看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった

星乃和花

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1:倒れた当主と、部屋の灯り

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当主が倒れた日のことを、屋敷の人間はきれいに言い換えた。
「少し、無理が重なっただけです」と。

けれど、倒れた本人の顔色は“少し”では済まない白さだったし、寝室の空気は、いつもの屋敷より一段深く冷えていた。

その部屋に通う許可が下りたのは、医師が帰った直後だった。

「あなたが、毎日様子を見に来なさい」

侍女長はそう言って、使用人——リィナの手に盆を渡した。白湯の入った小さなポット、薬包紙、柔らかい布、そして紙に書かれた指示書。読みやすい字で、必要なことだけが並んでいる。

食事は少量を回数で。
灯りは弱く。
冷えを避ける。
音を立てない。
話しかけすぎない。

最後の一行だけが、やけに難しく見えた。

「……私が、ですか」

口に出した瞬間、リィナは自分の声が震えているのに気づいた。
心配なのだ。純粋に。けれど、心配だけで足を踏み入れて良い場所ではない。ここは当主の寝室で、彼は屋敷の中心で、使用人が不用意に近づくことを許されない人だ。

「あなたは手が静かだし、気配が薄い。彼が眠っていても起こさない」

それは褒め言葉なのか、便利の言い換えなのか。
リィナは黙って頷いた。

扉の前で、一度だけ深呼吸をする。

ノックは二回。返事はない。侍女長が鍵を外し、最後に小声で念を押す。

「無理に起こさない。彼に何かあれば、すぐ知らせなさい。……それから」

侍女長は言い淀み、視線を逸らした。

「“一人にしない”こと。医師がそう言ったの」

一人にしない。
それは、看病の一部なのだろうか。

リィナは扉を開けた。

——部屋は、思っていたより暗かった。
カーテンは閉められ、外の光は薄く遮られている。大きなベッドの上で、当主は静かに横たわっている。息はある。けれど浅く、時折咳が混じる。

彼の名はアレクシス。
冷ややかな目と、感情をしまい込むような口数の少なさで“怖い当主”と噂される人。けれどリィナは知っている。夜遅くまで書斎の灯りが消えないこと。使用人の不備には厳しいが、無理はさせないこと。冬の薪の質にまで気を配ること。

……だからこそ、倒れるまで無理をしていた事実が、苦しかった。

リィナは音を立てないように歩き、まず小さなランプに火を入れた。
指示書の通り、灯りは弱く。けれど“真っ暗”では不安になる。影が増えすぎると、悪い夢が寄ってくる気がした。

灯りがふっと部屋に馴染む。
次に、窓際の隙間風を確かめ、毛布を一枚足した。ベッドの端に触れるのは怖い。けれど冷えは敵だ、と医師が言っていた。

当主の額に手を伸ばす。
熱がある。手のひらにじわりと伝わる熱と、汗の湿り気。

「……アレクシス様」

呼びかける声は、極力小さく。
返事はない。睫毛がかすかに揺れただけで、彼の瞳は開かない。

リィナは盆を置き、布を濡らした。額と首筋をそっと拭う。
“手が静かだ”と言われた意味が、今なら少しわかる。彼の呼吸が乱れない。眠りを乱さずに、必要なことだけができる。

(起きなくていい。起きなくて、いいから)

内心でそう繰り返しながら、リィナは薬の準備をした。
医師の指示通り、今は強い薬ではない。熱を落ち着かせ、眠りを助けるもの。白湯は少し冷ましてから。

時計を見る。
時間はまだ早い。けれど“回数で”と言われた。食事も水分も、少しずつ。気づいた時に整える。

静かな部屋で、リィナの耳だけが忙しい。
当主の呼吸、布が肌を撫でる音、ランプの小さな燃える音。自分の心臓の音がうるさく感じる。

しばらくして、当主の喉がわずかに動いた。乾いた音。
リィナはそっと白湯の杯を持ち上げる。

「……お水、少しだけ」

返事はないが、唇がわずかに開く。
彼の口元に杯を当てると、ほんの少しだけ喉が鳴った。飲めた。飲めたことが嬉しくて、リィナは泣きそうになる。

(よかった……)

その時だった。

当主の手が、布団の上でわずかに動いた。
指先が迷うように空を探り、リィナの袖の端に触れる。布越しに、熱い指が震えながら引っかかる。

リィナは息を止めた。

彼は眠っている。意識は薄い。
それでも、指は確かに“何か”を求めていた。

リィナは反射的に、自分の手を差し出してしまった。
指先が触れ合う。熱が移る。細いのに力のある手が、迷わず彼女の指を握り込んだ。

ぎゅ、と。

それは助けを求める握り方ではなく、落としたくないものを確かめるような——静かな執着の形だった。

「……っ」

声が喉で詰まる。
驚いて引こうとした。使用人が当主の手を握るなど、許されない。叱責される。何より、彼が目覚めた時に気づいたら——。

けれど。

握られた手が、あまりにも熱くて。
そして、少しだけ震えていて。

リィナは、引けなかった。

「大丈夫です。ここにいます」

言ってしまったあとで、はっとする。
“話しかけすぎない”と書いてあった。けれど、これは指示書にはない必要な言葉だと思った。医師の言った“ひとりにしない”とは、こういうことかもしれない。

当主の呼吸が、少しだけ深くなる。

握られた手の力が緩み、しかし離れはしなかった。
リィナはそのまま、もう片方の手で布を取り、彼の額を拭き続けた。灯りを整え、音を消し、時間を静かに並べる。

——看病とは、体を治すことだけではない。

誰かが回復できる“環境”を作ること。
そして、戻ってくる場所を、そこに置き続けること。

リィナはその夜、初めて当主の寝室で椅子に座ったまま眠りかけた。
手を握られたまま、離してはいけないものを抱えているような気がして。

ランプの灯りは、弱く、温かい。

やがて当主が小さく息を吐いた。

「……」

何かを言いかけたのに、言葉にならない。
代わりに、握る指がほんの少しだけ強くなる。

リィナは目を伏せ、囁いた。

「……明日も来ます」

返事はない。
けれど、その沈黙が、約束のように胸に落ちた。

扉の向こうで、屋敷の夜が深まっていく。
そしてリィナは気づかない。

この夜から当主の回復が始まるのではなく、
——当主の“捕獲”が始まってしまったことに。
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