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21:扉越し
翌朝。
リィナは、淡い灯りが消えた机を見つめていた。
昨夜、あれほど温かかった光は、今はただの小さなランプに戻っている。
触れると冷たい木箱。現実。
(……夢じゃない)
執事は確かに来た。
当主は確かに設定した。
“思い出した時に灯る”なんて、そんな——そんなこと。
リィナは額に手を当てて息を吐いた。
枠の中。枠の中。
そう言い聞かせても、胸の奥が勝手に熱を持つ。
台所へ向かうと、侍女長がすぐに目を細めた。
「寝不足ね」
即バレ。
リィナは小さく頷くしかなかった。
「……少し」
侍女長はため息をつき、声を落とした。
「昨夜、執事があなたの部屋へ行ったのは知ってる」
胸が跳ねる。
「……はい」
「責めない」
侍女長はきっぱり言った。
「当主が、あなたに直接行かずに、執事に“伝えるだけ”を頼んだ。枠を守った。……その判断は、良い」
褒められると、胸が少しだけ軽くなる。
「でも」
侍女長の目が鋭くなる。
「灯りの設定は、狡い。情に効く」
「……はい」
否定できない。
侍女長はリィナの肩に手を置いた。
「だからこそ、あなたも“狡く”なりなさい。枠を守る狡さよ」
狡く。
枠を守る狡さ。
リィナは目を瞬いた。
「……どうやって」
侍女長は短く言った。
「合図を増やすの」
リィナは息を呑む。
「合図……?」
「灯りで返されたなら、あなたも灯りで返しなさい。言葉じゃなくて、枠の中の仕組みで」
侍女長は淡々と言う。
「例えば。——“灯りが点いたら、あなたは眠る”。それで終わり。行かない。返事を書かない。深追いしない」
リィナは胸が熱くなる。
それなら、枠が守れる。
当主の灯りに、溺れない。
侍女長は続ける。
「あなたの生活を守るための合図。そういう狡さ」
リィナは小さく頷いた。
「……分かりました」
侍女長は満足そうに頷き、去っていった。
・
その日、リィナはいつも通り働いた。
鍋をかき混ぜ、床を磨き、布を畳む。
しかし、胸の奥ではずっと“灯り”が揺れていた。
夜。
自室に戻り、机の上の木箱を見る。
昨夜は勝手に灯った。
今日は、灯らないかもしれない。
(灯ったら、眠る)
侍女長の助言を思い出す。
灯りが点いたら、それで終わり。
返事しない。行かない。深追いしない。
リィナは、布団を整えた。
いつでも眠れるように。
……なのに。
眠れない。
灯りが点くかどうか、待ってしまう。
待つこと自体が、もう捕獲に近い。
リィナは自分を叱り、目を閉じた。
その瞬間——
机の上が、淡く灯った。
(……点いた)
胸が跳ねる。
反射的に起き上がりそうになる。
でも、侍女長の言葉。
(灯ったら、眠る)
リィナは布団の中で拳を握り、目を閉じたまま深呼吸をした。
灯りは静かに揺れている。
返事みたいに。
“おやすみ”の代わりに。
リィナは唇を噛み、布団の中で小さく呟いた。
「……おやすみなさい」
誰にも届かない。
届かないから、枠の中。
リィナはそのまま眠ろうとした。
——しかし。
眠りに落ちる直前、廊下から微かな足音が聞こえた。
忍び足。
屋敷の夜の静けさを破らない足音。
足音が、リィナの部屋の前で止まる。
ノックは——ない。
代わりに、扉の向こうで、誰かが小さく息を吐く音がした。
リィナの胸が凍る。
(……誰)
執事?
でも執事なら、来る時は必ずノックする。
息の音が、もう一度。
そして——低い声。
「……リィナ」
名前を呼ばれた。
当主の声だった。
リィナは息を止めた。
迎えに行かない。
来ない日を責めない。
枠を守る。
約束は——?
扉の向こうで、当主は低く言った。
「迎えに来たわけじゃない。……ただ」
一拍。
「灯りが点いたのが、見えた」
リィナの目が熱くなる。
灯りが点いたら眠る。
そう決めたのに——彼が来てしまった。
当主は続ける。
「……眠れ」
命令みたいに優しい。
リィナは震える声で、扉越しに言った。
「……約束は」
当主は低く息を吐く。
「守っている」
「……守っていません。来ました」
当主はすぐに言った。
「部屋に入っていない。……迎えではない。確認だ」
言葉遊び。
枠のすり抜け。
リィナは胸が痛くなって、でも怒れない。
当主の声が、少しだけ掠れた。
「……リィナ。俺は」
また、“俺は——”が来る。
溢れそうな言葉。
リィナは必死に言った。
「……言わないでください。枠が」
沈黙が落ちる。
扉の向こうで、当主が小さく笑った気配がした。
苦い笑い。
「……そうだな」
そして、低い声で囁く。
「おやすみ」
扉越しの“おやすみ”。
直接じゃない。入っていない。
枠の中に収めたつもり。
リィナの胸が痛いほど満ちた。
当主は去った。
足音が遠ざかる。
机の灯りは、まだ淡く揺れている。
リィナは布団の中で震えながら、目を閉じた。
(……狡いのは、私も同じだ)
だって、来てしまって嬉しい。
枠の中で、二人は狡さを覚え始めている。
リィナは、淡い灯りが消えた机を見つめていた。
昨夜、あれほど温かかった光は、今はただの小さなランプに戻っている。
触れると冷たい木箱。現実。
(……夢じゃない)
執事は確かに来た。
当主は確かに設定した。
“思い出した時に灯る”なんて、そんな——そんなこと。
リィナは額に手を当てて息を吐いた。
枠の中。枠の中。
そう言い聞かせても、胸の奥が勝手に熱を持つ。
台所へ向かうと、侍女長がすぐに目を細めた。
「寝不足ね」
即バレ。
リィナは小さく頷くしかなかった。
「……少し」
侍女長はため息をつき、声を落とした。
「昨夜、執事があなたの部屋へ行ったのは知ってる」
胸が跳ねる。
「……はい」
「責めない」
侍女長はきっぱり言った。
「当主が、あなたに直接行かずに、執事に“伝えるだけ”を頼んだ。枠を守った。……その判断は、良い」
褒められると、胸が少しだけ軽くなる。
「でも」
侍女長の目が鋭くなる。
「灯りの設定は、狡い。情に効く」
「……はい」
否定できない。
侍女長はリィナの肩に手を置いた。
「だからこそ、あなたも“狡く”なりなさい。枠を守る狡さよ」
狡く。
枠を守る狡さ。
リィナは目を瞬いた。
「……どうやって」
侍女長は短く言った。
「合図を増やすの」
リィナは息を呑む。
「合図……?」
「灯りで返されたなら、あなたも灯りで返しなさい。言葉じゃなくて、枠の中の仕組みで」
侍女長は淡々と言う。
「例えば。——“灯りが点いたら、あなたは眠る”。それで終わり。行かない。返事を書かない。深追いしない」
リィナは胸が熱くなる。
それなら、枠が守れる。
当主の灯りに、溺れない。
侍女長は続ける。
「あなたの生活を守るための合図。そういう狡さ」
リィナは小さく頷いた。
「……分かりました」
侍女長は満足そうに頷き、去っていった。
・
その日、リィナはいつも通り働いた。
鍋をかき混ぜ、床を磨き、布を畳む。
しかし、胸の奥ではずっと“灯り”が揺れていた。
夜。
自室に戻り、机の上の木箱を見る。
昨夜は勝手に灯った。
今日は、灯らないかもしれない。
(灯ったら、眠る)
侍女長の助言を思い出す。
灯りが点いたら、それで終わり。
返事しない。行かない。深追いしない。
リィナは、布団を整えた。
いつでも眠れるように。
……なのに。
眠れない。
灯りが点くかどうか、待ってしまう。
待つこと自体が、もう捕獲に近い。
リィナは自分を叱り、目を閉じた。
その瞬間——
机の上が、淡く灯った。
(……点いた)
胸が跳ねる。
反射的に起き上がりそうになる。
でも、侍女長の言葉。
(灯ったら、眠る)
リィナは布団の中で拳を握り、目を閉じたまま深呼吸をした。
灯りは静かに揺れている。
返事みたいに。
“おやすみ”の代わりに。
リィナは唇を噛み、布団の中で小さく呟いた。
「……おやすみなさい」
誰にも届かない。
届かないから、枠の中。
リィナはそのまま眠ろうとした。
——しかし。
眠りに落ちる直前、廊下から微かな足音が聞こえた。
忍び足。
屋敷の夜の静けさを破らない足音。
足音が、リィナの部屋の前で止まる。
ノックは——ない。
代わりに、扉の向こうで、誰かが小さく息を吐く音がした。
リィナの胸が凍る。
(……誰)
執事?
でも執事なら、来る時は必ずノックする。
息の音が、もう一度。
そして——低い声。
「……リィナ」
名前を呼ばれた。
当主の声だった。
リィナは息を止めた。
迎えに行かない。
来ない日を責めない。
枠を守る。
約束は——?
扉の向こうで、当主は低く言った。
「迎えに来たわけじゃない。……ただ」
一拍。
「灯りが点いたのが、見えた」
リィナの目が熱くなる。
灯りが点いたら眠る。
そう決めたのに——彼が来てしまった。
当主は続ける。
「……眠れ」
命令みたいに優しい。
リィナは震える声で、扉越しに言った。
「……約束は」
当主は低く息を吐く。
「守っている」
「……守っていません。来ました」
当主はすぐに言った。
「部屋に入っていない。……迎えではない。確認だ」
言葉遊び。
枠のすり抜け。
リィナは胸が痛くなって、でも怒れない。
当主の声が、少しだけ掠れた。
「……リィナ。俺は」
また、“俺は——”が来る。
溢れそうな言葉。
リィナは必死に言った。
「……言わないでください。枠が」
沈黙が落ちる。
扉の向こうで、当主が小さく笑った気配がした。
苦い笑い。
「……そうだな」
そして、低い声で囁く。
「おやすみ」
扉越しの“おやすみ”。
直接じゃない。入っていない。
枠の中に収めたつもり。
リィナの胸が痛いほど満ちた。
当主は去った。
足音が遠ざかる。
机の灯りは、まだ淡く揺れている。
リィナは布団の中で震えながら、目を閉じた。
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