2 / 11
第一話 仕立て屋へ、身支度の条
しおりを挟む
〈条一補:身支度は“間に合う優雅さ”で〉
契約書にサインをした翌日。
午前中の仕事を終え、俺はひとまず前の職場に顔を出してから、王都の中央広場へ向かった。
正確には、もう「職場」ではない。
平和条約が結ばれ、国境の緊張が解けてからというもの、俺の部署の仕事は激減した。かつて一日二十通以上あった命令書が、今では週に数通。午前中で片づけられる程度だ。
長い廊下を歩く自分の足音が、やけに軽く感じられる。
必要とされる回数が減ると、身体も本当に軽くなるらしい。
そうして空いた午後を、最初の数日はもてあましていた。
手持ち無沙汰のまま、家の床を磨き、棚を整理し、それでも手が余る。
――誰かのために動くほうが、性に合っているのだろうな。
そんなことを考えながら歩いていたときに見つけたのが、『執事急募』の看板だった。
看板ごときの角度が気になって仕方がない時点で、俺は相当重症なのかもしれない。
広場に着くと、昨日と同じ場所に、リリーが立っていた。
今日は看板を持ってはいない。代わりに、淡いクリーム色のワンピース姿で、きちんと揃えた足先を石畳の上に置いている。
「アッシュ」
俺の姿に気づくと、彼女は少しだけほっとしたような顔をした。
昨日は終始「わたくし」と名乗っていたが、その言葉遣いは、訓練されたものというより、長年の憧れを真面目に身につけようとしている最中――そんな印象だ。
「お待たせしました、お嬢様」
自然と、その呼び方になっていた。
リリーは一瞬だけ身じろぎして、すぐに小さく笑った。
「いえ、今来たところです。……今日は、どこから始めましょうか」
「まずは、装備を整えましょう」
「装備?」
「身支度です。役割は、見た目から入るものですから」
俺がそう言うと、リリーは素直に頷いた。
全身で「真剣に、ごっこ遊びをするつもりです」という空気を出している。そこが妙におかしくて、同時に愛おしい。
「では、お嬢様と俺の衣服を。身軽なほうが、日々の任務も遂行しやすい」
「任務……」
小さく繰り返して、彼女は口元に笑みを浮かべる。
「“お嬢様ごっこ”の、ですね」
「もちろんです」
言ってから、自分でも少し笑った。
平和になったとはいえ、語彙の選び方がまだ戦時中のままなのは、俺の悪い癖かもしれない。
「仕立て屋を、いくつか知っています。質と予算に合わせてご提案できますが……」
そう切り出すと、リリーは腰に下げた小さな巾着をぎゅっと握った。
「予算は、こちらの中に収まる範囲でお願いしたいです。……ただ、今回のプロジェクトには、わたくしなりに全力を尽くしてきましたので」
「プロジェクト」
また、新しい言い方が出てきた。
討論大会と珠算大会で得た賞金。その数字を親に見せて説得した話を、昨日聞いたときから、俺は彼女のことを少しだけ尊敬している。
「承知しました。では、『プロジェクトお嬢様』の予算内で、最適解を」
「お願いします」
彼女が軽く会釈をする。
その動きに合わせて、クリーム色のスカートがふんわり揺れた。
人混みの中を歩くとき、俺は自然と半歩前に出た。
肩が触れない程度の距離を保ちつつ、行列の切れ目を見計らい、リリーに向かって手を差し出す。
「ここ、少し段差があります」
「あ、ありがとうございます」
彼女はためらいながらも、その手に自分の手を預けた。
指先が、少し冷たい。人前で「お嬢様」を演じることに、まだ緊張しているのかもしれない。
――その緊張ごと、支えるのが、執事の仕事だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は仕立て屋の扉を押した。
王都でも評判の、老舗の仕立て屋だ。
控えめな看板と、磨き込まれたガラス。中からは、柔らかな布地の香りがする。
「いらっしゃいませ」
老舗の主人が、俺の顔を見るなり目を細めた。
「これは、アッシュさん。今日はお一人ではないのですね」
「ええ。お嬢様のお仕度をお願いしたくて」
そう言うと、主人の視線がリリーへと移る。
リリーは、緊張を飲み込むように喉を鳴らしてから、一歩前へ出た。
「はじめまして。リリー・クロフォードと申します。……本日、執事を一人雇いましたので、そのプロジェクトに相応しい服装のご相談を」
主人の眉が、愉快そうに上がった。
「それはまた、面白いご関係で」
「ごっこ遊びです」と俺が補足すると、主人は声を立てて笑った。
「なるほど。でしたら、本気でやらねばいけませんね」
その一言が頼もしくて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
まずは、リリーの服から決めることにした。
主人が差し出してきた布見本の束を、リリーと並んで覗き込む。
「どのような“お嬢様”でありたいと、お考えですか」
俺が尋ねると、彼女はしばらく黙り込んだ。
「……めいっぱい優雅で。けれど、近づきがたい人にはなりたくありません」
「なるほど」
「歩いているだけで周囲が緊張してしまうような、そういう方ではなくて。
なんというか、その……一緒にいる人たちが、少しだけ背筋を伸ばしたくなるような」
言葉を探しながら、彼女は布に指を這わせる。
それは、自分の中の理想像を引き出そうとする、誠実な動きだった。
「でしたら、光沢の強すぎない生地が良さそうです。
色は、今お召しのクリームも似合っていますが……少しだけ淡い灰青を混ぜるのはどうでしょう。柔らかさを残しつつ、静かな芯が通る感じになります」
「灰青……」
俺は布見本から、ほどよい厚みと落ち感のあるものを選び出した。
リリーの顔立ちと髪色を見ながら、襟元や袖口の形を頭の中で組み立てていく。
「スカート丈は、動きやすさを考えると、ふくらはぎの中ほどがよろしいかと。
お嬢様ごっこで市場を歩く予定もありますし」
「市場……そうでしたね。人目、ありますよね」
リリーは少し頬を赤くして、うつむいた。
「……あの、アッシュ。わたくし、こういうお店に来るのは初めてなので。すべてお任せしてしまっても?」
「光栄です」
即答すると、彼女はわずかに目を丸くした。
それから、安心したように微笑む。
「では、わたくしは“優雅で楽しく対等なお嬢様”に見えるような服を、お願いします」
難易度の高い注文だ。
だが、腕が鳴る。――いや、実際に針を持つのは主人だが、設計図を描くのは嫌いではない。
リリーの採寸が済むと、次は俺の番だった。
「アッシュさんのほうは、いつものように動きやすさ優先ですか?」
「多少は」
「多少は?」
「今回は、ごっこ遊びの『執事』ですので」
主人は眼鏡の奥で目を光らせた。
「でしたら、肩と背中にだけ少し余裕を持たせましょう。お嬢様の荷物を持ち、扉を開け、椅子を引く動作が増えますから」
「……よくご存じで」
「昔、そういう仕事をしていたもので」
主人の言葉に、リリーが興味深そうにこちらを見た。
俺は軽く肩をすくめる。
「前職も、似たようなものです。
ただ、今は世界が平和になったので、少し仕事が余りました」
「だから、執事になってくださったのですか」
リリーの問いに、俺は少し考えてから答えた。
「そうですね。……役が、少しばかり余りまして」
彼女は、いたずらを見抜いた教師のように、しかし優しく微笑んだ。
「では、余った役を、わたくしが預からせていただきますわね」
その言い方があまりにも真面目で、思わず笑いそうになる。
笑ってしまえば、彼女の誠実さを軽んじることになる気がして、喉の奥でなんとか飲み込んだ。
数日後、仮縫いの日。
仕立て屋の奥の試着室から、そっとカーテンが開いた。
淡い灰青のドレスに身を包んだリリーが、少しだけ戸惑ったような、しかし誇らしげな顔で立っている。
「……どう、でしょうか」
「問題ありません」
口から出たのは、あまりにも事務的な言葉だった。
本当は、もう少し何かあったはずなのに。
リリーは不安そうに鏡を見て、自分の裾をつまむ。
「どこか、おかしなところがあれば、遠慮なく教えてください。これは、ただの“ごっこ遊び”ではありますけれど、わたくしにとっては重大な――」
「お嬢様」
言葉を遮るように、俺は一歩近づいた。
鏡越しに、彼女と視線がぶつかる。
「とても、お似合いですよ」
それだけ告げて、彼女の髪飾りに手を伸ばした。
試しにつけてみたリボンの位置が、少しだけずれている。
「少し失礼します」
指先でそっと、リボンの位置を整える。
柔らかな髪が、指の甲をかすめた。香りの弱い、けれど清潔な石鹸の匂いがした。
鏡の中で、リリーの頬がゆっくりと赤くなっていく。
「……本当のお嬢様になれたみたい、です」
小さく、そう呟いた。
その声には、長いあいだ心の中で温めてきた憧れと、今ようやくそれに触れた戸惑いとが、同時に混ざっていた。
「ごっこでも、本気にすれば、だいたい本物になります」
俺が言うと、主人が奥から「名言ですね」と笑った。
リリーも、緊張の中で、少しだけ肩の力を抜く。
採寸と仮縫いが終わると、主人が納期を告げた。
そのあいだに、俺は小さな帳面を取り出す。
「では、お嬢様。長期休暇のあいだの“任務計画”を立てましょう」
「任務計画?」
「はい。一週間に何度お嬢様ごっこを行うか、市場散策の日、庭園に行く日、美術館に行く日――」
項目を挙げていくと、リリーは目を輝かせた。
「そんなにたくさん、よろしいのですか?」
「“期待に添える働き”をしたいので」
俺がそう答えると、彼女は眉尻を下げて、少し困ったように笑った。
「……わたくしも、あなたの期待に応えられるようにしないと、ですね」
「お嬢様の期待は、俺が勝手に膨らませているだけですから」
「それはずるいですわ」
帳面のページに、いくつもの小さな予定が並んでいく。
市場、庭園、噴水、美術館。
どれもただの「ごっこ遊び」のはずなのに、その文字列は、妙に愛おしく見えた。
――これは、執事としての仕事の工程表だ。
そう言い聞かせながらも、俺は気づいている。
この表をいちばん楽しみにしているのは、おそらく、俺のほうだということに。
契約書にサインをした翌日。
午前中の仕事を終え、俺はひとまず前の職場に顔を出してから、王都の中央広場へ向かった。
正確には、もう「職場」ではない。
平和条約が結ばれ、国境の緊張が解けてからというもの、俺の部署の仕事は激減した。かつて一日二十通以上あった命令書が、今では週に数通。午前中で片づけられる程度だ。
長い廊下を歩く自分の足音が、やけに軽く感じられる。
必要とされる回数が減ると、身体も本当に軽くなるらしい。
そうして空いた午後を、最初の数日はもてあましていた。
手持ち無沙汰のまま、家の床を磨き、棚を整理し、それでも手が余る。
――誰かのために動くほうが、性に合っているのだろうな。
そんなことを考えながら歩いていたときに見つけたのが、『執事急募』の看板だった。
看板ごときの角度が気になって仕方がない時点で、俺は相当重症なのかもしれない。
広場に着くと、昨日と同じ場所に、リリーが立っていた。
今日は看板を持ってはいない。代わりに、淡いクリーム色のワンピース姿で、きちんと揃えた足先を石畳の上に置いている。
「アッシュ」
俺の姿に気づくと、彼女は少しだけほっとしたような顔をした。
昨日は終始「わたくし」と名乗っていたが、その言葉遣いは、訓練されたものというより、長年の憧れを真面目に身につけようとしている最中――そんな印象だ。
「お待たせしました、お嬢様」
自然と、その呼び方になっていた。
リリーは一瞬だけ身じろぎして、すぐに小さく笑った。
「いえ、今来たところです。……今日は、どこから始めましょうか」
「まずは、装備を整えましょう」
「装備?」
「身支度です。役割は、見た目から入るものですから」
俺がそう言うと、リリーは素直に頷いた。
全身で「真剣に、ごっこ遊びをするつもりです」という空気を出している。そこが妙におかしくて、同時に愛おしい。
「では、お嬢様と俺の衣服を。身軽なほうが、日々の任務も遂行しやすい」
「任務……」
小さく繰り返して、彼女は口元に笑みを浮かべる。
「“お嬢様ごっこ”の、ですね」
「もちろんです」
言ってから、自分でも少し笑った。
平和になったとはいえ、語彙の選び方がまだ戦時中のままなのは、俺の悪い癖かもしれない。
「仕立て屋を、いくつか知っています。質と予算に合わせてご提案できますが……」
そう切り出すと、リリーは腰に下げた小さな巾着をぎゅっと握った。
「予算は、こちらの中に収まる範囲でお願いしたいです。……ただ、今回のプロジェクトには、わたくしなりに全力を尽くしてきましたので」
「プロジェクト」
また、新しい言い方が出てきた。
討論大会と珠算大会で得た賞金。その数字を親に見せて説得した話を、昨日聞いたときから、俺は彼女のことを少しだけ尊敬している。
「承知しました。では、『プロジェクトお嬢様』の予算内で、最適解を」
「お願いします」
彼女が軽く会釈をする。
その動きに合わせて、クリーム色のスカートがふんわり揺れた。
人混みの中を歩くとき、俺は自然と半歩前に出た。
肩が触れない程度の距離を保ちつつ、行列の切れ目を見計らい、リリーに向かって手を差し出す。
「ここ、少し段差があります」
「あ、ありがとうございます」
彼女はためらいながらも、その手に自分の手を預けた。
指先が、少し冷たい。人前で「お嬢様」を演じることに、まだ緊張しているのかもしれない。
――その緊張ごと、支えるのが、執事の仕事だ。
そう自分に言い聞かせながら、俺は仕立て屋の扉を押した。
王都でも評判の、老舗の仕立て屋だ。
控えめな看板と、磨き込まれたガラス。中からは、柔らかな布地の香りがする。
「いらっしゃいませ」
老舗の主人が、俺の顔を見るなり目を細めた。
「これは、アッシュさん。今日はお一人ではないのですね」
「ええ。お嬢様のお仕度をお願いしたくて」
そう言うと、主人の視線がリリーへと移る。
リリーは、緊張を飲み込むように喉を鳴らしてから、一歩前へ出た。
「はじめまして。リリー・クロフォードと申します。……本日、執事を一人雇いましたので、そのプロジェクトに相応しい服装のご相談を」
主人の眉が、愉快そうに上がった。
「それはまた、面白いご関係で」
「ごっこ遊びです」と俺が補足すると、主人は声を立てて笑った。
「なるほど。でしたら、本気でやらねばいけませんね」
その一言が頼もしくて、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
まずは、リリーの服から決めることにした。
主人が差し出してきた布見本の束を、リリーと並んで覗き込む。
「どのような“お嬢様”でありたいと、お考えですか」
俺が尋ねると、彼女はしばらく黙り込んだ。
「……めいっぱい優雅で。けれど、近づきがたい人にはなりたくありません」
「なるほど」
「歩いているだけで周囲が緊張してしまうような、そういう方ではなくて。
なんというか、その……一緒にいる人たちが、少しだけ背筋を伸ばしたくなるような」
言葉を探しながら、彼女は布に指を這わせる。
それは、自分の中の理想像を引き出そうとする、誠実な動きだった。
「でしたら、光沢の強すぎない生地が良さそうです。
色は、今お召しのクリームも似合っていますが……少しだけ淡い灰青を混ぜるのはどうでしょう。柔らかさを残しつつ、静かな芯が通る感じになります」
「灰青……」
俺は布見本から、ほどよい厚みと落ち感のあるものを選び出した。
リリーの顔立ちと髪色を見ながら、襟元や袖口の形を頭の中で組み立てていく。
「スカート丈は、動きやすさを考えると、ふくらはぎの中ほどがよろしいかと。
お嬢様ごっこで市場を歩く予定もありますし」
「市場……そうでしたね。人目、ありますよね」
リリーは少し頬を赤くして、うつむいた。
「……あの、アッシュ。わたくし、こういうお店に来るのは初めてなので。すべてお任せしてしまっても?」
「光栄です」
即答すると、彼女はわずかに目を丸くした。
それから、安心したように微笑む。
「では、わたくしは“優雅で楽しく対等なお嬢様”に見えるような服を、お願いします」
難易度の高い注文だ。
だが、腕が鳴る。――いや、実際に針を持つのは主人だが、設計図を描くのは嫌いではない。
リリーの採寸が済むと、次は俺の番だった。
「アッシュさんのほうは、いつものように動きやすさ優先ですか?」
「多少は」
「多少は?」
「今回は、ごっこ遊びの『執事』ですので」
主人は眼鏡の奥で目を光らせた。
「でしたら、肩と背中にだけ少し余裕を持たせましょう。お嬢様の荷物を持ち、扉を開け、椅子を引く動作が増えますから」
「……よくご存じで」
「昔、そういう仕事をしていたもので」
主人の言葉に、リリーが興味深そうにこちらを見た。
俺は軽く肩をすくめる。
「前職も、似たようなものです。
ただ、今は世界が平和になったので、少し仕事が余りました」
「だから、執事になってくださったのですか」
リリーの問いに、俺は少し考えてから答えた。
「そうですね。……役が、少しばかり余りまして」
彼女は、いたずらを見抜いた教師のように、しかし優しく微笑んだ。
「では、余った役を、わたくしが預からせていただきますわね」
その言い方があまりにも真面目で、思わず笑いそうになる。
笑ってしまえば、彼女の誠実さを軽んじることになる気がして、喉の奥でなんとか飲み込んだ。
数日後、仮縫いの日。
仕立て屋の奥の試着室から、そっとカーテンが開いた。
淡い灰青のドレスに身を包んだリリーが、少しだけ戸惑ったような、しかし誇らしげな顔で立っている。
「……どう、でしょうか」
「問題ありません」
口から出たのは、あまりにも事務的な言葉だった。
本当は、もう少し何かあったはずなのに。
リリーは不安そうに鏡を見て、自分の裾をつまむ。
「どこか、おかしなところがあれば、遠慮なく教えてください。これは、ただの“ごっこ遊び”ではありますけれど、わたくしにとっては重大な――」
「お嬢様」
言葉を遮るように、俺は一歩近づいた。
鏡越しに、彼女と視線がぶつかる。
「とても、お似合いですよ」
それだけ告げて、彼女の髪飾りに手を伸ばした。
試しにつけてみたリボンの位置が、少しだけずれている。
「少し失礼します」
指先でそっと、リボンの位置を整える。
柔らかな髪が、指の甲をかすめた。香りの弱い、けれど清潔な石鹸の匂いがした。
鏡の中で、リリーの頬がゆっくりと赤くなっていく。
「……本当のお嬢様になれたみたい、です」
小さく、そう呟いた。
その声には、長いあいだ心の中で温めてきた憧れと、今ようやくそれに触れた戸惑いとが、同時に混ざっていた。
「ごっこでも、本気にすれば、だいたい本物になります」
俺が言うと、主人が奥から「名言ですね」と笑った。
リリーも、緊張の中で、少しだけ肩の力を抜く。
採寸と仮縫いが終わると、主人が納期を告げた。
そのあいだに、俺は小さな帳面を取り出す。
「では、お嬢様。長期休暇のあいだの“任務計画”を立てましょう」
「任務計画?」
「はい。一週間に何度お嬢様ごっこを行うか、市場散策の日、庭園に行く日、美術館に行く日――」
項目を挙げていくと、リリーは目を輝かせた。
「そんなにたくさん、よろしいのですか?」
「“期待に添える働き”をしたいので」
俺がそう答えると、彼女は眉尻を下げて、少し困ったように笑った。
「……わたくしも、あなたの期待に応えられるようにしないと、ですね」
「お嬢様の期待は、俺が勝手に膨らませているだけですから」
「それはずるいですわ」
帳面のページに、いくつもの小さな予定が並んでいく。
市場、庭園、噴水、美術館。
どれもただの「ごっこ遊び」のはずなのに、その文字列は、妙に愛おしく見えた。
――これは、執事としての仕事の工程表だ。
そう言い聞かせながらも、俺は気づいている。
この表をいちばん楽しみにしているのは、おそらく、俺のほうだということに。
0
あなたにおすすめの小説
「地味ブス」と捨てられた私、文化祭の大型スクリーンで王子様の裏の顔を全校生に配信します
スカッと文庫
恋愛
「お前みたいな地味女、引き立て役にもならないんだよ」
眼鏡にボサボサ頭の特待生・澪(みお)は、全校生徒が見守る中、恋人だった学園の王子・ハルトから冷酷に捨てられた。
隣には、可憐な微笑みを浮かべる転校生・エマ。
エマの自作自演により「いじめの犯人」という濡れ衣まで着せられ、学園中から蔑まれる澪。
しかし、彼女を嘲笑う者たちはまだ知らない。
彼女が眼鏡の奥に、誰もが平伏す「真実の美貌」と、学園さえも支配できる「最強の背景」を隠していることを――。
「……ねぇ、文化祭、最高のステージにしてあげる」
裏切りへのカウントダウンが今、始まる。
スクリーンの裏側を暴き、傲慢な王子と偽りのヒロインを奈落へ突き落とす、痛快・学園下剋上ファンタジー!
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
バッドエンド予定の悪役令嬢が溺愛ルートを選んでみたら、お兄様に愛されすぎて脇役から主役になりました
美咲アリス
恋愛
目が覚めたら公爵令嬢だった!?貴族に生まれ変わったのはいいけれど、美形兄に殺されるバッドエンドの悪役令嬢なんて絶対困る!!死にたくないなら冷酷非道な兄のヴィクトルと仲良くしなきゃいけないのにヴィクトルは氷のように冷たい男で⋯⋯。「どうしたらいいの?」果たして私の運命は?
王宮メイドは今日も夫を「観察」する
kujinoji
恋愛
「はぁぁ〜!今日も働くヴィクター様が尊すぎる……!」
王宮メイドのミネリは、今日も愛しの夫ヴィクターを「観察」していた。
ヴィクターが好きすぎるあまり、あますところなく彼を見つめていたいミネリ。内緒で王宮メイドになり、文官である夫のもとに通うことに。
だけどある日、ヴィクターとある女性の、とんでもない場面を目撃してしまって……?
※同じものを他サイトにて、別名義で公開しています。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
身を引いたのに、皇帝からの溺愛が止まりません ~秘された珠の還る場所~
ささゆき細雪
恋愛
五年前、内乱の混乱のなかで姿を消した最愛の妃・白瑤華(はくようか)。
彼女を失った皇帝・景玄耀(けいげんよう)は、その後ただ一人を想い続けながら執務に追われていた。そんなある日、書類に彼女の名前を発見し、居ても立っても居られなくなる。
――死んだはずの彼女が、生きている?
同姓同名かもしれないが確かめずにいられなくなった彼は地方巡察を決行。そこで、彼によく似た幼子とともに彼女と再会、地方官吏として働く瑤華と、珠児(しゅじ)を見て、皇帝は決意する――もう二度と、逃がさないと。
「今さら、逃げ道があると思うなよ」
瑤華を玄耀は責めずに、待ちの姿勢で包み込み、囲い込んでいく。
秘された皇子と、選び直した愛。
三人で食卓を囲む幸福が、国をも動かすことになるなんて――?
* * *
後宮から逃げ出して身を引いたのに、皇帝の溺愛は止まらない――これはそんな、中華風異世界ロマンス。
行き遅れ令嬢の再婚相手は、ダンディな騎士団長 ~息子イケメンの禁断の守護愛~
柴田はつみ
恋愛
貧乏貴族の行き遅れ令嬢リアナは、28歳で社交を苦手とする大人しい性格ゆえに、結婚を諦めかけていた。
そんな彼女に王宮から政略結婚の命令が下る。再婚相手は、妻を亡くしたダンディな騎士団長ギルバート。
クールで頼れる40代のイケメンだが、リアナは「便利な道具として選ばれただけ」と誤解し、切ない想いを抱く。
さらに、ギルバートの息子で爽やかイケメンのエリオット(21歳)が義理の息子となる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる