈黙がある。
 視線の端で、比較されている気配がある。

 私は背筋を伸ばした。
 足元が少しだけ揺れる。

「――エリシア・ヴァレリス侯爵令嬢」

 名前が呼ばれた。
 私は一歩前に出ようとして、ほんの少しだけ躊躇した。

 “皆の前”へ。

 その瞬間、隣に影が差す。

「行こう」

 低い声。落ち着いているのに、どこか静かに熱を含む声。
 私は振り向かなくてもわかった。

 レオンハルトさま。

 会う前から、きっとどこかにいるとわかっていたのに、実際に声が届くと身体が安堵してしまう。
 情けないほどに。

「……ありがとうございます」

 私は言いながら、自分の口調がいつもより丁寧になっていることに気づいた。
 子どものころは、もっと無防備に「レオン!」と呼んでいたのに。

「緊張している」

 彼が、まるで天気の話をするみたいに言う。

「していません」

「している」

「……少しだけです」

「それなら、少しだけで済むようにする」

 その言葉が、私の胸の奥にすっと入ってくる。
 彼はいつもそうだ。私の“頑張り”を奪わない。
 奪わないまま、楽にしてくれる。

 私は、ゆっくり息を吐いた。

「レオンハルトさまは……こういう場所、平気ですか?」

「仕事だ」

「ずるい答え」

「正しい答えだ」

 彼は少しだけ口元を緩めた。笑ったのだとわかる程度に。
 その“わずか”が、私には眩しい。

 名前を告げ、礼をして、形式の挨拶を終える。
 上手くできたと思う。母が後ろで小さく頷いたのが見えた。

 次に、視線が流れ込む。

「――あら。結界魔術師殿下の右腕、レオンハルトさまでは」

 誰かが口にした瞬間、周囲の空気がふっと変わる。
 注目が集まる。

 彼の肩書きは、この場では“強い”。
 私は少しだけ息を止めてしまった。

 その気配に、レオンハルトさまが私より先に気づく。

 彼は、私の前へ出ない。
 半歩だけ、後ろに下がる。

 ――いつも通り。

 彼が前に出れば、注目はすべて彼へ集まり、私は“守られた人”になってしまう。
 後ろに下がれば、私は“自分の足で立つ人”でいられる。

 それは、優しさだ。
 彼の優しさは、目立たない。

「侯爵令嬢をお連れとは、さすがですね」

 意味ありげな声が混じる。
 私は笑顔を崩さずに言う。

「幼いころからお世話になっております。――兄のように、慕っている方です」

 言ってから、少しだけ自分の喉が乾いた。
 この言葉は、私の中では最も安全な言葉だ。

 恋ではない。
 憧れで、尊敬で、恩がある。

 そう、私は思っている。

 だから、これ以上は何も揺れないはずだ。

 なのに。

 私の言葉を聞いたレオンハルトさまの瞳が、一瞬だけ――ほんの一瞬だけ、静かに揺れた。

 金糸の光が映ったのかと思うほどの、小さな揺れ。
 けれど私は確信してしまう。

 今、彼は。

 何かを、飲み込んだ。

「……そうか」

 彼はそれだけを言って、表情を崩さない。
 崩さないまま、私の隣に立つ。

 ――“半歩後ろ”で。

 その距離が、なぜか急に遠く感じた。



 舞踏の時間になり、令嬢たちは次々と踊りへ誘われていく。
 私は壁際で、静かに会釈を返していた。

 踊りたくないわけではない。
 ただ、最初の一曲を誰と踊るかで、いろいろな意味が生まれてしまう。

 私は、まだ意味を増やす覚悟がない。

 ……覚悟?

 私は自分の心の言葉に驚いた。

 誰に見せる覚悟?
 何の意味を増やす覚悟?

 そんなふうに考えること自体が、今日は慣れていない。

「踊らないのか」

 レオンハルトさまが、さりげなく聞いた。

「踊ります。……いつか」

「いつか、では今日の音楽が可哀想だ」

「音楽に謝るのは、難易度が高いです」

「なら、音楽のために踊る」

 そう言って、彼が手を差し出した。
 私は一瞬、固まってしまう。

 ――彼と?

 初めての舞踏会の一曲目を?

 心臓が、ほんの少しだけ強く鳴った。

「でも、レオンハルトさまは……」

「仕事だ」

 また同じ答え。
 なのに、なぜだろう。今度は少しだけ、ずるいと思った。

「……仕事なら、仕方ないですね」

 私は彼の手を取った。
 冷たい指先ではない。むしろ温かい。
 けれど、その温かさが、皮膚の上に残ってしまいそうで怖い。

 床へ出る。
 音楽が、私の息を整える。

 彼の腕は強くない。
 強くないのに、逃げられない。

 私の歩幅が乱れれば、彼は合わせる。
 私が慌てれば、彼は落ち着かせる。

 それは、いつもの彼だ。
 “兄のようなひと”のままの彼だ。

 なのに。

「――上手くなった」

 耳元で囁くように言われ、私は思わず顔を上げてしまった。

「何がですか」

「君の、世界の歩き方」

 胸の奥が、ふっと熱くなる。
 褒められたから? 尊敬する方に認められたから?

 ……うん。きっとそれだ。

 私は笑った。

「ありがとうございます。レオンハルトさまのおかげです」

「違う」

 即答だった。
 彼は一度も顔色を変えないまま、ただ言う。

「君が、君の足で歩いたからだ」

 その言葉は、優しすぎた。
 私は、目の奥が少しだけ痛くなってしまう。

 どうしてこんなに。
 どうして彼は、私のことを大切に扱うのだろう。

 私は彼に恩がある。
 だから、大切にされて当然だ。

 そう思うのに、胸の奥の熱は、恩の形をしていない気がした。

 私は、視線を落とす。
 彼の衣の端が、音楽に合わせて揺れている。

 そして私は気づく。

 彼は、私を見ている。
 ずっと。
 “誰かの令嬢”ではなく、“エリシア”を。

 それが急に怖くなった。

 私は、知らないふりをした。
 知らないふりをしてしまえば、今まで通りでいられるから。

「……レオンハルトさま」

「なに」

「今日は、ありがとうございます。私、……少しだけ安心しました」

 安心。
 その言葉は本当だった。

 でも、胸の奥が熱いのも本当だった。

「そうか」

 彼はそれだけ言う。
 それ以上、何も言わない。

 歩幅を守る人の沈黙だ。

 私は、その沈黙に守られながら、初めて思ってしまう。

 ――もしも。

 もしも私が、いつか。
 この人を“兄のようなひと”ではない言葉で呼んでしまったら。

 彼は、どんな顔をするのだろう。

 音楽が終わる。
 拍手が起こる。

 彼は私の手を離す前に、ほんの一瞬だけ、指先を包み込むように握った。

 強くない。
 逃げられない。

「……転ばなかったな」

 彼が小さく言う。
 私は思わず笑った。

「転びません。アデルに脅されましたから」

「良い侍女だ」

「はい。……でも」

「でも?」

 私は言いかけて、止めた。

 “でも、あなたがいたからです”
 その言葉を言ってしまったら、何かが増えてしまいそうだったから。

 増える意味が、怖かったから。

 私は笑顔のまま、答えを変えた。

「でも、少しだけ……足が震えています」

「なら、今日はよくやった」

 それだけ。

 それだけで、私の胸はまた熱くなる。

 私はこの熱を、まだ知らない。
 まだ、“尊敬”の箱に入れてしまう。

 けれど、その箱は、今日――ほんの少しだけ、きしんだ。

(つづく)
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