初恋の名前

星乃和花

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第2話:半歩、後ろの誓い

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 舞踏会の翌朝、私は少しだけ早く目が覚めた。

 目が覚めた、というより――胸の奥の“熱”が、まだ残っていたのだと思う。
 昨夜の光、音楽、拍手、そして、最後に指先を包まれた感覚。

 それらが、夢のように薄れていくのが惜しくて、私は布団の中でじっとしていた。

 ……尊敬する人と踊っただけ。
 初めての舞踏会で、緊張をほどいていただいただけ。

 私は自分に言い聞かせて、ようやく起き上がった。



「お嬢さま、顔が“ふにゃ”っとしています」

 アデルが、朝の紅茶を置きながら言った。

「ふにゃ……?」

「昨夜、幸せでしたね?」

 私は咳き込みそうになった。

「そ、そんな……舞踏会ですもの。誰だって――」

「誰だって“指先の握られ方”まで覚えません」

「……っ」

 私は黙った。
 アデルは満足そうに頷いた。

「大丈夫です。お嬢さま、賢いので“尊敬”の箱にしまい込むのが上手ですから」

「アデル」

「褒めてます」

 褒め言葉の使い方が間違っている。
 そう言いたかったのに、口がうまく動かなかった。

 昨夜のあの一瞬。
 指先を包まれたとき、私は確かに――“逃げられない”と思った。

 怖い、ではない。
 嫌、でもない。

 ただ、あまりに静かで、あまりに決定的で、心が置いていかれたみたいだった。

「……今日は何か予定が?」

 話題を変えるように言うと、アデルは、まるでそれを待っていたみたいに紙を差し出した。

「王宮からです。結界点検の同行依頼。お父上が承諾されています」

「結界点検……?」

 手紙の封蝋には、王都の紋章と、結界魔術師団の印。
 目が自然と、その下の署名に吸い寄せられる。

 ――レオンハルト・アルヴェーン。

 胸の奥が、昨夜と同じ場所で小さく鳴った。

「お嬢さま、行きます?」

「……行くわ」

 自分で言って、自分でも驚いた。
 けれど、行かないという選択肢が、最初から存在しない気がした。

 私は、まだ知らない。
 この“当然”が、どこから来るのかを。



 王宮の結界管理区画は、思っていたよりも静かだった。

 豪奢な廊下から、ひとつ扉をくぐるだけで空気が変わる。
 石壁は装飾が少なく、床の模様は実用のために引かれている。
 灯りも控えめで、代わりに――薄い光の筋が、空中をゆっくり流れていた。

「星脈の流れだ」

 背後で声がした。
 私は振り向く前に、胸が先に落ち着いた。

「レオンハルトさま」

 彼はいつも通り、淡い色の外套を羽織っている。
 どこまでも静かな雰囲気。
 なのに、目が合うと、私は一瞬だけ言葉を忘れる。

 昨夜と同じ人なのに。
 昨夜とは違う場所だからか。
 それとも、私の中の“箱”が、まだきしんでいるからか。

「来てくれて助かる」

「私は……何かお役に立てますか?」

「君の魔力は、結界の“揺れ”を感じ取りやすい。点検の補助になる」

 仕事の話。
 仕事の言葉。
 それだけで、胸の熱は少し落ち着く。

「……はい。頑張ります」

「頑張らなくていい。感じたら、言えばいい」

 昨夜と同じ。
 私の“頑張り”を奪わず、私の“負担”だけ減らす言い方。

 私は頷いて、彼の隣に立った。

 ――隣。
 そう、隣だ。

 なのに、彼は一歩、後ろへ引く。

 半歩。

 私が歩き出すと、彼も歩く。
 けれど、前には出ない。
 道を示さない。
 ただ、危ない箇所だけを静かに塞いでいく。

 そんな歩き方だった。



 結界点検は、思っていた以上に“地味”だった。

 水晶板に映る光の波形。
 壁の紋様に触れて、魔力の引っかかりを確かめる。
 扉の隙間に流れる微かな冷気を読み取る。

 華やかさはない。
 けれど、確実に王都を支えている仕事だ。

「……ここ、少しだけ……」

 私は途中で足を止めた。
 石壁に触れた指先が、ぴり、とした。

「揺れた?」

 レオンハルトさまが、すぐに近づく。
 近づくけれど、肩が触れない距離で止まる。

 その“止まり方”が、胸にくる。

「はい。すごく小さいけれど、……薄い紙が震えるみたいな」

 自分でも妙な例えだと思った。
 けれど彼は笑わない。

「いい。正しい。……薄い場所だ」

 彼は指輪を外し、紋様に指先を当てた。
 空気が静かに張り詰める。

 光の筋が、彼の指先に集まっていく。
 彼はそれを、力でねじ伏せない。

 ただ、整えている。

 ――“調律”。

 私は、見惚れてしまった。

 彼の仕事は、強さではなく、丁寧さだ。
 王都を守る結界の要所を預かりながら、彼は声を荒げず、誰かを叱らず、何かを誇らない。

 彼はいつも、淡々と。

 淡々と、誰かを守っている。

「……すごい」

 私の口から零れた。

 褒め言葉が遅れて出たみたいに、少し恥ずかしい。
 でも、言わずにいられなかった。

 レオンハルトさまは、光の流れを落ち着かせながら言った。

「君の言葉が、正確だったからだ」

「また、そういう……」

 私は思わず笑ってしまう。
 彼は、自分の手柄を自分のものにしない。

 それが、彼の“品”なのだと思う。

 ……品。

 そう、尊敬できる素敵な男性だから。
 私は彼を慕っている。

 恋じゃない。

 私は、胸の熱がまた上がるのを感じながら、必死にその言葉を繰り返した。



 点検の帰り道、王宮の中庭を横切った。

 冬の空気は澄んでいて、噴水の水面が薄く凍りかけている。
 それを見ていると、昨夜の灯りと金糸の光が、遠い夢みたいに思えた。

「寒いか」

 彼が言った。

「いえ、大丈夫です」

「嘘だ」

「……少しだけです」

「なら」

 彼は外套を脱ぎかけて、止まった。

 止まるのが、早すぎた。
 まるで、私の心の“許可”を先に確認するみたいに。

「……着るか」

 私は、喉の奥がきゅっとなった。

 昨夜の“指先”が蘇る。
 逃げられない、ではない。
 逃げたくない、でもない。

 ただ、私はまだ――この人の優しさを受け取る器の形を知らない。

「だ、大丈夫です。歩けば温まりますから」

 私は笑顔を作って言った。

 彼はそれ以上、押してこない。
 押してこないまま、少しだけ歩幅を落とす。

 私に合わせて。

 私は気づく。

 外套を渡すことより、歩幅を合わせることのほうが、彼にとって自然なのだ。

 だから彼はいつも、半歩後ろで。

 私の世界の速度を守る。

「レオンハルトさま」

「なに」

「……どうして、そんなに……」

 言いかけて、私は止めた。
 “どうしてそんなに大切にしてくださるのですか”
 そう続けたら、何かが増えてしまいそうだった。

 彼は私が黙ったことを責めない。
 ただ、静かに待つ。

 その沈黙が、今は痛い。
 優しすぎて、痛い。

 私は言葉を変えた。

「どうしてそんなに、上手に待てるんですか」

 彼は、少しだけ目を細めた。

「待つのは、上手いほうがいい」

「……どうして?」

 彼は答えをすぐに出さなかった。
 中庭の冷たい空気の中で、息が白くほどける。

「急いで言う言葉ほど、壊れやすい」

 淡々とした声。
 けれど、そこには確かに“経験”があった。

 私は、胸の奥が少しだけ沈むのを感じた。

 彼にも、壊れた言葉があるのだろうか。

 そのとき、遠くで誰かが私たちを見ている気配がした。
 王宮の廊下の影。
 視線が一瞬、刺さる。

 私は身を硬くした。

 レオンハルトさまが、私より先にそれに気づく。

 彼は前に出ない。
 前に出ず――ただ、角度を変えた。

 私とその視線の間に、自然に立つ。

 半歩。

 見えない盾みたいに。

「……今の、誰か……」

「気にしなくていい」

「でも」

「君が気にする必要はない。君の世界に入れるかどうかは、君が決める」

 私は息を止めた。

 彼は、私の“守り方”が、いつもこうなのだ。
 守る。
 でも、選ばせる。

 私は、胸の熱がまた戻ってくるのを感じた。
 尊敬の箱が、またきしむ。

 ――この人は、私のことを、どんなふうに見ているのだろう。

 その問いが、初めて“問い”として立ち上がった。

 私はまだ答えを出さない。
 出せない。

 ただ、気づいてしまった。

 半歩後ろの誓いは、私のためだけにある。
 それが、怖いほどに、嬉しい。

(つづく)
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