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序章 優雅なお茶会の契約
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〈条一・優雅:声は半音低く、感情は急がない〉
王都の中央広場は、今日もちゃんと平和だった。
露店から焼きたてのパンの匂いが流れてきて、道端では大道芸人が子どもたちを笑わせている。鳩は相変わらず空気を読まず、行列と行列のあいだをのしのし歩いていく。
――これほど世界が穏やかなのだから。
わたくしが今から始める「ごっこ遊び」ひとつくらい、許されてもいいはずだ。
木製の看板を胸の前に掲げる。
そこには、黒いインクで簡潔にこう書いてある。
『執事急募』
条件も仕事内容も書いていない、たった四文字。
通りすがりの人たちが、一様に目を見開いて、すぐに笑う。
「……本気なんだよね?」
「看板だけで情報量が少なすぎるわ」
ひそひそ声は、想定の範囲内だ。
――だって、これは、わたくしの長年の夢なのだから。
ずっと、ずっと、お嬢様に憧れてきた。
勉強をしているときも、討論大会で発言を求められたときも、珠算大会で指先が震えそうになったときも。心のどこかで、ふと考えてしまう。
もし、わたくしに執事がいたなら。
もし、「大丈夫ですよ、お嬢様」と、柔らかく背中を押してくれる人がそばにいたなら。
きっと、心の中の小さな怖さは、もう少し早く溶けたかもしれない。
だからこそ今回、長期休暇に入る前に、親を説得した。
討論大会と珠算大会で優秀な成績を残し、賞金を積み上げて、計算式を示すみたいに真面目に言った。
『このお金で、わたくしの夢を一つ叶したいのです』と。
両親は首をかしげて、「夢」とやらの内容にあまり納得していない様子だったけれど、数字と成績の前では抗いづらいらしい。最終的には、「長期休暇のあいだ、危ないことをしないと約束するなら」という条件付きで、資金の自由な使用を許された。
――危ないことはしない。
執事急募と書いた看板を持って広場に立つことが、危険行為に含まれないことを祈るのみである。
「お嬢さん、それ、本気で出してるの?」
最初に声をかけてきたのは、陽気そうな青年だった。
腰に工具袋を下げているから、きっと職人だろう。仕事の合間に冷やかしに来た、という顔つきだ。
「ええ。本気です」
わたくしは、できるだけ丁寧に微笑んだ。
お嬢様願望を叶えたい者として、たとえ願望の最中でなくとも姿勢は正しておきたい。
「報酬は前払い済みです。長期休暇が終わるまでのあいだ、執事として“ごっこ遊び”に付き合ってくださる方を探しています」
「ごっこ遊び?」
「はい。身の安全が確保されている範囲で、優雅にお茶を淹れていただき、お出かけの際にはエスコートを。困ったときには、そっと助言をいただければ」
青年は楽しそうに笑った。
「なるほどね。で、条件は? 顔? 背丈? それとも、恋人になってくれとか?」
「恋人は募集しておりません」
はっきり否定すると、青年は露骨に肩を落とした。
それから、やたら砕けた調子で売り込んでくる。
「じゃあさ、飲みに連れてってくれる執事は? 甘いもの奢ってくれる執事とか。夜の見回りに付き合う執事だってできるよ?」
「……申し訳ありません。募集しているのは、わたくしのお嬢様願望を叶えるための執事さんです」
語尾だけは柔らかく、しかし内容は全力でお断りすると、青年は「残念」と笑って去っていった。そういう人が、数人続いた。
顔がいいから、とか。
お金が欲しいから、とか。
理由はいろいろだったけれど、軽い冗談を混ぜながら近づいてくる人たちは、どこかで「ごっこ遊び」を、ただの冗談だと思っている。
――わたくしにとっては、冗談ではないのに。
立ち続ける足首が、じんわりと重くなってきた頃。
静かな靴音が、看板の前で止まった。
顔を上げると、日陰と日向の境目のような青年が立っていた。
年の頃は、二十代半ばか。濃い灰色の髪を後ろで一つに束ねていて、目元は少し眠たそうなのに、視線だけは研ぎ澄まされている。
彼は、まず看板をじっと見て――その角度を、さりげなく直した。
「……歪んでいましたので」
「あ、ありがとうございます」
わたくしが慌てて礼を言うと、青年は小さく会釈を返し、それからようやくこちらを見た。
「執事をお探しだとか」
「はい。募集しております」
いつも通りの文句を言おうとして、ふと息を呑む。
彼の眼差しは、からかうでもなく、興味本位でもない。ただ、職務内容を確認する前のような静けさで、看板の四文字を受け止めていた。
「条件を、お聞きしても?」
「ええ。もしよろしければ、あちらで」
わたくしは、広場の端に出ている小さな屋台を指さした。
丸い木のテーブルが二つほど置かれていて、簡単な椅子と、湯気を立てるポット。ここなら、少し落ち着いて話ができる。
「“面談”を、お茶をいただきながら行いたいのです。……そういうところも含めて、お付き合いいただけるかどうかを」
「承知しました」
彼はあっさり頷いた。冗談で茶化す人たちが多かったから、その素直な返事に、胸の奥が少しほぐれる。
テーブルにつき、屋台の主人に紅茶を二つ頼む。
カップが置かれた瞬間、青年の仕草が変わった。
持ち手に指を添える角度、ソーサーを支える手の位置。カップを持ち上げる高さも、決して低すぎず、高すぎない。
紅茶の香りが立ちのぼるあいだ、わたくしはじっと観察した。
――この人は、日常のどこかで「誰かのための所作」を身につけた人だ。
「……まずは、わたくしのほうから要望をお伝えしますね」
小さく咳払いして、背筋を伸ばす。
この瞬間くらいは、お嬢様ふうを気取っても許されるだろう。
「“お嬢様ごっこ”における、わたくしの要望は三つございます」
「三つ」
「一つ、優雅に。二つ、楽しく。三つ、対等で」
青年――彼の名をまだ知らない――の眉が、かすかに動いた。
軽薄に笑うでも、感心しすぎるでもなく、ただ言葉を受け止めて、その重さを測るように。
「優雅、楽しく、対等……ですか」
「はい」
言葉を補うように、説明を添える。
「優雅に、とは。誰かを踏みつけないこと、急がないこと。
楽しく、とは。ごっこ遊びだからこそ、現実を壊さない程度に、わたくしたちが笑えること。
対等で、とは。お嬢様と執事という“役”はあっても、この遊びの責任を、二人で持つことです」
言いながら、少しだけ手が震いそうになる。
こんなふうに自分の願望を他人に説明したことなど、今まで一度もなかった。
青年は黙って聞いていた。
紅茶をひとくち啜り、カップを音も立てずに戻してから、静かに口を開く。
「……俺からも、一つだけ要望を出して良いでしょうか」
「どうぞ」
わたくしは、緊張を悟られないように微笑みながら、紅茶の香りに意識を逃がした。
「期待に添える働きがしたい」
短い言葉だった。
けれど、そこには妙な重さがあった。
“期待に添える”という言い回しは、どこかで聞き慣れている。けれど彼の声色には、仕事の打ち合わせのような硬さではなく、もう少し切実ななにかが滲んでいた。
「それが、俺の条件です。……あなたが望む『優雅・楽しい・対等』に、できるだけ近づけるように働きたい。その期待に添えないようであれば、遠慮なく契約を破棄してほしい」
世界が平和になった、という話を最近よく耳にする。
仕事が減った兵士や官吏たちが、昼から酒場にいるのを見かけることもある。
きっと、この人も、そのひとりなのだ。
――役割が、急に軽くなってしまった人。
看板を直したときの、あの仕草。
カップの縁を指でなぞる、癖のような丁寧さ。
自分のためだけに身体を動かすより、誰かのために動くほうが落ち着く人。
胸が、すこしだけ痛くなった。
「……では、その要望も、契約書に記載してよろしいでしょうか」
わたくしは、あらかじめ用意していた紙束を取り出した。
“執事契約書”と書かれた一枚目の下に、「備考欄」として余白を残してある。
「お嬢様ごっこにおける要望――『優雅に』『楽しく』『対等で』。
そして、執事殿の要望『期待に添える働きがしたい』」
さらさらとペンを走らせていると、青年がふと笑った。
「執事殿、ですか」
「他にどうお呼びすれば?」
「……アッシュ、とお呼びください。アッシュ・グレイ。
普段は、ただのアッシュで充分ですが」
「わたくしはリリーと申します。リリー・クロフォード。
では、アッシュ。これより長期休暇の終わりまで、わたくしの執事として、お付き合いくださいませ」
契約書の末尾に、ふたりの名前を書き入れる。
アッシュは、迷いなくサインした。ペンを置くその動作さえ、どこか静かで、優雅だった。
「承知しました。お嬢様」
そう呼ばれた瞬間、胸の奥で、何かが柔らかくほどけた。
思えば、ずっと欲しかった言葉だ。
絵本の中でしか聞かなかった、けれど確かに憧れていた呼び名。
「……はい」
わたくしは、静かに、しかしはっきりと頷いた。
これは、わたくしの「お嬢様ごっこ」の始まりであり――
そしてきっと、アッシュの、新しい役割の予告編でもある。
王都の中央広場は、今日もちゃんと平和だった。
露店から焼きたてのパンの匂いが流れてきて、道端では大道芸人が子どもたちを笑わせている。鳩は相変わらず空気を読まず、行列と行列のあいだをのしのし歩いていく。
――これほど世界が穏やかなのだから。
わたくしが今から始める「ごっこ遊び」ひとつくらい、許されてもいいはずだ。
木製の看板を胸の前に掲げる。
そこには、黒いインクで簡潔にこう書いてある。
『執事急募』
条件も仕事内容も書いていない、たった四文字。
通りすがりの人たちが、一様に目を見開いて、すぐに笑う。
「……本気なんだよね?」
「看板だけで情報量が少なすぎるわ」
ひそひそ声は、想定の範囲内だ。
――だって、これは、わたくしの長年の夢なのだから。
ずっと、ずっと、お嬢様に憧れてきた。
勉強をしているときも、討論大会で発言を求められたときも、珠算大会で指先が震えそうになったときも。心のどこかで、ふと考えてしまう。
もし、わたくしに執事がいたなら。
もし、「大丈夫ですよ、お嬢様」と、柔らかく背中を押してくれる人がそばにいたなら。
きっと、心の中の小さな怖さは、もう少し早く溶けたかもしれない。
だからこそ今回、長期休暇に入る前に、親を説得した。
討論大会と珠算大会で優秀な成績を残し、賞金を積み上げて、計算式を示すみたいに真面目に言った。
『このお金で、わたくしの夢を一つ叶したいのです』と。
両親は首をかしげて、「夢」とやらの内容にあまり納得していない様子だったけれど、数字と成績の前では抗いづらいらしい。最終的には、「長期休暇のあいだ、危ないことをしないと約束するなら」という条件付きで、資金の自由な使用を許された。
――危ないことはしない。
執事急募と書いた看板を持って広場に立つことが、危険行為に含まれないことを祈るのみである。
「お嬢さん、それ、本気で出してるの?」
最初に声をかけてきたのは、陽気そうな青年だった。
腰に工具袋を下げているから、きっと職人だろう。仕事の合間に冷やかしに来た、という顔つきだ。
「ええ。本気です」
わたくしは、できるだけ丁寧に微笑んだ。
お嬢様願望を叶えたい者として、たとえ願望の最中でなくとも姿勢は正しておきたい。
「報酬は前払い済みです。長期休暇が終わるまでのあいだ、執事として“ごっこ遊び”に付き合ってくださる方を探しています」
「ごっこ遊び?」
「はい。身の安全が確保されている範囲で、優雅にお茶を淹れていただき、お出かけの際にはエスコートを。困ったときには、そっと助言をいただければ」
青年は楽しそうに笑った。
「なるほどね。で、条件は? 顔? 背丈? それとも、恋人になってくれとか?」
「恋人は募集しておりません」
はっきり否定すると、青年は露骨に肩を落とした。
それから、やたら砕けた調子で売り込んでくる。
「じゃあさ、飲みに連れてってくれる執事は? 甘いもの奢ってくれる執事とか。夜の見回りに付き合う執事だってできるよ?」
「……申し訳ありません。募集しているのは、わたくしのお嬢様願望を叶えるための執事さんです」
語尾だけは柔らかく、しかし内容は全力でお断りすると、青年は「残念」と笑って去っていった。そういう人が、数人続いた。
顔がいいから、とか。
お金が欲しいから、とか。
理由はいろいろだったけれど、軽い冗談を混ぜながら近づいてくる人たちは、どこかで「ごっこ遊び」を、ただの冗談だと思っている。
――わたくしにとっては、冗談ではないのに。
立ち続ける足首が、じんわりと重くなってきた頃。
静かな靴音が、看板の前で止まった。
顔を上げると、日陰と日向の境目のような青年が立っていた。
年の頃は、二十代半ばか。濃い灰色の髪を後ろで一つに束ねていて、目元は少し眠たそうなのに、視線だけは研ぎ澄まされている。
彼は、まず看板をじっと見て――その角度を、さりげなく直した。
「……歪んでいましたので」
「あ、ありがとうございます」
わたくしが慌てて礼を言うと、青年は小さく会釈を返し、それからようやくこちらを見た。
「執事をお探しだとか」
「はい。募集しております」
いつも通りの文句を言おうとして、ふと息を呑む。
彼の眼差しは、からかうでもなく、興味本位でもない。ただ、職務内容を確認する前のような静けさで、看板の四文字を受け止めていた。
「条件を、お聞きしても?」
「ええ。もしよろしければ、あちらで」
わたくしは、広場の端に出ている小さな屋台を指さした。
丸い木のテーブルが二つほど置かれていて、簡単な椅子と、湯気を立てるポット。ここなら、少し落ち着いて話ができる。
「“面談”を、お茶をいただきながら行いたいのです。……そういうところも含めて、お付き合いいただけるかどうかを」
「承知しました」
彼はあっさり頷いた。冗談で茶化す人たちが多かったから、その素直な返事に、胸の奥が少しほぐれる。
テーブルにつき、屋台の主人に紅茶を二つ頼む。
カップが置かれた瞬間、青年の仕草が変わった。
持ち手に指を添える角度、ソーサーを支える手の位置。カップを持ち上げる高さも、決して低すぎず、高すぎない。
紅茶の香りが立ちのぼるあいだ、わたくしはじっと観察した。
――この人は、日常のどこかで「誰かのための所作」を身につけた人だ。
「……まずは、わたくしのほうから要望をお伝えしますね」
小さく咳払いして、背筋を伸ばす。
この瞬間くらいは、お嬢様ふうを気取っても許されるだろう。
「“お嬢様ごっこ”における、わたくしの要望は三つございます」
「三つ」
「一つ、優雅に。二つ、楽しく。三つ、対等で」
青年――彼の名をまだ知らない――の眉が、かすかに動いた。
軽薄に笑うでも、感心しすぎるでもなく、ただ言葉を受け止めて、その重さを測るように。
「優雅、楽しく、対等……ですか」
「はい」
言葉を補うように、説明を添える。
「優雅に、とは。誰かを踏みつけないこと、急がないこと。
楽しく、とは。ごっこ遊びだからこそ、現実を壊さない程度に、わたくしたちが笑えること。
対等で、とは。お嬢様と執事という“役”はあっても、この遊びの責任を、二人で持つことです」
言いながら、少しだけ手が震いそうになる。
こんなふうに自分の願望を他人に説明したことなど、今まで一度もなかった。
青年は黙って聞いていた。
紅茶をひとくち啜り、カップを音も立てずに戻してから、静かに口を開く。
「……俺からも、一つだけ要望を出して良いでしょうか」
「どうぞ」
わたくしは、緊張を悟られないように微笑みながら、紅茶の香りに意識を逃がした。
「期待に添える働きがしたい」
短い言葉だった。
けれど、そこには妙な重さがあった。
“期待に添える”という言い回しは、どこかで聞き慣れている。けれど彼の声色には、仕事の打ち合わせのような硬さではなく、もう少し切実ななにかが滲んでいた。
「それが、俺の条件です。……あなたが望む『優雅・楽しい・対等』に、できるだけ近づけるように働きたい。その期待に添えないようであれば、遠慮なく契約を破棄してほしい」
世界が平和になった、という話を最近よく耳にする。
仕事が減った兵士や官吏たちが、昼から酒場にいるのを見かけることもある。
きっと、この人も、そのひとりなのだ。
――役割が、急に軽くなってしまった人。
看板を直したときの、あの仕草。
カップの縁を指でなぞる、癖のような丁寧さ。
自分のためだけに身体を動かすより、誰かのために動くほうが落ち着く人。
胸が、すこしだけ痛くなった。
「……では、その要望も、契約書に記載してよろしいでしょうか」
わたくしは、あらかじめ用意していた紙束を取り出した。
“執事契約書”と書かれた一枚目の下に、「備考欄」として余白を残してある。
「お嬢様ごっこにおける要望――『優雅に』『楽しく』『対等で』。
そして、執事殿の要望『期待に添える働きがしたい』」
さらさらとペンを走らせていると、青年がふと笑った。
「執事殿、ですか」
「他にどうお呼びすれば?」
「……アッシュ、とお呼びください。アッシュ・グレイ。
普段は、ただのアッシュで充分ですが」
「わたくしはリリーと申します。リリー・クロフォード。
では、アッシュ。これより長期休暇の終わりまで、わたくしの執事として、お付き合いくださいませ」
契約書の末尾に、ふたりの名前を書き入れる。
アッシュは、迷いなくサインした。ペンを置くその動作さえ、どこか静かで、優雅だった。
「承知しました。お嬢様」
そう呼ばれた瞬間、胸の奥で、何かが柔らかくほどけた。
思えば、ずっと欲しかった言葉だ。
絵本の中でしか聞かなかった、けれど確かに憧れていた呼び名。
「……はい」
わたくしは、静かに、しかしはっきりと頷いた。
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