白レースと礼拝堂、三ヶ月だけの仮婚約。 ——独り占めではなく“隣で全部を見る”溺愛。選ぶのは、わたし。

星乃和花

文字の大きさ
1 / 12

第1話 仮の指輪と、白いレース(わたし)

しおりを挟む
白レースの袖口が、風のかたちを真似てふわりと揺れました。
馬車の扉が開くと、石畳は朝の光を飲み込んだみたいにしっとりしていて、わたしの胸は緊張よりもわくわくで少しだけ跳ねます。三ヶ月だけ——仮の婚約。失敗したら困るから、とりあえず、だなんて。そう言われると、かえって小さな冒険の始まりみたいに思えてしまうのです。

庭は、息をするみたいに静かでした。剪定された樹々の影が重なって、道を柔らかく縁どっています。ローズマリーの香りがすこし。噴水の水音が、遠くからやさしく手招きしているようでした。

玄関前には、黒い燕尾服の家令さんと、淡いグレーの制服のメイドさんが並んでいました。家令さんの目は厳しそうに見えて、でもどこか安心できる温度があります。メイドさんは白いカチューシャをちょこんと直しながら、わたしのレースを見て小さく微笑みました。

「ようこそ。遠路、お疲れさまでした」

落ち着いた声がして、視線を上げると彼がいました。
思っていたよりも、ずっと近い距離に。まっすぐな背筋と、よく整えられた黒髪。光を吸うような瞳なのに、見つめられても痛くありません。少しだけ張りつめた気配を纏っていて、でもその張りつめ方が誰かを守る人のものだと、直感でわかりました。

「三ヶ月のあいだは、どうか気楽に過ごしてください。ここは……あなたの家でもありますから」

「はい。……あの、ありがとうございます。立派なお屋敷で、ほんとうにきれい」

わたしがそう言うと、彼はほんの少しだけ目尻をやわらげました。
それだけで、朝の空気が一段あたたかくなる気がします。

「長旅のあとは、庭の空気のほうが身体にやさしいかもしれません。……もしよろしければ、少しだけ歩きますか」

「歩きたいです」

答えると、彼は家令さんに視線を送り、荷物を任せました。石畳に降りるとき、彼はわたしの白いレースが引っかからないよう、足元を見る癖があるみたいに、そっと手を差し出します。触れさせるほどではない、その手の温度に、丁寧という名の優しさを感じました。

庭に出ると、風の層が変わります。噴水のそばでは水の匂い、アーチには薔薇の名残り、遠くの芝生には太陽の匂い。
歩幅を合わせようとして、わたしは一歩、すこし長く。彼は一歩、すこし短く。どちらからともなく、真ん中が見つかりました。そんな小さな一致が、思っていたより嬉しくて、心のなかで「えへん」と胸を張ります。

「石が不揃いなところがあります。足元にお気をつけて」

「見てます、ちゃんと。……ほら」

レースの裾をつまんで見せると、彼は小さく息を洩らしました。笑ったのか、驚いたのか、わたしにはわからないけれど、どちらでもいいなと思えます。彼の表情がほんの少しでもやわらぐなら、それで十分。

「——そうだ。ひとつ、お預けしても良いですか」

噴水の縁に影が落ちました。彼が胸ポケットから、小さな箱を取り出します。
白すぎない白、雪が一度だけ雨に触れたみたいな落ち着いた色の箱。指先で開かれた中にあったのは、細い白金の輪でした。光は強くないのに、しっかりと在る、そんな指輪。

「仮の婚約に、仰々しいものは似合わないと思って。……ただ、その、ここで過ごすあいだ、あなたが不安に触れないように。これはあなたに選んでもらうまでの、目印……いえ、あなたの手に似合うと思ったから」

言葉の終わりで、彼はほんの少し目を伏せました。
目印、という言い方が気に入らなくて言い直したのだと、すぐにわかります。わたしは箱の中の輪に、わたしの指よりも細い、彼の遠慮を見つけました。やさしい人なのだと思います。わたしが決めることを、大切にしようとしてくれている。

「つけてもいいですか?」

「もちろん」

差し出された右手の上で、白金の輪が小さく鳴りました。
指に通すと、ひやりと冷たくて、すぐにぬくもります。仮のはずなのに、指先から胸の奥まで、なにかがちゃんと留まる感じがしました。

「……軽いですね」

「重くするのは、あとで、でいいと思いまして」

あとで。
その言葉は、約束のようで、約束ではありません。仮の季節にふさわしい曖昧さで、でも、曖昧なものほど、私は好きになってしまうのです。輪郭を自分の気持ちでなぞっていけるから。三ヶ月という時間を、やさしく触って、形にできる気がします。

ふと顔を上げると、庭の向こう、並木の切れ間から丘が見えました。
白い屋根が、小さく光ります。礼拝堂。年に何度かの祭典の日、並んで祈りを捧げた、静かな時間の場所。そこで彼がこちらを見ていたことに、そのときのわたしは気づかなかったけれど——記憶の端がふわりとほどけました。

「……あの屋根、好きです」

わたしが言うと、彼は視線を同じ方向に向けて、短くうなずきました。

「風の通りがよい場所です。いつか——」

言いかけて、彼は言葉を飲み込みます。
“いつか、一緒に”と続けたいのだと、たぶん、そう。けれど「いつか」を簡単に約束にしないのは、わたしたちの今に似合う誠実さにも思えました。

「明日、庭園をもう少し歩きませんか。朝のうちがいい。陽が高いと石が熱を持ちますから」

「はい。歩きたいです」

返事をすると、彼はわたしの指輪を、視線で一度だけ確かめました。
それから、ふっと息を吐いて、張りつめていた気配をごくわずかにほどきます。わたしは指を握って、白レースの感触を確かめました。指輪も、レースも、ぜんぶ軽くて、ちゃんとあたたかい。

三ヶ月って、長いのか、短いのか。
わからないけれど、ここでの一日は、きっと“やさしい長さ”をしている気がします。噴水の水音が、そう言っているみたい。レースの袖口が、うんうん、と頷きます。

「お部屋をご案内します」

家令さんの声で、わたしたちは屋敷のほうへ向き直りました。
振り返ると、丘の白い屋根が小さく瞬きます。明日のお散歩の約束と、指先の輪のぬくもりを、わたしは心のポケットに入れて歩きました。仮でも、本気でも。今はただ、白い風のなかを、やさしく歩いていきたいのです。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」

透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。 そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。 最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。 仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕! ---

【完結】魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――

ムラサメ
恋愛
伯爵家で使用人同然に扱われてきた少女、エリナ。 魔力も才能もないとされ、義妹アリシアの影で静かに生きていた。 ある日、王国第一王子カイルの視察で運命が動き出す。 誰も気づかなかった“違和感”に、彼だけが目を留めて――。

図書館でうたた寝してたらいつの間にか王子と結婚することになりました

鳥花風星
恋愛
限られた人間しか入ることのできない王立図書館中枢部で司書として働く公爵令嬢ベル・シュパルツがお気に入りの場所で昼寝をしていると、目の前に見知らぬ男性がいた。 素性のわからないその男性は、たびたびベルの元を訪れてベルとたわいもない話をしていく。本を貸したりお茶を飲んだり、ありきたりな日々を何度か共に過ごしていたとある日、その男性から期間限定の婚約者になってほしいと懇願される。 とりあえず婚約を受けてはみたものの、その相手は実はこの国の第二王子、アーロンだった。 「俺は欲しいと思ったら何としてでも絶対に手に入れる人間なんだ」

虐げられた私、ずっと一緒にいた精霊たちの王に愛される〜私が愛し子だなんて知りませんでした〜

ボタニカルseven
恋愛
「今までお世話になりました」 あぁ、これでやっとこの人たちから解放されるんだ。 「セレス様、行きましょう」 「ありがとう、リリ」 私はセレス・バートレイ。四歳の頃に母親がなくなり父がしばらく家を留守にしたかと思えば愛人とその子供を連れてきた。私はそれから今までその愛人と子供に虐げられてきた。心が折れそうになった時だってあったが、いつも隣で見守ってきてくれた精霊たちが支えてくれた。 ある日精霊たちはいった。 「あの方が迎えに来る」 カクヨム/なろう様でも連載させていただいております

辺境令嬢ですが契約結婚なのに、うっかり溺愛されちゃいました

星井ゆの花
恋愛
「契約結婚しませんか、僕と?」 「はいっ喜んで!」  天然ピンク髪の辺境令嬢マリッサ・アンジュールは、前世の記憶を持つ異世界転生者。ある日マリッサ同様、前世の記憶持ちのイケメン公爵ジュリアス・クラインから契約結婚を持ちかけられちゃいます。  契約に応じてお金をもらえる気楽な結婚と思いきや、公爵様はマリッサに本気で惚れているようで……気がついたら目一杯溺愛されてるんですけどぉ〜!  * この作品は小説家になろうさんにも投稿しています。  * 1話あたりの文字数は、1000文字から1800文字に調整済みです。  * 2020年4月30日、全13話で作品完結です。ありがとうございました!

女王は若き美貌の夫に離婚を申し出る

小西あまね
恋愛
「喜べ!やっと離婚できそうだぞ!」「……は?」 政略結婚して9年目、32歳の女王陛下は22歳の王配陛下に笑顔で告げた。 9年前の約束を叶えるために……。 豪胆果断だがどこか天然な女王と、彼女を敬愛してやまない美貌の若き王配のすれ違い離婚騒動。 「月と雪と温泉と ~幼馴染みの天然王子と最強魔術師~」の王子の姉の話ですが、独立した話で、作風も違います。 本作は小説家になろうにも投稿しています。

身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~

ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。 彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。 ――死んだはずの彼女が、生きている? 同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。 「今さら、逃げ道があると思うなよ」 瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。 秘された皇子と、選び直した愛。 三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?    * * * 後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。

冷遇妃ライフを満喫するはずが、皇帝陛下の溺愛ルートに捕まりました!?

由香
恋愛
冷遇妃として後宮の片隅で静かに暮らすはずだった翠鈴。 皇帝に呼ばれない日々は、むしろ自由で快適——そう思っていたのに。 ある夜、突然現れた皇帝に顎を掴まれ、深く口づけられる。 「誰が、お前を愛していないと言った」 守るための“冷遇”だったと明かされ、逃げ道を塞がれ、甘く囲われ、何度も唇を奪われて——。 これは冷遇妃のはずだった少女が、気づけば皇帝の唯一へと捕獲されてしまう甘く濃密な溺愛物語。

処理中です...