『急募:執事ごっこに付き合ってくれる方』 ーーお嬢様に憧れたわたくしと誰かの"役"になりたい俺

星乃和花

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第二話 市場午后、甘やかしの条

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〈条二・楽しい:笑いは零す。作らない〉

 

 新しいドレスが仕上がるまでの数日のあいだ、わたくしたちは、少しずつ「お嬢様ごっこ」の準備を進めた。

 契約書の文言を直したり、任務計画表を埋めたり。
 どれも机の上の作業ばかりで、外には出ていなかったのだけれど――

「本日は、視察に出ましょう、お嬢様」

 待ち合わせ場所の広場に現れたアッシュは、いつもの地味な外套のまま、淡々とそう宣言した。

「視察?」

「本番前の、市場の動線確認です。人の流れと、段差と、休憩地点の把握を」

 そこまで言ってから、わたしの顔を一瞥する。

「それに、条二の“楽しい”を満たすためにも、甘いものの供給源を確保しておく必要があります」

「……なるほど、重要案件ですね」

 真顔で言われると、つられて真面目に返してしまう。

 考えてみれば、「ごっこ遊び」そのものを、ここまで本気で扱ってくれる人に会ったのは、初めてだった。

 

 昼下がりの市場は、活気に満ちていた。

 焼き立てのパンの匂い、香辛料の混ざった空気、通りの向こうから聴こえる楽器の音。人の声が重なり合って、波のように耳に押し寄せてくる。

 アッシュは、そんな雑踏の中で自然に半歩前へ出た。
 誰かにぶつからないように周囲を見ながら、時々わたしのほうを振り返る。

「人の流れが少し速いですね。歩幅を小さくして、肩をすぼめていただけますか」

「こう、でしょうか?」

 言われた通りに歩調を変えると、彼は満足げに頷いた。

「はい。そのほうが、ぶつかられたときの衝撃が小さくて済みます」

「ぶつかられる前提なのですね?」

「人の波は、完全には避けられませんから。衝撃を最小限に抑えるのも、執事の仕事です」

 あまりにも実務的な説明に、思わず笑ってしまう。
 するとアッシュは、さりげなく帳面を取り出した。

「……笑い、ひとつ」

「え?」

「いえ。条二の“楽しい”の達成度を、簡易的に記録しておこうかと」

 真顔でさらさらと書き込む。覗き込むと、「本日 笑い:1」と小さく記されていた。

「そんなふうに数えられると、なんだか恥ずかしいですわ」

「ご安心ください。誰にも見せません。個人の業務評価用です」

「アッシュの?」

「はい。お嬢様の笑いを何回引き出せたかは、執事としての重要指標ですから」

 重要指標――。

 わたしが「楽しい」を願ったときよりも、その言葉にずっと具体的な重みが加わっている気がした。

 

「まずは、パン屋に参りましょう」

 アッシュに導かれるままに歩いていくと、市場の一角に、石窯のあるパン屋が見えてきた。

 店先には、こんがり焼けたパンがずらりと並べられている。
 表面に光るバター、胡麻の香り。窯から出したばかりの黒パンからは、湯気が立ち上っていた。

「こちらの店は、表の列が長いように見えますが、回転が速いので待ち時間はそれほどではありません」

 アッシュは人の列をざっと見渡し、すばやく判断する。

「ただ、列に並ぶ位置は調整したほうがよさそうですね」

「調整?」

「日差しが強いので、このあたりのほうが影になります。
 それに、そこにいると、前を通る荷車とぶつかる可能性がある」

 言われてみれば、確かに列の先頭付近には、荷車が通るたびに人が肩をすぼめている。アッシュは何も言わず、スッと私の前に入り込み、さりげなく列の位置をずらした。

「お嬢様、こちらへ」

 差し出された手に、思わず指先を乗せる。
 大げさな仕草ではない。それでも、その一瞬だけ、世界の速度がわたしに合わせてくれたような気がした。

「甘い菓子パンがよろしいですか? それとも、食事向けのものを」

「うーん……両方、気になります」

「では、甘いものをひとつ、食事向けをひとつ。あとは、見た目で選びましょう」

 パンを選ぶのに、こんなにも真剣になる人を、わたしは見たことがない。

 列が進んでいくあいだ、アッシュは店内の棚の様子をじっと観察していた。
 どのパンが先に減っていくか、焼き上がりのタイミングはどうか。まるで戦場の地形を読むような眼差しで、パンの陳列を分析している。

「……そんなに見て、どうするのですか?」

「人気のものと、まだ試されていないものを見分けるためです」

「試されていないもの?」

「ええ。皆がまだよく知らないものは、時に“掘り出し物”になります。
 お嬢様にお出しするものは、安心できる定番と、少しの冒険があるほうが良いかと」

 そんなふうに言われると、パン一つが、少しだけ特別なものに思えてくる。

 

 パンをいくつか紙袋に入れてもらい、わたしたちは、広場の外れにある小さなベンチに腰掛けた。

「では、試食兼、視察の休憩といたしましょう」

 アッシュが紙袋から、一つのパンを取り出す。
 表面に砂糖がまぶされた小さな丸パン。中には果物のジャムが入っているらしい。

「半分にしましょうか?」

「いえ、お嬢様の口に合うかどうかを確認するのが先です。俺の取り分は、そのあとで問題ありません」

「……なんだか、悪いですわ」

「仕事ですから」

 その言い方があまりにもあっさりしていて、かえって心に引っかかった。

 わたしはパンにかじりつく前に、一度だけ息を整えた。
 そして、小さくひとくち――。

「……おいしい」

 思わず零れた言葉に、アッシュの表情がわずかに緩む。

「甘さはどうですか?」

「強すぎず、でもちゃんと甘くて。生地も柔らかいです」

「よかった」

 彼は帳面を開き、「甘さ:問題なし」「食感:良」と簡潔に書き込んだ。

「そんなふうに記録されると、パンなのに試験を受けているみたいですね」

「パンも真剣勝負ですから」

 きっぱりと言い切られて、また笑ってしまう。
 アッシュの視線がすぐに帳面に落ち、「笑い:2」という文字が増えた。

「……数えなくてもいいのですよ?」

「いえ。これは俺の給料に関わる重要指標です」

「給料?」

「心の、です」

 さらりと付け足された言葉に、胸の奥が少し熱くなった。

 

 パンの他にも、果物屋で小さな葡萄を一房購入した。
 店主の好意で、試食用の粒を差し出される。

「お嬢ちゃん、これ、食べてごらんよ」

「あ、ありがとうございます」

 葡萄を摘もうとした瞬間、アッシュの手がそっと添えられた。

「お嬢様、お口の横についてしまいますので、もう少し小さい粒から」

「……子ども扱いされている気がしますわ」

「お嬢様扱いです」

 訂正されて、なぜか負けた気がする。

 でも、実際、小さい粒を選んで食べると、汁が溢れすぎずに済んだ。
 そんな些細なことにも、彼は気づいているのだ。

「アッシュは、本当に……よく見ていらっしゃいますね」

「職業病です。
 以前は、目を光らせていないと、誰かが傷ついたり、何かが破綻したりしたので」

 あまりにも淡々とした言い方に、わたしは言葉を失う。

 平和になった世界の中で、その「以前」の重さを、簡単に測ることはできない。
 でも、一つだけはっきりしていることがある。

 ――今、彼はわたしのために、その目を使ってくれている。

 自分だけのために、よく見る目を持った人。
 それが、こんなふうに隣にいて、パンの甘さや葡萄の汁の量を一緒に考えてくれている。

 胸の奥で、何かがじんわりと溶ける。

「……楽しいですわ」

 気づいたら、自然に言葉がこぼれていた。

「え?」

「市場を歩いて、パンを選んで、葡萄をいただいて。
 アッシュが“お嬢様扱い”をしてくださることも含めて」

 アッシュは、少しだけ目を瞬いた。

「それは、何よりです」

 それから、帳面に一行を書き足す。

「楽しい:お嬢様より申告あり」

「それも記録されるのですね……」

「重要情報ですから」

 くすっと笑うと、また「笑い:3」の文字が増えた。
 冗談みたいなのに、真剣で。真剣なのに、どこか可笑しい。

 ――きっと、この人と一緒なら。

 わたしの「ごっこ遊び」は、想像していたよりも、ずっと豊かな時間になるのかもしれない。
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