白レースと礼拝堂、三ヶ月だけの仮婚約。 ——独り占めではなく“隣で全部を見る”溺愛。選ぶのは、わたし。

星乃和花

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第2話 私の計画は三ヶ月(私)

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白金の輪が、彼女の指に落ち着いたのを見届けてから、私は深く息をした。
軽い。けれど、目で追うと不思議に重い。私の胸のどこか、慎ましい場所に、その白い音が置かれたまま鳴っている。

「お部屋をご案内します」

家令の声にうなずいて、私は半歩だけ下がる。彼女が先に石段を上がる。白いレースの裾が陽をすくって、すぐ消える。手すりに置かれた細い指に、さっきの輪が光った。私はそこで視線を切った。追いかけすぎないこと。三ヶ月の初日から、私が守るべきことは、それだ。

「——明朝、庭での朝食を」

私が言うと、家令は短く「かしこまりました」と答えた。
「噴水の横のテラスに。日射しが柔らかいうちに」

「薔薇園を経由する散策路は、砂利を整えておきます」

「頼む」

彼女の歩幅は思っていたより小さくはなかった。今日、庭で合わせた真ん中の歩幅が、私の記憶より少し広い。十八歳。子どもの足取りではない。ゆっくりと、それでも確かに伸びていく背に、私は目を細めた。

執務室に戻る。ドアが閉まる音が、心地よい静けさを呼んだ。
机の引き出しから、小さな手帳を取り出す。表紙には何も書かれていない。ただの茶色。三ヶ月のあいだだけ、ここに“計画”を置く。

——第一月:暮らしの安心。
——第二月:一緒の時間の密度を少しだけ。
——第三月:言葉で求める。彼女の意思で選んでもらう。

行に線を引きながら、私は笑ってしまう。計画など、と笑う声も確かにある。恋は枠に入らない、と。わかっている。わかっているが、私は性分がそうなのだ。誰かを守るとき、私は段取りに頼る。段取りは、私が焦らないための柵でもある。

「——焦るな」

独り言が、ふいに別のかたちになる。
「焦るな、俺」

音の端が、自分の耳に刺さって、私は首を振った。
いけない。彼女の前では「私」でいる。彼女の前“でも”、だ。名前ではなく人格の輪郭の話だ。私が乱れるのは、彼女を乱さないために、ここで。扉の内側で。

ノックの音。メイド長が入ってくる。白いエプロンに薄灰の制服、いつもの落ち着いた顔。

「お支度の件で、確認を。明朝のテラスには白布を。お嬢様のお部屋には、淡い色の寝間着をご準備しております」

「彼女の好みを聞いてくれ。白が多すぎないように。……いや、白が似合うのは見たが、押しつけにならぬように」

「承知しました。お花は?」

「香りの強すぎないものを。ローズマリーを少し、枝で。窓辺に」

「はい」

彼女が“わたしはここが好き”と思えるものを、静かに置く。それだけでいい。家はただの箱ではない。人が安心して呼吸できる温度の積み木だ。彼女が三ヶ月だけ身を置くなら、私はその積み木をやわらかい順に重ねる。

メイド長が下がると、家令がすぐに入れ替わる。
「散策路の砂利は入れ替えます。石段の手すり、塗り直しは」

「手触りが荒くないか、今のまま確認を。彼女のレースが引っかからぬように。……それから、礼拝堂へ続く丘道の草刈りを頼む。視界が開けていたほうが風が通る」

「畏まりました」

礼拝堂。
その屋根を指して、彼女が「好きです」と言った。好き、という言葉に所有の匂いはなかった。ただ、風の通る場所が好き、という透明な好みだ。私はそれに嫉妬しない。できれば、そこに立つ彼女の隣に、自分がいてもおかしくない人間でありたい——それだけだ。

机に座り直し、薄い便箋を一枚抜いた。
明日の朝、庭をもう少し歩きませんか。噴水の手前で待っています。
それだけ書いて、封もせずに、メイドに託す。言葉は少なく。たくさん添えるほど、彼女の選ぶ余白が削れる。彼女の余白は、守る価値がある。いや——私が守りたい。

窓の外、薔薇のアーチ越しに客人用の馬車が一台、遠ざかっていくのが見えた。今日の用向きは午前で終わり。屋敷は午後から少し呼吸をゆるめる時間帯に入る。
窓辺に寄って、何もない庭を眺める。何もないわけではないのだが、彼女のいない庭は、さっきとは別の景色だ。噴水の縁に落ちる光の角度さえ、彼女の袖口が通り過ぎた記憶を空けて、そこで待っている。

「旦那様」

家令が再び顔を見せる。
「礼拝堂の管理人より、祭壇布の交換日程の知らせが。明後日、午前」

「ありがとう。……こちらから特に伝えることはない。あそこはあそこで、私の都合に従わない方がいい」

「承知しました」

礼拝堂は、誰のものでもない。使われるたびに、誰でもない祈りが重なって、静けさを増す。私が好きなのは、その頑固な静けさだ。そこに立つ彼女の横顔が、私のなかの何かを撃ち抜いたのは事実だが——その“撃ち抜かれた”話は、今はまだ手帳にも書かない。第四の行に、いつか一行で充分だ。

午後、書庫に降りて、いくつかの本を選んだ。
庭の植物の見分け方の絵本のような書物と、丘で見える鳥の図版集。どちらも難しくない。図が多くて、めくる楽しさが先に立つ。机に積んで、表紙だけ拭いた。誰かに渡すつもりで本を拭くのは、何年ぶりだろう。滑稽に見えるかもしれないが、私はこういうことをする男だ。彼女がページをめくる指がすべらないように、と。馬鹿げている? 構わない。私は私のやり方で、手元の世界を整える。

夕刻、廊下を歩く足音がして、彼女がバルコニーに出たのが見えた。丁度、私の執務室の窓の斜向かい。気づけば私は、書類に目を落とすふりをして、視線だけでそこを探していた。
白い袖口が欄干に寄り、指が光る。彼女は指輪を外さない。外す理由がないから、外さない——その単純さに、私はほっとしてしまう。自分が勝手に安堵している。彼女に頼まれたわけでも、約束したわけでもないのに。

「……」

そこから先は、見ない。
私は窓から離れ、机に戻った。どこまで見ていいのか、私は知っている。隣に立つ時のために、いま、背中をすこしずつ向ける練習をする。振り返りすぎない。目の前の書類を片付け、明朝の天気を確認し、予備の日傘を用意させる。彼女が使うかどうかは、彼女が決める。

夜、ベルが鳴って、食堂に向かうと、彼女はすでに席にいた。
テーブルクロスは白、ナプキンは淡い藍。白ばかりにならぬようにと頼んだ色が、ほどよい影を作っている。彼女は水の入ったグラスを両手で包んで、こちらを見た。

「……あの、明日の朝のお散歩、手紙、ありがとうございました」

「読んでくれて、ありがとう。無理なら、いつでも断ってほしい」

「無理じゃないです。歩きたいんです、朝の庭。風がやわらかくて」

彼女は嬉しそうに言って、パンをちぎる。
その仕草が、思っていたより幼くなくて、私は——いや、フォークを持つ手の力を抜いた。年齢は数字ではある。だが、数字だけではない。今日の彼女は、今日の彼女の年齢だ。明日の彼女は、明日の彼女の年齢だ。その動くところに、私は安心する。私の「待つ」が、ただの停滞にならずに済む。

「三ヶ月って、長いのか短いのか、わからないですね」

食後のハーブティーの湯気の向こうで、彼女がぽつりと言った。
私はカップを置き、少し考えてから答える。

「私には、足りないかもしれない。……が、君には、ちょうどいいかもしれない」

「どうして、ちょうどいいって思うんですか?」

「君が、余白を大事にするように見えるから。急がない人は、急がされると傷む。だから、三ヶ月は、急がないための長さとして、ちょうどいい」

彼女は「余白……」と口の中で転がし、ふわりと微笑んだ。
その笑いは、礼拝堂の白い壁に似ている。装飾ではなく、光を受けるための白だ。私は胸の内で、手帳の第一行に小さな丸印をつける。暮らしの安心に、ひとつ目の印。

「明日、噴水の手前で」

「はい。白い日傘、持っていきます」

「眩しかったら、すぐ言ってくれ」

「言います」

短い会話。足りないくらいが、今日はいい。
別れ際、彼女が椅子から立ち上がるとき、指輪が灯の下でまた鳴った。音はしないのに、確かに鳴った。私は頷いてから目を逸らす。彼女の部屋へ続く廊下は、柔らかな光で満たされている。今夜は、よく眠れるだろうか。私ではなく——彼女が。

部屋に戻ると、窓の外は群青。庭の影がひとつにまとまり、噴水の水音が深くなる。机の手帳を閉じ、ペンを置く。
三ヶ月の計画は、紙の上では完璧だ。だが、紙に触れない体温を、私は知っている。

だから、明日の朝は書かない。
歩く。歩幅を合わせる。風を確かめる。指先の輪が、ただの輪ではないことを、言葉にせずに見守る。彼女が「わたしの意思」を見つけたとき、その意思の先に私がいるなら——私はその手を取る。いなければ、離す。潔さと正直の、どちらも手に入れる。私が欲しいのは、彼女の幸福で、私の傲慢ではない。

……それでも。
窓の向こうの丘の屋根を見つめながら、喉の奥で小さな声が勝手に生まれた。

「どうか、俺を選んでくれ」

すぐに息を吐いて、暗闇に溶かす。
明日の朝の風は、きっとやさしい。やさしい風は、誰の味方でもない。だから私は、やさしい風の味方でいたい。彼女が笑う方へ、私も歩けるように。
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