31 / 51
第九話 “不確か”に触れる指
しおりを挟む
(イリス視点)
予報どおり、昼前から雨。
日向の控え室に、今日は雨仕様の三式を置いた。
・五分砂時計(雨音版/ガラス厚手)
・“今の気持ち三行”カード(耐水)
・ハンドクリーム(しっとり)
・星柄の傘(内側が淡い金糸)
・防水星絆創膏(可愛い・強粘着)
黒板の式のすみに、ちいさく書き足す。
H = …… + R + L + V + W
※W = Weather(天気の機嫌)。生活に使える“空模様の揺れ”。
扉が開き、クリーム色の傘が花みたいにたたまれた。
ローラン様だ。前髪は雨対応角度、完璧。コートの襟に雨粒が二つ。
「濡れてませんか」
「少しだけ。君のところに来る途中で、星絆創膏が雨に勝てるか試した」
手の甲に、星がちゃんと貼りついている。
(可愛い)
わたしは思わず微笑み、「可愛いですね」と言ってから、ハンドタオルで襟の水をそっと拭いた。
「今日は雨座です。五分、並んで座って、雨の音を聞きます」
「了解。——ね、雨って“戻ると決めて待つ”の練習台だよね」
「それ、採択です」
砂時計をひっくり返す。
落ちる砂と雨音が重なって、部屋の温度が“しっとり”に調整される。
五分の間に、胸の奥のJ(揺れ)が浮かんでくる。
学会まで、あと少し。薄膜化のデータは安定。うまくいっている。
なのに——ひだまりに座っている今、ふいにさびしい。
(自分で選んだ人との婚約で、こんなにも愛おしく思える幸せを前に、どうしてさびしく思うのだろう)
砂が落ちきった。
「イリス?」
ローラン様の声が、雨の内側でやわらかい。「君の三行は?」
(逃げない)
わたしは耐水カードに書いた。
今の気持ち三行(イリス)
1. 幸せと、少しのさびしさが同居
2. 理由はまだ測れない
3. でも、あなたの気持ちを、求めてしまう自分がいる
書き終えて、胸がすこし痛む。
(わたしは、不確かなものが苦手なのに——いちばん不確かな“心”を欲している)
ローラン様はカードを受け取り、目を通すと、ゆっくり“うん”と頷いた。
ポケットから自分のカードを出し、さらさらと書く。
今の気持ち三行(ローラン)
1. 君の“求める”を、怖がらず受けたい
2. 証明はできないけど、毎日の形にできる
3. 今、君のさびしさを“ここに置いていっていい”と思ってる
胸の真ん中で、きゅ、と音がした。
(※観測:A↑、S↑、雨のWは緩やか)
「証明の代わりに、毎日の形?」
「うん。——夜の三行、増やしてもいい? “おやすみ三行”」
彼はもう一枚カードを出して見せた。
おやすみ三行(提案)
① 今日の君への“ありがとう”
② 今日の“好き”を一つ
③ 明日の“選び直し”の宣言
(危ない。泣くのはまだ早い)
雨音が、さびしさの輪郭をやわらかく撫でる。
わたしは頷いた。
「採択します。ただし——生活に使える運用のため、①~③のうち最低一つで可。無理な日は星🟊だけ」
「了解。星既読で“愛は続行中”を伝える」
可愛い。
息が少し深くなったのを自覚する。
*
市場へ向かう用事があり、わたしたちは傘の内側に入った。
共歩速度は“ゆっくり”。肩が自然に触れる距離。
石畳に跳ねた水が、スカートの裾に点を描く。
「雨用の指標、作ります」
わたしは傘を持つローラン様の肘に軽く触れながら、口に出した。
「① 内側距離(肩の接触秒数) ② 呼吸の同期回数 ③ 傘縁の滴・共有観測」
「“共有観測”って可愛いね」
「事実です。——あ、止まってください。滴、三つ、同時に落ちました」
「統計取るの?」
「生活に使える程度に」
笑い合って、傘の中が明るくなる。
そんな時だった。
路地に出た風が、横から吹いて、傘が少し傾いた。
わたしの耳元に、冷たい水が一滴。
「——」
反射で身をすくめた瞬間、ローラン様の指がためらいなくわたしの耳の後ろに触れ、濡れた髪をそっと払った。
“不確か”に触れる指。
体温が、一度だけ、確かに“そこ”に落ちる。
「ごめん。冷たかった?」
「……大丈夫です。——可愛いですね」
言ったそばから、胸の奥が、測れないで熱を持つ。
可愛い、で包むのはわたしのやり方。
でも、今はそれだけでは足りない気がした。
「ローラン様」
「うん」
「……言葉が、欲しいです」
雨の音に助けられて、やっと言えた。
「あなたの気持ち。完璧な証明ではなくていい。今日の分で」
彼は少し黙り、傘の柄を握り直した。
指の節が、控えめに白い。
そして、三行で言った。
「今日の僕は、君の耳に落ちた一滴を、自分ごとに感じた。
今日の僕は、君のさびしさに、椅子を差し出した。
今日の僕は、君の“可愛いですね”で、生還した。」
雨の内側で、心拍がふっと落ち着く。
(※観測:A↑、C↑、J↓、W—傘の内側で安定)
「ありがとうございます。今夜、おやすみ三行をください」
「送る。君も、無理な日は星で」
「はい」
わたしたちは市場で必要なものを買い、雨の匂いを連れて屋敷へ戻った。
予報どおり、昼前から雨。
日向の控え室に、今日は雨仕様の三式を置いた。
・五分砂時計(雨音版/ガラス厚手)
・“今の気持ち三行”カード(耐水)
・ハンドクリーム(しっとり)
・星柄の傘(内側が淡い金糸)
・防水星絆創膏(可愛い・強粘着)
黒板の式のすみに、ちいさく書き足す。
H = …… + R + L + V + W
※W = Weather(天気の機嫌)。生活に使える“空模様の揺れ”。
扉が開き、クリーム色の傘が花みたいにたたまれた。
ローラン様だ。前髪は雨対応角度、完璧。コートの襟に雨粒が二つ。
「濡れてませんか」
「少しだけ。君のところに来る途中で、星絆創膏が雨に勝てるか試した」
手の甲に、星がちゃんと貼りついている。
(可愛い)
わたしは思わず微笑み、「可愛いですね」と言ってから、ハンドタオルで襟の水をそっと拭いた。
「今日は雨座です。五分、並んで座って、雨の音を聞きます」
「了解。——ね、雨って“戻ると決めて待つ”の練習台だよね」
「それ、採択です」
砂時計をひっくり返す。
落ちる砂と雨音が重なって、部屋の温度が“しっとり”に調整される。
五分の間に、胸の奥のJ(揺れ)が浮かんでくる。
学会まで、あと少し。薄膜化のデータは安定。うまくいっている。
なのに——ひだまりに座っている今、ふいにさびしい。
(自分で選んだ人との婚約で、こんなにも愛おしく思える幸せを前に、どうしてさびしく思うのだろう)
砂が落ちきった。
「イリス?」
ローラン様の声が、雨の内側でやわらかい。「君の三行は?」
(逃げない)
わたしは耐水カードに書いた。
今の気持ち三行(イリス)
1. 幸せと、少しのさびしさが同居
2. 理由はまだ測れない
3. でも、あなたの気持ちを、求めてしまう自分がいる
書き終えて、胸がすこし痛む。
(わたしは、不確かなものが苦手なのに——いちばん不確かな“心”を欲している)
ローラン様はカードを受け取り、目を通すと、ゆっくり“うん”と頷いた。
ポケットから自分のカードを出し、さらさらと書く。
今の気持ち三行(ローラン)
1. 君の“求める”を、怖がらず受けたい
2. 証明はできないけど、毎日の形にできる
3. 今、君のさびしさを“ここに置いていっていい”と思ってる
胸の真ん中で、きゅ、と音がした。
(※観測:A↑、S↑、雨のWは緩やか)
「証明の代わりに、毎日の形?」
「うん。——夜の三行、増やしてもいい? “おやすみ三行”」
彼はもう一枚カードを出して見せた。
おやすみ三行(提案)
① 今日の君への“ありがとう”
② 今日の“好き”を一つ
③ 明日の“選び直し”の宣言
(危ない。泣くのはまだ早い)
雨音が、さびしさの輪郭をやわらかく撫でる。
わたしは頷いた。
「採択します。ただし——生活に使える運用のため、①~③のうち最低一つで可。無理な日は星🟊だけ」
「了解。星既読で“愛は続行中”を伝える」
可愛い。
息が少し深くなったのを自覚する。
*
市場へ向かう用事があり、わたしたちは傘の内側に入った。
共歩速度は“ゆっくり”。肩が自然に触れる距離。
石畳に跳ねた水が、スカートの裾に点を描く。
「雨用の指標、作ります」
わたしは傘を持つローラン様の肘に軽く触れながら、口に出した。
「① 内側距離(肩の接触秒数) ② 呼吸の同期回数 ③ 傘縁の滴・共有観測」
「“共有観測”って可愛いね」
「事実です。——あ、止まってください。滴、三つ、同時に落ちました」
「統計取るの?」
「生活に使える程度に」
笑い合って、傘の中が明るくなる。
そんな時だった。
路地に出た風が、横から吹いて、傘が少し傾いた。
わたしの耳元に、冷たい水が一滴。
「——」
反射で身をすくめた瞬間、ローラン様の指がためらいなくわたしの耳の後ろに触れ、濡れた髪をそっと払った。
“不確か”に触れる指。
体温が、一度だけ、確かに“そこ”に落ちる。
「ごめん。冷たかった?」
「……大丈夫です。——可愛いですね」
言ったそばから、胸の奥が、測れないで熱を持つ。
可愛い、で包むのはわたしのやり方。
でも、今はそれだけでは足りない気がした。
「ローラン様」
「うん」
「……言葉が、欲しいです」
雨の音に助けられて、やっと言えた。
「あなたの気持ち。完璧な証明ではなくていい。今日の分で」
彼は少し黙り、傘の柄を握り直した。
指の節が、控えめに白い。
そして、三行で言った。
「今日の僕は、君の耳に落ちた一滴を、自分ごとに感じた。
今日の僕は、君のさびしさに、椅子を差し出した。
今日の僕は、君の“可愛いですね”で、生還した。」
雨の内側で、心拍がふっと落ち着く。
(※観測:A↑、C↑、J↓、W—傘の内側で安定)
「ありがとうございます。今夜、おやすみ三行をください」
「送る。君も、無理な日は星で」
「はい」
わたしたちは市場で必要なものを買い、雨の匂いを連れて屋敷へ戻った。
0
あなたにおすすめの小説
辺境国の第三王皇女ですが、隣国に宣戦布告されたので後宮に乗り込んでやりましたが、陰謀に巻き込まれました
ととせ
恋愛
辺境の翠国(すいこく)の第三王女、美蘭(みらん)は突然やってきた焔国(ほむら)の使者の言い分に納得がいかず、侵攻を止める為に単身敵国の後宮に侵入した。
翠国の民だけに代々受け継がれる「魔術」を使い、皇帝に近づこうとするが、思わぬ事態に計画は破綻。
捕まりそうになったその時、次期皇帝を名乗る月冥(げつめい)に助けられ……。
ハッピーエンドのストーリーです。
ノベマ!・小説家になろうに掲載予定です。
冷酷総長は、彼女を手中に収めて溺愛の檻から逃さない
彩空百々花
恋愛
誰もが恐れ、羨み、その瞳に映ることだけを渇望するほどに高貴で気高い、今世紀最強の見目麗しき完璧な神様。
酔いしれるほどに麗しく美しい女たちの愛に溺れ続けていた神様は、ある日突然。
「今日からこの女がおれの最愛のひと、ね」
そんなことを、言い出した。
小公爵様、就寝のお時間です ~没落令嬢、不眠の幼馴染の睡眠記録係になる~
有沢楓花
恋愛
――不眠の小公爵様と睡眠記録係の、純白でふわふわな偽装結婚
アリシア・コベットは、没落伯爵家の長女。
弟妹たちを支えるため、亡き母の親友・ドーソン公爵夫人の侍女として真面目に働いていた。
ある日アリシアは偶然「入ってはいけない部屋」で、豪奢なベッドで眠る男性に「おはよう、僕の可愛い奥さん」と抱きしめられる。
彼は幼馴染で隣国に留学中のはずの長男・フィルだった。
祖母から継いだ予言の力のせいで昔からの不眠が悪化したこともあり、公爵夫妻によって密かに匿われていたのだ。
寝ぼけた彼の発言もあり「予言は夢で見る」というフィル最大の秘密を知ってしまったアリシア。
公爵夫人からのお願いで、不眠症な彼の安眠の実現と、寝言と睡眠状況を記す係――寝室に入れる立場の仮の妻として、偽装結婚をすることに。
「室温と湿度よし、ホットミルクにふわふわお布団。心おきなくお休みになってくださいね」
「昔みたいに僕に羊を数えて欲しいな」
アリシアの工夫の甲斐あって安眠は実現されるかに思えたが……間もなく、フィルの存在が、予言をあてにする王太子たちにばれることになる。
暗号の書かれた手紙と共に、彼らは脅迫する。
「妃と愛妾、いずれに子ができるのか予言せよ。さもなくばアリシア・ドーソンは無実の罪で裁かれるだろう」
そこでフィルは全てを終わりにするために、一計を案じることにし……。
ヒーローはきっちり1から手順を踏むタイプではないので、苦手な方はご注意ください。
この作品は他サイトにも掲載しています。
下賜されまして ~戦場の餓鬼と呼ばれた軍人との甘い日々~
イシュタル
恋愛
王宮から突然嫁がされた18歳の少女・ソフィアは、冷たい風の吹く屋敷へと降り立つ。迎えたのは、無愛想で人嫌いな騎士爵グラッド・エルグレイム。金貨の袋を渡され「好きにしろ」と言われた彼女は、侍女も使用人もいない屋敷で孤独な生活を始める。
王宮での優雅な日々とは一転、自分の髪を切り、服を整え、料理を学びながら、ソフィアは少しずつ「夫人」としての自立を模索していく。だが、辻馬車での盗難事件や料理の失敗、そして過労による倒れ込みなど、試練は次々と彼女を襲う。
そんな中、無口なグラッドの態度にも少しずつ変化が現れ始める。謝罪とも言えない金貨の袋、静かな気遣い、そして彼女の倒れた姿に見せた焦り。距離のあった二人の間に、わずかな波紋が広がっていく。
これは、王宮の寵姫から孤独な夫人へと変わる少女が、自らの手で居場所を築いていく物語。冷たい屋敷に灯る、静かな希望の光。
⚠️本作はAIとの共同製作です。
〘完〙なぜかモブの私がイケメン王子に強引に迫られてます 〜転生したら推しのヒロインが不在でした〜
hanakuro
恋愛
転生してみたら、そこは大好きな漫画の世界だった・・・
OLの梨奈は、事故により突然その生涯閉じる。
しかし次に気付くと、彼女は伯爵令嬢に転生していた。しかも、大好きだった漫画の中のたったのワンシーンに出てくる名もないモブ。
モブならお気楽に推しのヒロインを観察して過ごせると思っていたら、まさかのヒロインがいない!?
そして、推し不在に落胆する彼女に王子からまさかの強引なアプローチが・・
王子!その愛情はヒロインに向けてっ!
私、モブですから!
果たしてヒロインは、どこに行ったのか!?
そしてリーナは、王子の強引なアプローチから逃れることはできるのか!?
イケメン王子に翻弄される伯爵令嬢の恋模様が始まる。
【完結】姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。
猫屋敷 むぎ
ファンタジー
誰もが憧れる勇者と最強の騎士が恋したのは聖女。それは私ではなく、姉でした。
復活した魔王に侯爵領を奪われ没落した私たち姉妹。そして、誰からも愛される姉アリシアは神の祝福を受け聖女となり、私セレナは支援魔法しか取り柄のない白魔導士のまま。
やがてヴァルミエール国王の王命により結成された勇者パーティは、
勇者、騎士、聖女、エルフの弓使い――そして“おまけ”の私。
過去の恋、未来の恋、政略婚に揺れ動く姉を見つめながら、ようやく私の役割を自覚し始めた頃――。
魔王城へと北上する魔王討伐軍と共に歩む勇者パーティは、
四人の魔将との邂逅、秘められた真実、そしてそれぞれの試練を迎え――。
輝く三人の恋と友情を“すぐ隣で見つめるだけ”の「聖女の妹」でしかなかった私。
けれど魔王討伐の旅路の中で、“仲間を支えるとは何か”に気付き、
やがて――“本当の自分”を見つけていく――。
そんな、ちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛、そして私の成長の物語です。
※本作の章構成:
第一章:アカデミー&聖女覚醒編
第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
※「小説家になろう」にも掲載(異世界転生・恋愛12位)
※ アルファポリス完結ファンタジー8位。応援ありがとうございます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる