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第一話 婚約は晴天、心は観測開始
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――わたしは、婚約者の前髪の角度に感心していた。
王都でも評判の理想紳士、ローラン・エヴァンス様は、今朝も小さな笑みが反則級に上手い。反則なのに、許せる。いいえ、むしろもっとやってください、という気持ちになる。
「イリス。視線が…あの、少し、熱い」
「失礼しました。今日の前髪、とても可愛いですね」
「か、可愛い……?」
耳がうっすら赤く染まる。はい、ここが“可愛い”の二段活用だ。
外ではわたしたちは“理想の美男美女”。姿勢よく並び、微笑みの角度も、挨拶の間合いも完璧。けれど内側は、研究と実験でできている。
「本日の議題は“婚約者デートレビュー表”の導入です」
「議題……!」
朝のサロン。窓辺の椅子に腰かけ、わたしは鞄から紙束を取り出した。
――デートレビュー表。手書きの表には項目が並ぶ。
・共歩速度/速・中・ゆっくり
・会話の温度/冷・常・温・熱
・紅茶の甘さ/無・控・普・甘
・ひだまり時間の確保/分
・安心メーター/0%~100%
・可愛いの自己申告欄/( )可愛い
「……最後の欄、必要かな?」
「必要です。可愛いの自己認知は、幸福度と相関があるはずですから」
「自己申告、か……勇気がいるね」
ローラン様は前髪をそっと整えた。
その仕草すら可愛い。わたしは“可愛い観測メモ”に小さく丸を足す。
「不確かなものは苦手です。だから、できるだけ測ります。わたし、実験が好きなので」
「うん。君は研究者だ。僕は……」
反則の微笑みが、少しだけ揺れた。
それは“理想の紳士”が理想だけで立っていない証拠の笑顔。
わたしの胸のどこかが、ふっと温かくなる。
「僕は、君の“温度”が知りたい。測れることは協力するよ」
「ありがとうございます。ではまず、共歩速度の基準を――」
ちょうどその時、執事が扉をノックした。「お二人、表門に同盟商会の使いが。今朝の視察の件で」
「行きましょう。レビュー表の実地試験にもなります」
「実地……?」
ローラン様の目がぱちぱちと瞬いた。可愛い。わたしはペンを走らせ、“可愛い:外出前に二回”と記入する。
*
表に出れば、わたしたちは“理想”の顔をする。
石畳に影が二つ。王都の朝は、香草とパンの匂い。
商会の若者が慌てて帽子を抑えた。「エヴァンス様、ラベンダ様、本日は——」
「お招きありがとう。簡潔に伺おう。新しい香草の輸送箱の件だね?」
ローラン様は公務中の声色に切り替え、自然に「私」に変わる。
(内側の呼び方は“僕”だと知っているけど、外では“私”。この切り替えが上手いのも、彼の長所だ)
わたしは隣で資料を確認する。輸送箱の木材に含まれる精油が、香草の香りと反応して変質する可能性がある。それを避けるための内張り——。
「イリス、意見を——あ、いや、ラベンダ様。ご意見をお聞かせいただけますか」
「内側は麻紙、もしくは蜜蝋でコーティングした布が適切です。通気性の微調整もできます。費用対効果は——」
商会の若者が目を輝かせた。ローラン様は静かに頷き、書記官にメモを促す。
わたしたちは、外向きの“理想”を崩さず、同時に内側の呼吸で会話する。
「歩幅、合わせられてる?」
小声でローラン様が囁いた。
「はい。ぴったりです。評価は“中”」
「“ゆっくり”は、どうだろう」
わたしは少し微笑み、彼の手の甲に触れた。人には見えない角度で、ほんの一瞬。
「レビュー表に“手の甲タッチ時の心拍”を追加します」
「追加、早いね」
「変化は、逃さない主義です」
彼の喉が小さく鳴る。
わたしは、心の中でだけ“可愛い”と三回唱えた。
*
午前の視察が終わると、王立庭園への近道を選んだ。
光が葉の上で跳ね、砂利がさらさら鳴る。わたしは日向のベンチを見つけると、ローラン様の袖をつまむ。
「ここ、座りませんか。ひだまり時間、記録したいので」
「うん。僕も、君と日向を共有したい」
並んで腰かける。
外では“理想の美男美女”。内側では、ただの人間として呼吸をそろえる。
「……イリス」
「はい?」
「君が、僕の前でよく笑ってくれるから、たぶん僕は、君に可愛いと言われるのが怖くなくなった」
「怖かったのですか?」
「少し。僕は——」
彼は言いよどみ、視線を落とす。
陽だまりが彼の睫毛を透かして、金色のほこりみたいに光る。
「僕は、きれいにしていたい。君の隣にいるなら、なおさらね。けど、きれいにしている自分って、時々、薄っぺらく見えないかなって」
わたしは首を振った。
「ローラン様。あなたがこだわるのは、誰かに見せるためだけじゃないでしょう。あなた自身が、あなたを好きでいるためでしょう。わたしは、それがとても好きです」
「……イリス」
今度の笑みは、反則というより反則の向こう側だった。
わたしは“会話の温度:温”に丸をつける。
そして、迷った末に、最後の欄を指さした。
「自己申告、どうぞ」
「えっ、今……?」
「ええ。今、です」
ローラン様は少しだけ肩をすくめ、片手で前髪を軽く押さえてから、真剣に紙を見つめる。
そして、恥ずかしそうに、けれど逃げずに、ペンを取った。
( )可愛い → ( ちょっと可愛い )
「控えめですね」
「最大値は……いつか、君に書いてほしいから」
胸の奥が、かすかに痛んで、すぐに温かさに変わった。
“わたしが選んだ人”という事実が、ひだまりの匂いを連れてくる。
「では、次の測定です。紅茶の甘さ」
「ここで?」
「はい。実験は熱いうちに」
わたしは小さな砂糖壺を取り出し、紙包みを一つ、彼の掌に置いた。
彼は笑って、砂糖を割る。ぱき、と音がして、鳥が飛び立つ。
甘さは半分ずつ。たぶん、これくらいがちょうどいい。
王都でも評判の理想紳士、ローラン・エヴァンス様は、今朝も小さな笑みが反則級に上手い。反則なのに、許せる。いいえ、むしろもっとやってください、という気持ちになる。
「イリス。視線が…あの、少し、熱い」
「失礼しました。今日の前髪、とても可愛いですね」
「か、可愛い……?」
耳がうっすら赤く染まる。はい、ここが“可愛い”の二段活用だ。
外ではわたしたちは“理想の美男美女”。姿勢よく並び、微笑みの角度も、挨拶の間合いも完璧。けれど内側は、研究と実験でできている。
「本日の議題は“婚約者デートレビュー表”の導入です」
「議題……!」
朝のサロン。窓辺の椅子に腰かけ、わたしは鞄から紙束を取り出した。
――デートレビュー表。手書きの表には項目が並ぶ。
・共歩速度/速・中・ゆっくり
・会話の温度/冷・常・温・熱
・紅茶の甘さ/無・控・普・甘
・ひだまり時間の確保/分
・安心メーター/0%~100%
・可愛いの自己申告欄/( )可愛い
「……最後の欄、必要かな?」
「必要です。可愛いの自己認知は、幸福度と相関があるはずですから」
「自己申告、か……勇気がいるね」
ローラン様は前髪をそっと整えた。
その仕草すら可愛い。わたしは“可愛い観測メモ”に小さく丸を足す。
「不確かなものは苦手です。だから、できるだけ測ります。わたし、実験が好きなので」
「うん。君は研究者だ。僕は……」
反則の微笑みが、少しだけ揺れた。
それは“理想の紳士”が理想だけで立っていない証拠の笑顔。
わたしの胸のどこかが、ふっと温かくなる。
「僕は、君の“温度”が知りたい。測れることは協力するよ」
「ありがとうございます。ではまず、共歩速度の基準を――」
ちょうどその時、執事が扉をノックした。「お二人、表門に同盟商会の使いが。今朝の視察の件で」
「行きましょう。レビュー表の実地試験にもなります」
「実地……?」
ローラン様の目がぱちぱちと瞬いた。可愛い。わたしはペンを走らせ、“可愛い:外出前に二回”と記入する。
*
表に出れば、わたしたちは“理想”の顔をする。
石畳に影が二つ。王都の朝は、香草とパンの匂い。
商会の若者が慌てて帽子を抑えた。「エヴァンス様、ラベンダ様、本日は——」
「お招きありがとう。簡潔に伺おう。新しい香草の輸送箱の件だね?」
ローラン様は公務中の声色に切り替え、自然に「私」に変わる。
(内側の呼び方は“僕”だと知っているけど、外では“私”。この切り替えが上手いのも、彼の長所だ)
わたしは隣で資料を確認する。輸送箱の木材に含まれる精油が、香草の香りと反応して変質する可能性がある。それを避けるための内張り——。
「イリス、意見を——あ、いや、ラベンダ様。ご意見をお聞かせいただけますか」
「内側は麻紙、もしくは蜜蝋でコーティングした布が適切です。通気性の微調整もできます。費用対効果は——」
商会の若者が目を輝かせた。ローラン様は静かに頷き、書記官にメモを促す。
わたしたちは、外向きの“理想”を崩さず、同時に内側の呼吸で会話する。
「歩幅、合わせられてる?」
小声でローラン様が囁いた。
「はい。ぴったりです。評価は“中”」
「“ゆっくり”は、どうだろう」
わたしは少し微笑み、彼の手の甲に触れた。人には見えない角度で、ほんの一瞬。
「レビュー表に“手の甲タッチ時の心拍”を追加します」
「追加、早いね」
「変化は、逃さない主義です」
彼の喉が小さく鳴る。
わたしは、心の中でだけ“可愛い”と三回唱えた。
*
午前の視察が終わると、王立庭園への近道を選んだ。
光が葉の上で跳ね、砂利がさらさら鳴る。わたしは日向のベンチを見つけると、ローラン様の袖をつまむ。
「ここ、座りませんか。ひだまり時間、記録したいので」
「うん。僕も、君と日向を共有したい」
並んで腰かける。
外では“理想の美男美女”。内側では、ただの人間として呼吸をそろえる。
「……イリス」
「はい?」
「君が、僕の前でよく笑ってくれるから、たぶん僕は、君に可愛いと言われるのが怖くなくなった」
「怖かったのですか?」
「少し。僕は——」
彼は言いよどみ、視線を落とす。
陽だまりが彼の睫毛を透かして、金色のほこりみたいに光る。
「僕は、きれいにしていたい。君の隣にいるなら、なおさらね。けど、きれいにしている自分って、時々、薄っぺらく見えないかなって」
わたしは首を振った。
「ローラン様。あなたがこだわるのは、誰かに見せるためだけじゃないでしょう。あなた自身が、あなたを好きでいるためでしょう。わたしは、それがとても好きです」
「……イリス」
今度の笑みは、反則というより反則の向こう側だった。
わたしは“会話の温度:温”に丸をつける。
そして、迷った末に、最後の欄を指さした。
「自己申告、どうぞ」
「えっ、今……?」
「ええ。今、です」
ローラン様は少しだけ肩をすくめ、片手で前髪を軽く押さえてから、真剣に紙を見つめる。
そして、恥ずかしそうに、けれど逃げずに、ペンを取った。
( )可愛い → ( ちょっと可愛い )
「控えめですね」
「最大値は……いつか、君に書いてほしいから」
胸の奥が、かすかに痛んで、すぐに温かさに変わった。
“わたしが選んだ人”という事実が、ひだまりの匂いを連れてくる。
「では、次の測定です。紅茶の甘さ」
「ここで?」
「はい。実験は熱いうちに」
わたしは小さな砂糖壺を取り出し、紙包みを一つ、彼の掌に置いた。
彼は笑って、砂糖を割る。ぱき、と音がして、鳥が飛び立つ。
甘さは半分ずつ。たぶん、これくらいがちょうどいい。
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