執事はお嬢様の午後三時のティータイムだけは死守したい (告白は未着手ですが、隣の席だけは確定です)

星乃和花

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第6話『ティータイムが延期になりそうな瞬間、執事が“時間の方を曲げる”勢いで屋敷を回す(世界が手帳に従う)』

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 その日の朝、レオン(執事)は――珍しく、目の下に「不測の事態」を抱えていた。

 屋敷の廊下はいつも通り静かで、床は光り、花瓶の花は背筋を伸ばし、時計の針だけが規則正しく進んでいる。
 ――にもかかわらず、彼の手帳の中だけが、軽く炎上している。

(おかしい。今日は“平穏”のはずだった)

 十五時が、危ない。

 レオンの信仰。
 ティータイム(15:00)。
 それは単なる習慣ではなく、屋敷の秩序であり、お嬢様(エマ)の精神衛生の基礎であり、日々の安定の錨である。

 彼は手帳を開き、静かに結論を出した。

(予定を、動かす)

 レオンは頷いた。
 そして――彼の足取りに合わせて、屋敷の空気が“動き出す”。
 まるで見えない指揮棒が振られたみたいに。

 ・♢ー♢ー♢・
 
 エマは午前の陽だまりの中で、刺繍枠を持っていた。

 糸の色は淡い青。
 針先が布を行き来するたび、心が少しずつ整っていく感じがする。

 昨日、ほんの少しだけ“素”で言えた。
 「放っておいて」は「ひとりになりたくない」の言い方だった、と。

 レオンは、その矛盾を否定しなかった。
 手帳に書こうとしたけれど、エマが止めたら、ちゃんと止めた。

(……私、少しずつ、言えるようになってきてるのかも)

 そんなことを思いながら、エマは窓辺で優雅に微笑む練習を――今日はしなくて済んでいる。

 そこへノック。

「失礼いたします、お嬢様」

 レオンが入ってきた。
 いつもと同じ真顔。
 いつもと違うのは、彼の背後に漂う「職務過多」の気配だった。

「本日の予定を微修正いたします」

「微修正?」

「はい。微、です」

 レオンが“微”を強調する時は、だいたい“微”ではない。

「レオン」

「はい」

「……十五時、危ないの?」

 レオンは一拍止まった。
 いつもの“解析中”より短い。

「危険です」

 即答。

「どのくらい?」

「現状のままでは、十五時が十五時でなくなる可能性があります」

(何それ、哲学みたい)

 エマはくすっと笑いそうになって、堪えた。

「……じゃあ、無理しないで。延期でもいいわよ」

 言ってしまってから、少しだけ後悔した。
 本当は、延期は嫌だ。
 でも“嫌だ”って言ったら、レオンが世界を曲げる。
 曲げてほしくない。
 でも、曲げてほしい。
 乙女は矛盾でできている。

 レオンは、その矛盾の中心にいる。

「延期は不可です」

 真顔で断言。

「お嬢様の笑顔の発生率が下がります」

「また統計」

「事実です」

 レオンはペンを差し出し、静かに言った。

「お嬢様が“延期でもいい”と言ったのは、優しさです。
 しかし、優しさで十五時を削るべきではありません」

 エマは一瞬、言葉を失った。

(……それ、ちょっとだけ、優しい言い方じゃない?)

 情緒の温度が、十八度から十九度くらいになっている気がした。

 ・♢ー♢ー♢・

 午後一時。

 別宅からの書状確認が始まった。
 エマはソファに座り、書状に目を通している。

 内容は、屋敷の帳簿や催事の確認。
 つまり「急ぎ」と言うほど急ぎではないが、急ぎと言われると急ぐしかない類のもの。

 エマはため息を上品に飲み込み、ペンを握った。

(……こういうの、ほんとは好きじゃない。でも、逃げたくない)

 ・♢ー♢ー♢・

 午後二時三十分。

 “急“な来客が来た。

 応接間の方から、上品な笑い声。
 名士の声。
 きっと“挨拶だけ”ではない。

 エマは廊下でその気配を感じ、体が少しだけ固くなる。
 社交は刺激。
 刺激は疲れる。
 疲れると、十五時が遠くなる。

(……でも、今日は“放っておいて”じゃない。
 ひとりになりたくない日だから、逃げない)

 そんなエマの前に、レオンが現れた。
 彼はすでに、応接での戦を終えた顔をしている。

「お嬢様、訪問は七分で完了しました」

「七分で?」

「はい。“挨拶だけ“、とのことでしたので足ります」

 エマは、内心で思った。
 挨拶だけって、七分で足りるんだ。
 
「……そう」

 レオンの口元は動かないが、目の動きがほんの少しだけ緩んだ気がした。

「では、次。ティールームの準備に移行します」

 彼が歩き出す。
 その背中が、屋敷の時間を引っ張っていくみたいに、見えた。

 そして――

 廊下の角から、護衛隊長が走ってきた。

「レオン様! 至急です! 厨房で――」

「どうされました」

「スコーンが……焼けすぎました……!」

 レオンの足が止まった。

 ……焼けすぎ。
 それは、ティータイムの大事故である。

 エマは息を止めた。
 十五時が遠ざかる気がした。

 だが、レオンは――世界が終わった顔をしない。
 彼は真顔のまま、静かに言った。

「焼けすぎたスコーンは、焼けすぎたという事実を持ちます。
 しかし、お嬢様が必要とするのは“十五時の温度”です。
 代替案を実行します」

「代替案……?」

「スコーンは二種用意していました。焼けすぎは一種。もう一種は適正です。
 さらに、焼けすぎ分は“香ばしさ”として再定義し、薄くスライスしてラスクにします」

「再定義って……」

「再定義です」

 レオンは踵を返し、厨房へ向かう。

 その背中が――少しだけ、頼もしい。
 そして少しだけ、可笑しい。

(この人、ほんとに時間を守るためなら、世界の意味を変えるんだ)

 ・♢ー♢ー♢・

 午後二時五十八分。

 ティールームの扉が開いた。
 レオンが整えた世界が、そこにあった。

 テーブルクロスはいつも通り。
 花もいつも通り。
 紅茶の香りもいつも通り。

 そして皿の上には、二種のスコーンと――薄くスライスされた香ばしいラスクが添えられている。

「……ラスク」

 エマの言葉に、レオンは真顔で答えた。

「焼けすぎたスコーンの活用です。食品ロス削減にも寄与します」

「寄与します、って……」

 エマは思わず笑った。
 笑ってしまったら、胸の穴が少しだけ小さくなる。

 時計が、カチ、と鳴る。

 十五時。

 レオンがカップに紅茶を注いだ。
 湯気が立ち上る。
 時間が、間に合った。

「本日のティータイム、開始します」

 その声はいつも通り平坦なのに、なぜか少しだけ誇らしげに聞こえた。

 エマはカップを持ち上げ、ひと口飲む。
 温かい。
 きちんと十五時の温度。

「……レオン」

「はい」

「今日、すごく大変だったでしょう」

「はい」

 即答。
 珍しく認めた。

「でも――間に合わせた」

「……うん」

 エマはラスクを一枚つまんで、口に運んだ。
 香ばしい。
 甘い。
 少しだけ、焦げの苦味がある。

(焦げた部分って、苦いけど……悪くない)

 エマはカップを置き、椅子の隣――レオンが引いた席を見た。
 当たり前みたいにそこにある。

 そして、彼を見る。

「ねえ。今日は……世界を曲げてくれて、ありがとう」

 レオンが一拍止まった。
 その一拍は“解析中”ではなく、たぶん“確認中”。

「曲げたのは、世界ではありません」

「じゃあ何?」

 レオンは真顔で答えた。

「予定です」

「……同じよ」

「同じではありません。世界を曲げるのは危険です」

 エマはくすっと笑い、少しだけ声を落とした。

「でも……私のために、危険じゃない範囲で曲げたんでしょう?」

 レオンの目が、ほんの少しだけ揺れた。
 情緒が、二十度に近づいた気配。

 彼はカップを持ち、静かに言った。

「……お嬢様の十五時は、必要です」

 それは告白じゃない。
 でも、エマの胸にはきちんと届いた。

 エマは小さく頷き、強がりの形で言う。

「じゃあ、私もひとつだけ。今日のレオンに必要なもの、あげる」

「何でしょうか」

 エマはためらった。
 でも今日は言える。
 だって昨日、手を貸してもらったから。
 ひとりにならない方法を覚えたから。

「……座って。ここ」

 エマは、隣の椅子を指した。

 レオンが固まる。
 “執事は基本的に立っている”という内規が彼の背中を押しているのが見える。

「執事が座るのは――」

「今日は、世界じゃなくて予定を曲げたんでしょう?
 じゃあ、少しだけ。執事の予定も曲げて」

 レオンは数秒、沈黙した。
 そして、ゆっくりと椅子を引いた。

 座る。
 ほんの少しだけ、エマの隣に。

「……承知しました」

 エマの胸の穴が、また少し塞がった。

 十五時。
 紅茶は冷めない。
 世界は曲げない。
 でも、予定は曲げられる。

 エマはカップを持ち上げ、隣の人に向けて、小さく言った。

「……ここにいてくれて、ありがとう」

 レオンは真顔のまま、ほんの少しだけ声を落とした。

「……ここにおります」

 その一言で、時間はちゃんと進む。
 焦げた苦味さえ、甘味になる。

 今日も、ティータイムは死守された。
 そして執事は、ほんの少しだけ“座る”という危険を冒した。
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