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第1話 仮の指輪と、白いレース(わたし)
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白レースの袖口が、風のかたちを真似てふわりと揺れました。
馬車の扉が開くと、石畳は朝の光を飲み込んだみたいにしっとりしていて、わたしの胸は緊張よりもわくわくで少しだけ跳ねます。三ヶ月だけ——仮の婚約。失敗したら困るから、とりあえず、だなんて。そう言われると、かえって小さな冒険の始まりみたいに思えてしまうのです。
庭は、息をするみたいに静かでした。剪定された樹々の影が重なって、道を柔らかく縁どっています。ローズマリーの香りがすこし。噴水の水音が、遠くからやさしく手招きしているようでした。
玄関前には、黒い燕尾服の家令さんと、淡いグレーの制服のメイドさんが並んでいました。家令さんの目は厳しそうに見えて、でもどこか安心できる温度があります。メイドさんは白いカチューシャをちょこんと直しながら、わたしのレースを見て小さく微笑みました。
「ようこそ。遠路、お疲れさまでした」
落ち着いた声がして、視線を上げると彼がいました。
思っていたよりも、ずっと近い距離に。まっすぐな背筋と、よく整えられた黒髪。光を吸うような瞳なのに、見つめられても痛くありません。少しだけ張りつめた気配を纏っていて、でもその張りつめ方が誰かを守る人のものだと、直感でわかりました。
「三ヶ月のあいだは、どうか気楽に過ごしてください。ここは……あなたの家でもありますから」
「はい。……あの、ありがとうございます。立派なお屋敷で、ほんとうにきれい」
わたしがそう言うと、彼はほんの少しだけ目尻をやわらげました。
それだけで、朝の空気が一段あたたかくなる気がします。
「長旅のあとは、庭の空気のほうが身体にやさしいかもしれません。……もしよろしければ、少しだけ歩きますか」
「歩きたいです」
答えると、彼は家令さんに視線を送り、荷物を任せました。石畳に降りるとき、彼はわたしの白いレースが引っかからないよう、足元を見る癖があるみたいに、そっと手を差し出します。触れさせるほどではない、その手の温度に、丁寧という名の優しさを感じました。
庭に出ると、風の層が変わります。噴水のそばでは水の匂い、アーチには薔薇の名残り、遠くの芝生には太陽の匂い。
歩幅を合わせようとして、わたしは一歩、すこし長く。彼は一歩、すこし短く。どちらからともなく、真ん中が見つかりました。そんな小さな一致が、思っていたより嬉しくて、心のなかで「えへん」と胸を張ります。
「石が不揃いなところがあります。足元にお気をつけて」
「見てます、ちゃんと。……ほら」
レースの裾をつまんで見せると、彼は小さく息を洩らしました。笑ったのか、驚いたのか、わたしにはわからないけれど、どちらでもいいなと思えます。彼の表情がほんの少しでもやわらぐなら、それで十分。
「——そうだ。ひとつ、お預けしても良いですか」
噴水の縁に影が落ちました。彼が胸ポケットから、小さな箱を取り出します。
白すぎない白、雪が一度だけ雨に触れたみたいな落ち着いた色の箱。指先で開かれた中にあったのは、細い白金の輪でした。光は強くないのに、しっかりと在る、そんな指輪。
「仮の婚約に、仰々しいものは似合わないと思って。……ただ、その、ここで過ごすあいだ、あなたが不安に触れないように。これはあなたに選んでもらうまでの、目印……いえ、あなたの手に似合うと思ったから」
言葉の終わりで、彼はほんの少し目を伏せました。
目印、という言い方が気に入らなくて言い直したのだと、すぐにわかります。わたしは箱の中の輪に、わたしの指よりも細い、彼の遠慮を見つけました。やさしい人なのだと思います。わたしが決めることを、大切にしようとしてくれている。
「つけてもいいですか?」
「もちろん」
差し出された右手の上で、白金の輪が小さく鳴りました。
指に通すと、ひやりと冷たくて、すぐにぬくもります。仮のはずなのに、指先から胸の奥まで、なにかがちゃんと留まる感じがしました。
「……軽いですね」
「重くするのは、あとで、でいいと思いまして」
あとで。
その言葉は、約束のようで、約束ではありません。仮の季節にふさわしい曖昧さで、でも、曖昧なものほど、私は好きになってしまうのです。輪郭を自分の気持ちでなぞっていけるから。三ヶ月という時間を、やさしく触って、形にできる気がします。
ふと顔を上げると、庭の向こう、並木の切れ間から丘が見えました。
白い屋根が、小さく光ります。礼拝堂。年に何度かの祭典の日、並んで祈りを捧げた、静かな時間の場所。そこで彼がこちらを見ていたことに、そのときのわたしは気づかなかったけれど——記憶の端がふわりとほどけました。
「……あの屋根、好きです」
わたしが言うと、彼は視線を同じ方向に向けて、短くうなずきました。
「風の通りがよい場所です。いつか——」
言いかけて、彼は言葉を飲み込みます。
“いつか、一緒に”と続けたいのだと、たぶん、そう。けれど「いつか」を簡単に約束にしないのは、わたしたちの今に似合う誠実さにも思えました。
「明日、庭園をもう少し歩きませんか。朝のうちがいい。陽が高いと石が熱を持ちますから」
「はい。歩きたいです」
返事をすると、彼はわたしの指輪を、視線で一度だけ確かめました。
それから、ふっと息を吐いて、張りつめていた気配をごくわずかにほどきます。わたしは指を握って、白レースの感触を確かめました。指輪も、レースも、ぜんぶ軽くて、ちゃんとあたたかい。
三ヶ月って、長いのか、短いのか。
わからないけれど、ここでの一日は、きっと“やさしい長さ”をしている気がします。噴水の水音が、そう言っているみたい。レースの袖口が、うんうん、と頷きます。
「お部屋をご案内します」
家令さんの声で、わたしたちは屋敷のほうへ向き直りました。
振り返ると、丘の白い屋根が小さく瞬きます。明日のお散歩の約束と、指先の輪のぬくもりを、わたしは心のポケットに入れて歩きました。仮でも、本気でも。今はただ、白い風のなかを、やさしく歩いていきたいのです。
馬車の扉が開くと、石畳は朝の光を飲み込んだみたいにしっとりしていて、わたしの胸は緊張よりもわくわくで少しだけ跳ねます。三ヶ月だけ——仮の婚約。失敗したら困るから、とりあえず、だなんて。そう言われると、かえって小さな冒険の始まりみたいに思えてしまうのです。
庭は、息をするみたいに静かでした。剪定された樹々の影が重なって、道を柔らかく縁どっています。ローズマリーの香りがすこし。噴水の水音が、遠くからやさしく手招きしているようでした。
玄関前には、黒い燕尾服の家令さんと、淡いグレーの制服のメイドさんが並んでいました。家令さんの目は厳しそうに見えて、でもどこか安心できる温度があります。メイドさんは白いカチューシャをちょこんと直しながら、わたしのレースを見て小さく微笑みました。
「ようこそ。遠路、お疲れさまでした」
落ち着いた声がして、視線を上げると彼がいました。
思っていたよりも、ずっと近い距離に。まっすぐな背筋と、よく整えられた黒髪。光を吸うような瞳なのに、見つめられても痛くありません。少しだけ張りつめた気配を纏っていて、でもその張りつめ方が誰かを守る人のものだと、直感でわかりました。
「三ヶ月のあいだは、どうか気楽に過ごしてください。ここは……あなたの家でもありますから」
「はい。……あの、ありがとうございます。立派なお屋敷で、ほんとうにきれい」
わたしがそう言うと、彼はほんの少しだけ目尻をやわらげました。
それだけで、朝の空気が一段あたたかくなる気がします。
「長旅のあとは、庭の空気のほうが身体にやさしいかもしれません。……もしよろしければ、少しだけ歩きますか」
「歩きたいです」
答えると、彼は家令さんに視線を送り、荷物を任せました。石畳に降りるとき、彼はわたしの白いレースが引っかからないよう、足元を見る癖があるみたいに、そっと手を差し出します。触れさせるほどではない、その手の温度に、丁寧という名の優しさを感じました。
庭に出ると、風の層が変わります。噴水のそばでは水の匂い、アーチには薔薇の名残り、遠くの芝生には太陽の匂い。
歩幅を合わせようとして、わたしは一歩、すこし長く。彼は一歩、すこし短く。どちらからともなく、真ん中が見つかりました。そんな小さな一致が、思っていたより嬉しくて、心のなかで「えへん」と胸を張ります。
「石が不揃いなところがあります。足元にお気をつけて」
「見てます、ちゃんと。……ほら」
レースの裾をつまんで見せると、彼は小さく息を洩らしました。笑ったのか、驚いたのか、わたしにはわからないけれど、どちらでもいいなと思えます。彼の表情がほんの少しでもやわらぐなら、それで十分。
「——そうだ。ひとつ、お預けしても良いですか」
噴水の縁に影が落ちました。彼が胸ポケットから、小さな箱を取り出します。
白すぎない白、雪が一度だけ雨に触れたみたいな落ち着いた色の箱。指先で開かれた中にあったのは、細い白金の輪でした。光は強くないのに、しっかりと在る、そんな指輪。
「仮の婚約に、仰々しいものは似合わないと思って。……ただ、その、ここで過ごすあいだ、あなたが不安に触れないように。これはあなたに選んでもらうまでの、目印……いえ、あなたの手に似合うと思ったから」
言葉の終わりで、彼はほんの少し目を伏せました。
目印、という言い方が気に入らなくて言い直したのだと、すぐにわかります。わたしは箱の中の輪に、わたしの指よりも細い、彼の遠慮を見つけました。やさしい人なのだと思います。わたしが決めることを、大切にしようとしてくれている。
「つけてもいいですか?」
「もちろん」
差し出された右手の上で、白金の輪が小さく鳴りました。
指に通すと、ひやりと冷たくて、すぐにぬくもります。仮のはずなのに、指先から胸の奥まで、なにかがちゃんと留まる感じがしました。
「……軽いですね」
「重くするのは、あとで、でいいと思いまして」
あとで。
その言葉は、約束のようで、約束ではありません。仮の季節にふさわしい曖昧さで、でも、曖昧なものほど、私は好きになってしまうのです。輪郭を自分の気持ちでなぞっていけるから。三ヶ月という時間を、やさしく触って、形にできる気がします。
ふと顔を上げると、庭の向こう、並木の切れ間から丘が見えました。
白い屋根が、小さく光ります。礼拝堂。年に何度かの祭典の日、並んで祈りを捧げた、静かな時間の場所。そこで彼がこちらを見ていたことに、そのときのわたしは気づかなかったけれど——記憶の端がふわりとほどけました。
「……あの屋根、好きです」
わたしが言うと、彼は視線を同じ方向に向けて、短くうなずきました。
「風の通りがよい場所です。いつか——」
言いかけて、彼は言葉を飲み込みます。
“いつか、一緒に”と続けたいのだと、たぶん、そう。けれど「いつか」を簡単に約束にしないのは、わたしたちの今に似合う誠実さにも思えました。
「明日、庭園をもう少し歩きませんか。朝のうちがいい。陽が高いと石が熱を持ちますから」
「はい。歩きたいです」
返事をすると、彼はわたしの指輪を、視線で一度だけ確かめました。
それから、ふっと息を吐いて、張りつめていた気配をごくわずかにほどきます。わたしは指を握って、白レースの感触を確かめました。指輪も、レースも、ぜんぶ軽くて、ちゃんとあたたかい。
三ヶ月って、長いのか、短いのか。
わからないけれど、ここでの一日は、きっと“やさしい長さ”をしている気がします。噴水の水音が、そう言っているみたい。レースの袖口が、うんうん、と頷きます。
「お部屋をご案内します」
家令さんの声で、わたしたちは屋敷のほうへ向き直りました。
振り返ると、丘の白い屋根が小さく瞬きます。明日のお散歩の約束と、指先の輪のぬくもりを、わたしは心のポケットに入れて歩きました。仮でも、本気でも。今はただ、白い風のなかを、やさしく歩いていきたいのです。
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